題名:

ザ・ゲーム

観劇日:

2004年2月20日

劇場:

新国立劇場

主催:

新国立劇場   

期間:

2004年2月20日〜28日

作:

イオネスコ

翻案:

ジム・チム オリビア・ヤン

演出:

ジム・チム オリビア・ヤン    
美術:
チャン・マントン

照明:

キウ・チータッワン

衣装:

クオン・アーライdress}

音楽・音響:

チャン・マントン music}

出演者:

ジム・チム オリビア・ヤン
 



「ザ・ゲーム」
 

 小劇場の通路はいつも暗い。この日は通路に中から規則正しい音が響いていた。円形の舞台を二つの分厚い大きな円環が斜めに取り巻いているという抽象的な装置である。舞台の床には強い光線でデジタル時計の文字が投射されていて、その秒を刻む時計の音が通路に漏れているのであった。10分ほどあって、7の横に0が四つ並んでもなかなか始まらない。なぜかほっとした。音は、僕らが時間の中を生きていることをいやおうなく突きつけてくるが、その時間は僕らの外の時間である。芝居はその時間を無視して、2分ほどしてから唐突に始まった。暗転の中、デジタル時計の数字や何かの数字の光が飛び交って、大きな円環にぶつかってはゆがめられどこかへ消えていく。なかなか面白い趣向である。「時空がある定点で永遠に静止している。辺りに拡がる重い沈黙。」と説明にあったが、これがその場面かと思う。
 二人の登場人物が背中合わせに出会ってびっくりする。指が六本あるかと思った。綿入れのように腹に背中に丸く膨れた木綿袋の様な胴着を纏って、胸の辺りと見える裂け目から腕を突き出している。その手の指が大きく開いていて、親指など外側にそっているものだから果たして指が六本に見えたのだった。人は驚くと目を見開く。と同時に手を大きく開いて身構える。手の表情が伝えることは多い。その手は青く塗ってある。目の回りを白く縁取りその外は青い。頬にいくにしたがって白くグラデーションが掛かっていて口の周りがまた白い。目の縁と唇の赤が異様に浮き立って見える。頭には二つの詰め物でこぶを作りそれを包むようにして白い頭巾であごまですっぽりと覆っていて、まるで昆虫の着ぐるみでも着ているような何とも奇妙ないでたちである。
 百歳をこえた男女二人の老人という設定だから、もはや人間であってもなくても、「・・・のようなもの」であって不都合はない。いやむしろ完ぺきな身体表現=パントマイムに大きな声と簡単な台詞という芝居にふさわしい象徴性の高い造形というべきで、このオリジナリティ 溢れる感覚を評価したい。
 こんな芝居は初めて観た。パントマイムの基礎がしっかりと肉体化されているのを見るのは久しぶりだ。しかもよく透る声と台詞が伴っている形式は、我が国には無かったように思う。一線から退いたよねやまままこのスタジオを市谷に訪ねたことがあったが、閑散としていた。可能性はあるのに無言であることが世界を狭くしてしまっているかもしれない。この芝居を観て俳優はパントマイムをやっておくべきだという思いを強くした。このような形式の舞台をヒットさせる香港の演劇界とはどういうものか興味が湧くところである。
 この芝居はイオネスコの「椅子」をジム・チムとオリビア・ヤンの二人の俳優が翻案したものだという。「椅子」は読んでいないが、全体のストーリー展開をみると原作にかなり忠実に構成したものではないかと言う気がした。ストーリーといってもイオネスコのことだから、何かの顛末を語るというものではない。例によって退屈な二人がいてゲームを始めるが、それもつかの間再び退屈な時間がやって来て二人は沈黙する。突然女が男に対して「向上心が無い。」と攻め立てゲームを続けるよう迫る。「中に入れない町」というゲームを懸命に行う二人だが、ついにいつものように中に入れてもらえずゲームオーバーとなる。町には夢があるという。そこに入れないことに絶望した男は、こんな惨めな存在になったのは自分を捨てた母親のせいと嘆く。しかし、女はまだ希望があると告げる。重要な「メッセージ」すなわち人類を救うために全世界に対して言うべきメッセージを発表する使命が残っているというのだ。そんな才能はないと悟った男は「弁論界の大物」にその使命を託すことにする。そして、そこには世界中の社会的な地位のある人物を招待することにしようと決め、準備を始める。最初にやってきたのは少女。青春の美貌を褒め称えるがやがて自分のように見にくく老いるのだとののしる。次にやって来たのは将軍。男は調子を合わせて、将軍の残虐な殺戮行為は正義の上に立った正当なものと称える。将軍から銃を借りた男は、妄想に走って権力を批判し不公平な世界を思いっきり否定するが、仕舞には殺されて妄想から醒める。つぎは男女のもと恋人。二人は甘い思い出に浸り再び互いに誘惑しようとする。しかし、愛が満たされ無いまま子どもが産まれ、人生とは不条理でむなしく支離滅裂なものだと宣言する。長い沈黙の後、ドアホンが鳴って、今度は一気にたくさんの客が訪れる。二人は椅子を次々に並べていそがしく対応するが、「弁論界の大物」はまだやって来ない。そこへ聖人が到着する。聖人も「弁論界の大物」はいつくるのかときくが、応えられない。客が騒ぎだしたとき、突然電話が鳴って、もうすぐ到着するとの知らせ。客と一緒にカウントダウンを始めるが、・・・しかし「弁論界の大物」はついに現れることが無かった。人々は次々に帰り始め、残ったのは老人二人と客が座ったたくさんの椅子だけ。長い沈黙と疲労感と孤独。このゲームを終わりにするときが来たのだ。
 
  退屈は罪である。人生が特にやるべきこともなく無意味だと思うのは神への背信であり、したがって退屈とは神の不在である。イオネスコは神の不在からこの物語を語り始めた。と僕は勝手に解釈した。(この神の不在のもとでは)人生は不条理に満ちていて価値のないものだと二人は嘆いた。しかし、このような不幸な人類を救うために全世界に対して言うべきメッセージがあるではないかと気を取り直させる。ただしそれをやるには自分のようなものには荷が重いから、それにふさわしい「弁論界の大物=話のうまい説得力のある人物のことだと思うが」に頼んでみようというのである。考えてみるとそれは「救い主」を待望することであり、いわゆる終末思想をうかがわせる隠喩のように見える。そして散々待ったあげく結局くだんの大物はやってこないのであるが、したがって「人類が救われる」のを待つこと自体が終わりの無いゲームと化してしまう。イオネスコはこのような皮肉をこめて、西欧的な思想の中にある人生と社会を笑い飛ばしたのかもしれない。
 イオネスコのあとに続いたベケットの「ゴドーを待ちながら」も「待つ」という意味ではシチュエーションが共通している。何かを待つことは不条理劇によく登場する定番シーンとも言えるが、それが何かを考えた場合、どうもこのような思想あるいは西欧キリスト教的文化を補助線にした場合よく理解できることかもしれないという気になってきた。
 そう考えると、開幕前から時を刻むデジタル時計もまた、一方向に容赦なく流れていく時間、すなわち僕らが時々街角で耳にする「悔い改めなさい、終わりの時は近づいている。」というあの脅迫めいた言葉に現れる終末を思わせる。実際その音と、舞台に投射されている数字は最初にも書いたように情け容赦なく迫り来る感じがあって、7の後ろに0が並んだときには思わず目をつむったのであった。
 ところが、ジム・チムとオリビア・ヤンの二人は、僕の目にはしたたかに映った。
まず、時間のことであるが、おそらく開場とともに既にリアルな時を刻んでいたデジタル時計が開演の時になっても、この二人が芝居を始めなかったのはかなり確信犯的にやったことではないかと思う。ひょっとしたら袖のスタッフの準備が整っていなかったということもあるかもしれないが、どの道このように表現される時間を重要視していなかったということである。僕らは肩透かしをくらったのだが、かえってこうした時間意識には違和感を覚えていたのだから、この「いい加減さ」に共感を抱いたのだった。
 ジム・チムとオリビア・ヤンは、そのことで内心舌を出して笑ったに違いないが、それだけではなかった。
 円形の舞台に真上から投射された時刻の周りを大きな円盤で二重に囲んで、まるでこうした時間を封じ込めるような印象を作りだした。
 これは時間というものが審判の時に向かって一方向に流れるという世界観とニュートン的合理主義における時間をともども括弧にいれたに等しいのである。
 そうしておいて、最初に訪ねてきた美しい少女に、やがて醜く老いるのだとののしり、将軍の登場には故ある「殺戮」を褒め称えつつ、逆に自らが殺人者になる妄想を抱いて見せる。また恋愛という優美な幻想の涯に、子が産まれることを、股の間から手のひらで作った子どもの頭をとりだすしぐさで表現するというような人生の醜悪さや現実を容赦なく見せつける。
 これがイオネスコの言う不条理ならば、人生とは徹頭徹尾不条理なものであると、この二人は言いたそうなのである。
 つまり、人間はこのようおなじことを繰り返し生きて死んでいく存在であり、少しは知恵もつくだろうがたいして進歩するわけでなく、人生とは、退屈といえば退屈、愚かといえば愚かなものだと笑い飛ばしているのだ。これを輪廻転生というのはすこし言い過ぎなのだが、時間が緩やかに円形を描いて、やがて円環に至るという人生観時間感覚を二人はこの舞台装置に託していたのである。
 このようにイオネスコの「椅子」は、ジム・チムとオリビア・ヤンの東洋的な感覚によって換骨奪胎され、日本の劇場に登場したのであった。こんなにも知的な笑いに満ちた、しかも想像世界の拡がるパフォーマンスは久しぶりに見た気がする。
しかしながら、・・・という僕の感想は、単なる妄想かもしれない。
              

        (3/8/2004)                   

 


新国立劇場

Since Jan. 2003