題名:

父と暮らせば

観劇日:

04/7/30

劇場:

紀伊国屋サザンシアター

主催:

こまつ座      

期間:

2004年7月27日 〜8月 1日

作:

井上ひさし

演出:

鵜山仁

美術:

石井強司      

照明:

服部基    

衣装:

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音楽・音響:

宇野誠一郎

出演者:

辻萬長 西尾まり
 
{ポスター}


「父と暮らせば」


 「・・・あの芝居を書く直接のきっかけは二つの言葉でした。ひとつは、広島の原爆投下に関する昭和天皇の『広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえない』という一言(75年10月31日)。もう一つは、中曽根康弘首相(当時)が広島の原爆養護老人ホームで原爆症と闘う方々に『病は気から。根性さえしっかりしていれば病気は逃げていく』と語ったこと(83年8月6日)。これを聞いたときにキレて、どうしても書かねばと思いました。・・・」(99年8月4日「朝日新聞」井上ひさし談)
もう一つたまたま読んだ今日の朝刊(8月10日朝日新聞)から引用しよう。大江健三郎は『伝える言葉−−折り鶴にたくされた祈り−−』と言う文章の中で次のように書いている。
「・・・他の人の痛みを、自分の肉体のこととして(当然に、自分の心のこととしても)感じ取ることが出来るのは、ただ想像力によってのみだ、と教育について書いた『エミール』で、ジャン=ジャック・ルソーはいっています。もうひとりの哲学者の名をあげるなら、広島の原爆に始まり核兵器によって世界が滅びうるという、今日の人類の実存について根本的に考えたマーティン・ハイデッガーは、人間が倫理的になる(よく生きることを考えるようになる)のは、『死すべきものであること』を悟るときだと言いました。・・・」(相変わらず読みにくい文章だなあ!)
あの朝、キノコ雲の下でどんな凄惨な光景が繰り広げられていたか、それは体験したものしか知りえない。むろん僕らはあのむごい、目をそむけたくなるような写真や記録フィルムを見て衝撃を受けた。しかし、その痛みや傷ついた心を理解するにはJ・J・ルソーを待つまでもなく想像力を働かせる以外にない。想像力の原点は観察することであり、観察は知識によって導かれなければならない。すなわち教育である。敗戦時に少壮の将校だった中曽根康弘は神国は根性で勝てるという教育を忘れなかったと見えて思わず本音を漏らしたのだろう。しかしこんな想像力を欠いた発言はいくらでもある。教えることの大切さを大江健三郎はいおうとしたのである。
ただ、もう一つ方法があると思う。それは物語ることだ。井上ひさしは原爆の惨禍を物語に託して伝えることによって人々の想像力を喚起しようとした。
僕は94年の初演(すまけい+梅沢昌代)は見ていないが、前田吟+春風ひとみ(98年)と沖恂一郎+斉藤とも子(99年)を見た。そして今回の辻萬長+西尾まり。それぞれの個性は見えるのだが、それを競うことが無意味の芝居だといつも感じた。役柄が俳優の個性を圧倒しているのである。鵜山仁も語っているが、演出を変えようと思っても結局は同じところへ戻ってくるというように、これはすでに極めて完成度の高い戯曲であり舞台なのである。
原爆から三年経った夏、福吉美津江(西尾まり)は広島の市立図書館の司書として勤めている。広島市比治山の東側にあるバラックのような美津江の家。稲光がゴロゴロいっているにわか雨の夕暮れ、飛び込んできた美津江に押し入れから父親の竹造(辻萬長)がここへ隠れろと呼び入れる。「おとったん、やっぱあ、居(お)ってですか。」と始まる全編広島弁の二人芝居である。
美津江はある日原爆の資料を探してやってきた青年に応対する。原爆関係のものは占領軍が目を光らせているから用心したほうがいいと親切に教えたことから青年は美津江に関心を抱いたようだ。青年の名は木下正。戦前は呉の海軍工廠で教官をしていたが、敗戦で母校東北帝大の大学院に帰り、この春から広島の文理科大で授業嘱託(助手)を勤めている。木下は何くれとなく美津江に好意を示し、美津江もそれを理解しているが、自分はそれを受け止める資格がない、幸せになってはいけないとかたくなに思い詰めている。竹造はそんなことはない、木下は夏休みに岩手のうちへ来ませんかとまで言ってくれているではないか、もっと素直に応じたらどうだとやきもきしている。
そうこうしているうちに、木下の集めた原爆資料が下宿にはいりきれなくなって、美津江が家で預かることにした。最後の荷物を取りに行っている間、風呂を沸かし、食事とビールを用意していたが、美津江は突然心変わりをしたように書き置きをし、戸締まりをしてでていこうとする。
竹造は「お前は病気じゃ。」という。亡くなった友達に対して生き残って申し訳ない、後ろめたい病だという。すると美津江は申し訳ないのは「おとったん」に対してだと意外なことを言う。
あの朝、父娘は家の玄関先でB29が何かを落として去るのを見ていた。謀略ビラかと思って眺めていると、娘はそれに気を取られて投函しようと持っていた親友昭子宛の手紙を落とした。拾い上げようと石灯籠の下にしゃがむ。父はその落ちてきたものが炸裂するのをまともに見た。「真ん中はまぶしいほどの白でのう、周りが黄色と赤を混ぜたような気味の悪い色の大けな輪じゃった・・・」娘は石灯籠の下で世間全体が青白くなるのを感じる。
二つにわけて収納されたウラン235が一緒になり臨界点に達する濃度に高まったところへ一個の中性子が打ち込まれると核分裂が始まり制御するものがなければ一瞬にして全体が別の原子に変わる、そのとき失われた質量の分だけエネルギーとなって放出される。それは質量×光速(秒速30万km)の二乗、中心の温度は一万二千度、爆風は秒速350メートル、そしておびただしい量の放射性物質。二十世紀の物理学はとんでもないものを発明してしまった。
父はこの熱に焼かれた。気がつくと二人は倒壊した家の柱や梁、瓦屋根の下敷きになっている。娘は必死の思いで這い出すが、父を助け出すことが出来ない。火は迫ってくる。
娘は父を見捨てたことが深い心の傷となって自分を許せないと思っていたのだった。しかし、父は自分のことは納得づくだったという。だからこそ自分の分まで生きてくれと父は願った。だからおまえは「わしによって生かされとる。」あんなむごい別れが何万もあったことを覚えてもらうために生かされているというのだ。お前がわからなかったら他の誰かを代わりに出せという。「ほかのだれかを?」
父はおそらく娘がもう気づいていることを確信していたのだろう。様々の意味を込めて「わしの孫じゃが、ひ孫じゃが。」という。
ハイデッガーがいった人間は『死すべきものであること』を悟ることによってよりよく生きようとするという言葉が、核兵器によって人間の未来が閉ざされてはならないと言う意味ならば、この竹造のせりふは既に死んだものからのよりよく生きよという悲痛な叫びに聞こえてくる。
美津江は木下の気持ちを受け入れる決心をしたようだ。
この芝居では美津江のせりふを通じて広島の被爆の様子がいくつか語られる。
火の中を逃れた美津江はようやく宮島の知人宅にたどり着くと、三日後再び「魚を焼くようなにおいの立ちこめる」中をうちに戻り、灰の中から父の骨を拾った。それから西観音町の親友昭子の母を尋ねると背中に大きな火膨れを負って防空壕の中にふせっている。岡山水島に生徒を連れて勤労奉仕をしていたはずの昭子があの朝ひょっこり帰ってきていて、千田町の赤十字社支部の辺りでピカを浴びたという。母親が探しあてたときは支部の裏玄関の土間に並べられていた。
美津江「(うなずきながらしゃくり上げ)もんぺのうしろがすっぽり焼け抜けとったそうじゃ、お尻が丸う現れとったそうじゃ、少しの便が干からびてついとったそうじゃ・・・・・・」
また、友人達の消息もむごいというより他に言葉もない。
美津江「うちの友だちはあらかたおらんようになってしもうたんです。防火用水槽に直立したままのうなった野口さん。くちべろが真っ黒にふくれでてちょーどナスビでもくわえているような格好で歩いとられたいう山本さん。卒業してじきに結婚した加藤さんはねんねんにお乳を含ませたまま息絶えた。加藤さんの乳房に顔を押し付けていたねんねんも、そのうちにこの世のことは何も知らずあの世へいってしもうた。中央電話局に入った乙羽さんは、ピカに打たれて動けんようになってしもうた後輩二人を両腕に抱いて、『私らここを離れまいね』いうて励ましながらのうなったそうです。・・・」
井上ひさしは被爆者の語ったそのままの言葉を伝えるのが作家の義務であり、誠意であると考えたのであろう。、淡々とした語り口のなかに原爆とは何かを想像するためのいわば種になるものを観客に植え付けたのである。
しかし、それだけでは人の痛みというものが伝わらない。
この芝居の重要なモチーフ『原爆瓦』である。
呉から広島の様子を見に来た木下が腰掛けようとしてちくちくとした痛さに飛び上がる。それが原爆瓦であった。木下は理系の研究者らしくそれをきっかけに原爆資料を集めだしたのだ。
高熱で焼かれた瓦は表面が溶けて泡立つ。そこへ爆風がやって来て波頭が一方向へ向くようにささくれ立ってしまったものだ。これをとりいれて竹造が「一寸法師」の広島版として語るのである。(もうひとつの語り伝えるというモチーフ=昔話研究会のエピソード)自分を鬼の身体に飲み込まれた一寸法師に見立てて、針の刀の代わりに「原爆瓦でごしごしやったらどうじゃ」「人間の身体をハリネズミのようにしくさったガラスをくらへ」などといって暴れ回る場面は美津江がまゆをひそめるほど恐ろしく皮膚が傷つき破れるような痛さを感じさせた。
原爆の話となると、気が重くなるという人は多いかもしれない。
それについて面白い話をパンフレットの中に見つけた。
この芝居を観て父、竹造が実は死んでいたことに気づかなかった人がいるということだ。ある人は、帰りの電車の中で「アッ!そうか」と思ったそうだ。
僕はさすがにそれはなかったが最初は「竹造は三年間どこに居たのだろう。」と思っていたものだ。
実際には、せりふの中にあるのだが、美津江の恋心が芽生えたときに胴体がうまれ、ため息から手足が、ときめきから心臓が出来たというのである。つまりは美津江の恋の応援団というわけである。原爆がテーマであることは間違いないが、物語の骨格は、娘の恋の行方にやきもきする父親の話である。それがユーモアたっぷりに語られるものだから、竹造が現在生きていようといまいとあまり気にならないということなのであろう。
この芝居を書く動機を「キレた」からというわりには極めて冷静に、重たくなりがちなテーマを本質をずらさずに楽しく見せる手腕には、もはや言葉をうしなう。これは間違いなく井上作品の傑作中の傑作であろう。
香港公演も決まっている、また英語に翻訳されたとも聞くが、願わくば、世界中の人々に見てもらいたい芝居である。
最近歳のせいか涙もろくなって仕方がない。明治の男はよく泣いたと聞くが、いまは泣いてる男を見る方が恥ずかしい。残念だ。こんどはハンカチ二枚持っていかねばなるまい。

 

    (2004.8.12)

 


 


新国立劇場

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