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「東京原子核クラブ」

理化学研究所の話とはいいところに目をつけたものだ。昭和7年、本郷の下宿屋「平和館」に寄宿するいわゆる「理研」の研究者を中心にした若者の青春群像を描いている。賄い付きの下宿は、いまでこそ少なくなったが、昔の学生は皆これだった。
下宿屋だのアパートだのという設定であれば、いろんな連中が出てきて話が面白くなると、マキノノゾミは書いている。確かに理研といい、下宿屋といい、設定のうまさがひかっていて、話の展開もテンポも快調に進行、休憩を入れて三時間に近い長さをあまり感じさせない。読売文学賞受賞も宜なるかな、と思って見ていたら、おやおや、二幕の後半から終幕までが腰砕け、締めくくれなくてめろめろになってしまった。戦争末期の原子爆弾開発の挿話は欠かせないところだが、書けていないのはあの当時の世相である。昭和三十四年生まれのマキノにはぎりぎり無理とは思えないのに、何故か最後の話に急速にリアリティがなくなった。惜しいなあ。
 舞台は正面に玄関のある下宿屋のホールで、安っぽい応接セットなどが置いてある。玄関を挟んで表札がかかったドアが都合三つ、右に階段を上ってホールを見下ろす廊下があり、二階には都合四つの部屋がみえる。下手には母屋へ通じる出入り口、上手に便所のドア、階段下は水屋で薄暗い。なるほどよく出来ている。これでガラス戸越しに台所や食堂でも見えたら、昔の下宿屋としては完璧である。
このドアの向こうに全く別々の人生がある、というところがドラマだと作家はいうのだ。
この日、理化学研究所の研究員で下宿人、友田晋一郎(田中壮太郎)は荷物をまとめて出て行こうとしている。研究所のレベルについていけないと自信を失ったのだ。この友田のモデルはノーベル賞の朝永振一郎である。もう一人出て行こうとしている者がいた。箕面富佐子(西山水木)はレビューの踊り子だが若い新米に役を奪われて、宗旨替えしようと決めたらしい。他に、銀座のピアノのひきで博打好きの早坂一平(千葉哲也)、新劇の作家で演出家、谷川清彦(檀 臣幸)、帝大野球部の橋場大吉(石井揮之)、理研の研究員、武山真先(田中美央)と小森敦文(佐川和正)がいる。
友田が出て行こうとしているところへ徹夜明けだという同僚の武山が帰ってくる。ズボンの裾を短く折って下着の上から白衣を羽織り、髪はぼさぼさ猪首には手ぬぐいといういでたちの大男である。途端に「ああ、こういう理科系の学生がいたなあ」という懐かしい思いがした。どういう作業していたのか、長い実験などしていると格好をかまっているわけにいかぬものらしい。武山がいうには、所長の西田義雄(山本龍二)が友田の書いた論文にえらく感心し、研究室のテーマにしようと話していたというのである。友田は一時帰郷ということに気持ちを切り替える。
所長の西田義雄とは仁科芳雄博士のことだろうが、当時理研の総帥は大河内正敏子爵であった。大河内は分野別に主任研究員を決めて運営をまかせたから、この劇では友田の上司は核物理の西田ということにしたのだろう。仁科が所長になったのは戦後のことである。大河内は登場しないが、戦前25年にもわたって理化学研究所を理想的な産学協同の拠点として経営してきた傑物である。戦犯容疑で巣鴨に収容されたときに「味覚」という食のエッセーを書いているが、これが実に面白い。上総大多喜藩の殿様の家に生まれただけあってかなりのグルメである。いや、合成酒やら味の素やらビタミン剤など食品の開発も多いところをみれば当然かも知れない。いま手元にないから確かめられないが、スッポンに関する記述は「美味求真」の木下謙次郎と双璧であると思った。これを読んでから元赤坂の「菊渟」に取材に行ったので、大いにコピーがはかどったことを覚えている。スッポンはさておいて、この大河内のことにも言及してくれるとよかったと思うのは無い物ねだりだよな。
脱線した。友田(朝永振一郎)が書いた論文を西田(仁科芳雄)が読んで、外国の科学誌に送る手はずになっていたが、忙しさにかまけてこれがいつも机の中にとどまっていた。ために友田の理論は最先端と思って提出しても、外国の研究者に先を越されることが度重なり、友田は次第に鬱屈していった。ホールでくだを巻いていた新劇の谷川清彦の酒をうばって、憂さ晴らしの酒の味も知った。
この谷川も、芸術家の気概は持っていたが報われない新劇の世界で鬱々としていた。書いた台本は検閲の墨が入ってずたずたにされ、当の本人に自覚はないが、当局ににらまれることになってしまう。たまに酔ってホールに現れ、下宿人に当たり散らしては怪優ぶりを発揮してストレスを解消するのである。
これとは対称的に、ピアノ弾きの早坂は、無口で人付き合いの悪い男だが、曲を頼めば部屋にあるピアノで壁越しに聴かせてくれる。むろんドアの間に心付けを差し込むのであるが。
ところでこの下宿屋を営んでいるのは大久保彦次郎(坂口義貞)と桐子(小飯塚貴世江)の親子である。彦次郎は隠居みたいなもので桐子が一人で下宿を切り盛りしていた。どういういきさつからか、桐子は化学を専攻していたことになっている。男勝りのインテリでいき遅れていた。やたらにほえる犬を飼っていて、これがガロワと呼ばれているので驚いた。誰かが「あの決闘で夭折した数学者のガロワか?」という場面があるが、その狂気じみた激しい性格の故にフランスの革命期を生き抜くことが出来なかった若き天才の人生を重ねていたのだ。桐子の教養とはそうしたものであった。すごいねえ。(ガロワについては藤原正彦の「天才の栄光と挫折」新潮社、に詳しい。)
あるとき武山を訪ねて海軍の軍人が現れる。理科大で同窓だった狩野良介(渡部聡)で、その後横須賀の技術将校になっていた。実は狩野は桐子の見合い相手であった。理化学研究所の様子を探りながら見合い相手にそれとなくあっておこうという魂胆だったのだろう。狩野に結婚の意思は始めからなかった。そのことは知らず、武山は近況を話すなかで、自分が携わっている実験装置、サイクロトロンに必要な電流が得られないとこぼす。密かに原子爆弾の可能性を探っていた狩野が、潜水艦の充電用の電池を使ってもいいと申し出る。
サイクロトロンは原子核、素粒子を研究するために欠かせない装置で仁科研究室は昭和十二年にはすでに完成させている。
友田の研究は当時世界が先を行こうと競っていた理論物理つまり相対性理論及び量子論であった。アイザック・ニュートンの古典力学では説明のつかない世界を理論づけたのはアインシュタインとボーアやハイゼンベルグのコペンハーゲン学派である。ところがアインシュタインは、「神は賽子を振らない」と暗に不確定性原理に疑義を呈し、両者のあいだには隔たりがあった。友田のテーマはこの二つを理論的に結びつけるもので、論文の発表は誰が先頭を走っているかを判定される重要な契機であった。
この論文送付にたびたび後れを取ってしまうので、友田はふてくされて下宿にこもっていた。そこへ、西田所長がやってくる。下宿人が緊張して見守る中、西田が帰ると友田は明日から自分が主任研究員だと笑みを浮かべて見せる。
この下宿から送り出され、ハイゼンベルグのもとへ留学して後、昭和十八年には相対論と量子論を完全に一致させる「超多時間理論」を発表して斯界に大いに貢献する。
一方で、第二次世界大戦がはじまり世界の関心は核分裂を利用した爆弾の製造にあった。科学者は皆可能性を疑わなかったが、おおっぴらに口にしなかった。その巨大なエネルギーの破壊力のせいである。アインシュタインの公式は、光速の秒速三十万キロメートルの二乗に原子の質量を乗じたものが、エネルギーに等しいことを表している。仁科にも朝永にも軍の要請は分かっていたが、実現には膨大な金と時間がかかると漠然と考えていた。
劇は、「真空ポンプ一つ手に入れるのに、こっちは注文してから半年かかるが米国では明日には届く。」という武山のせりふで彼我の差を表していた。
話は戻るが、あるとき帝大野球部の橋場が便所にこもって出てこない。下宿人が困ってなだめすかしているのは自殺でもされたらどうしようという心配だった。橋場は一昨日の試合で東大を久し振りの勝利に導く大活躍を見せた。のはいいが、これを大々的に記事にされたために偽学生であることがバレて自分も野球部も窮してしまった。学生の林田清太郎(佐藤滋)がやってきて、向こう一年自主的に出場停止するということで決着がついたと告げ、橋場のろう城は終わる。
母屋に読経が流れて通夜の様子のところへいまは出版社に勤める林田と印刷工になった橋場がやって来る。てっきり、下宿屋の親父大久保が亡くなったのか思っているが、どうも怪しい。どたばたやっているうちに、実は飼い犬のガロワが死んだことが分かるという仕掛けであった。
このあたりから戦局が悪くなってきて、橋場も林田も召集され、富佐子とピアノ弾きの早坂がつれだって満州に行き、新劇の谷川は特高に捕まり、空き部屋が目立つようになっていく。
この暗い時代の中に突然、昔の和やかだった時代の下宿屋の光景が一瞬現れたり、再びもどって空襲警報が鳴り響いたりとあまり意味のない演出があって、やがて橋場も林田も戦死したことが分かる。橋場が応召するときに林田はこんな負けが決まった戦争に行くことはないと兵役忌避を勧めるのだが、その林田も死んだ。橋場が玉砕を覚悟したときに書き送った手紙が一年後に届いて友田の涙を誘う。話が浮ついてリアリティを欠くといったのはこのあたりの時局のとらえかたである。
そして終戦後、焼け残った「平和館」に桐子と友田。桐子は原子爆弾の開発にかかわったことを責めるが、実は自分も海軍の狩野とのかかわりから後ろめたい気持ちを持っていた。友田は、正直に米国に先を越されたことは悔しいが、今世紀中に出来たのは驚いたと感想を述べている。最後は満州で死んだと思った富佐子が帰ってきて、桐子と抱きあって喜ぶ場面で終わる。
劇中友田の述懐のなかで「物理は一人の天才のひらめきによってのみ真理を獲得しえない。あとのものの役割はその天才に奉仕することである。」という意味のことをいわせているが、おそらく朝永振一郎の書いたものからとったのだろう。誰も彼も天才であるはずもないのだから真実はちがいないないだろうが、舞台で聞くと、「ほう、君がその天才か。なるほど理科系の人間は能天気なものだ」と思わせる。同じことでも他の表現あるいは発想はなかったのかといいたい。
科学者の責任などということに拘泥しなかったのは、マキノの世代ということもあるが、これはよかった。作っておいて責任もくそもない。アインシュタインが原爆製造に賛成したことを後悔していたなどと伝えられるが、そんなことに情緒的反応をしても何の意味もない。いまでは、世界最貧国北朝鮮だってもっている(という噂だ)。いまさら誰が、どこの科学者が責任を取るというのだ。
原爆が出来る原理は分かっているのにだれも作らないなどと考えるのはバカである。誰か必ず作る。作ったら使ってみたくなるのは当然だ。当時は米国にのみ作る金と力があった。敵はイエロージャップだ。「容赦なき戦争」(ジョン・ダワー)によると、太平洋戦争に人種差別的要素は濃厚にあった。トルーマンをためらわせるものはなにもなかったのである。では落とされた長崎、広島はどうなのだといわれると、昭和天皇にならって「気の毒だが、しかたない」という以外ない。それを盾に、日本は唯一の被爆国だと言い張るのは事実だからいいが、それだから核はやめてくれなどというのは屁の突っ張りにもなりはしない。「ああ、そうですか。」と言うことを聞いた相手がいただろうか?そんなことより、落としたらひどいことになると目に見せるほうがよほど抑止力にはなる。核兵器は冷戦時代も今も仮想敵があるから持ちたがるのだ。一方が使ったら他方も報復するだろう。そうしてお互い撃ちあってどちらも消滅してくれるならそれでよい。撃たれないには持たないのが一番だ。しかし、どこかのバカが撃ってきたら、どうするというものもいる。まあ、その時は死ぬだけだな。
桐子の後ろめたさは、少しばかり大げさである。自分も科学者の端くれだと思っているのであるが、こういう場合本音は「やったあ」である。そこから先は政治家の仕事で、アインシュタインだろうが湯川秀樹だろうが実は科学者の出る幕は無いに等しいのである。
日米開戦のあたりから終戦までの話をもう一度整理したほうがいいと思うが、全体としてみたら群像劇という要素と理化学研究所という素材のよさで面白く見せてくれた。
特に、キャスティングであるが、俳優座プロデュースというのはかなりの力があると見えて、いまもっとも脂の乗りきった俳優をよくもここまで揃えてくれたものだと感心する。
小飯塚貴世江は「セパレート・テーブルズ」のがさつなメイド役で達者なところを見せてくれたが、桐子ではもう少し知性が欲しかった。いずれにしても俳優座にしては極めて個性の強いユニークな役者であり、これからが楽しみだ。同じく俳優座からは田中壮太郎と田中美央それに渡部聡がでている。田中美央の武山は見事な造形であった。
千葉哲也、ガジラの鐘下辰男と一緒のことが多かったが、どうもこの俳優アチコチから引っ張りだこのようである。決して器用ではないが、存在感がある。そろそろ当たり役を作って欲しいところだ。
さすがに青年座は層が厚い。先日森塚敏さんが亡くなったが、出身の俳優座、それに民芸、文学座の老舗劇団を抜いていまもっとも安定した実力を備えている劇団だと思う。彼の功績は大きい。すでにベテランの域にある山本龍二も客演の多い役者だ。檀臣幸は役柄の領域が広い役者である。今回は新劇の演出家だったが、少々エキセントリックにややトゥマッチかという彼の持ち味で見せてくれた。群像劇というのはこういうアクセントが必要なものだ。石井輝之も青年座の俳優である。年齢不詳だが味わいのある役者になりそうだ。
そして文学座の坂口芳貞。彼も客演が多い。今回はこれ以上ないというはまり役で文句の言い様がない。ワークショップや演出の他に大学でも教えているようだ。文学座からもう一人、佐川和正。若いものが必要な舞台には必ず起用されている。さりげなく好感が持てるところがいい。
そういう意味では少し個性は強いが、佐藤滋も将来が楽しみな役者である。
そして西山水木、この人もあちこちで見かける。という意味では器用で芸域の広い役者ということになる。今回も、レビューの踊り子を始め金持ちの妾?尼僧など衣裳を替えての大活躍だった。
「東京原子核クラブ」とは人を食った題名である。もともと東京国際フォーラムDホールのこけら落としに、という話で書いたものだというが、それで「東京」をむりやりつけたもののように見える。いや、本郷のことをいっているのか?「原子核」は理化学研究所の核物理学研究室の意味であり、だとしたら「クラブ」は下宿屋かと思う。しかし、普通「原子核」などといえば原爆や原発など危ないイメージがつきまとうし、世代によっては「核実験反対!」というスローガンとともにデモや集会を思い出すかも知れない。まじめなのだ。
そこをあっけらかんとやる感覚は、若さであろう。

ただ、この軽さが実は危険の兆候なのである。マキノノゾミに苦情を言っているのではない。世の中全体のたがが緩んで来ているから、バケツの中でウラン溶液をかき回して臨界点を越えるような事件が起きるのである。

       

               
                   

                                
                               

 

 

                        

題名:

東京原子核クラブ

観劇日:

06/7/15

劇場:

俳優座劇場

主催:

俳優座

期間:

2006年7月6日〜7月16日

作:

マキノノゾミ

演出:

宮田慶子

美術:

横田あつみ

照明:

中川隆一

衣装:

半田悦子

音楽・音響:

高橋巌

出演者:

田中壮太郎 石井揮之 千葉哲也小飯塚貴世江 西山水木田中美央坂口芳貞 檀 臣幸 佐川和正 渡辺聡 山本龍二 佐藤 滋