題名:

透明人間の蒸気(ゆげ)

観劇日:

2004年3月19日

劇場:

新国立劇場

主催:

新国立劇場  

期間:

2004年3月17日〜4月13日

作:

野田秀樹

演出:

野田秀樹

美術:

堀尾幸男     

照明:

小川幾雄    

衣装:

日比野克彦

音楽・音響:

高都幸男

出演者:

宮沢りえ 阿部サダヲ 野田秀樹 高橋由美子 手塚とおる 有薗芳記 大沢健 秋山菜津子 篠崎はるく 六平直政 池谷のぶえ 小林功 小手伸也 山中崇 福寿奈央 櫻井章喜 須永祥之 阿部仁美 木下菜津子 浜手綾子 中川聖子 小椋太郎
 


「透明人間の蒸気(ゆげ)」

 この芝居の四分の三は無駄なおしゃべりである。
こういう品のないきりだし方は、止めようと思っていたが、つい本音がでてしまった。どれだけ無駄かは追々書くことにして、一体どういう話なのか確かめておこう。氾濫する言葉遊びやダジャレ、ごろ合わせを取り除いてどうにか筋らしきものを説明すると、昭和十六年十二月、日米開戦を機に「二十世紀で消滅してしまうもの」を収集せよという勅命がくだり、華岡軍医(手塚とおる)をはじめ愛染かつら看護兵(高橋由美子)のらくろ軍曹(有薗芳記)ロボット三等兵(大沢健)らがこれに赴く。二十世紀を六十年も残して馬鹿な勅命もあったものだが、そういうのだから仕方がない。彼らはその対象として結婚詐欺師の透アキラ(阿部サダヲ)を選ぶ。彼は刑事である父親(六平直政)に追われて鳥取砂丘まで逃げてきた。そこで土産物屋をやっているサリババ先生(野田秀樹)と暮らしている目の見えないヘレン・ケラ(宮沢りえ)に出会う。アキラは華岡軍医らに捕まって百年眠り続けるカプセルに入れられそうになるが、爆発事故があって透明人間になってしまう。不思議なことに見えないはずのヘレン・ケラにだけは見えている。一同は三途の川を渡って黄泉の国に出入りしたり、神話の世界からイザナミの命(六平直政)が現れたりてんやわんやのおいかけっこを繰り広げる。
 どうです。おわかりいただけただろうか?
 おっと、重要なモチーフを忘れていた。
会場に入ると砂で作ったとおぼしき薬缶やら何やらのオブジェがおいてあり、その中空を舞台一杯に大きな日の丸が蔽っている。野田秀樹がそんなものに関心があったのかと驚いて席に着いた。(ここで僕の無駄話をひとつ。)まもなく二人の男が声高に言い合いながらやって来て隣の席に座った。一人は三十前後の後輩らしい態度の青年、もう一人は鞄に雑誌やら書類やらスポーツ紙を詰め込んだいかにも業界人を思わせる先輩風初老の男。出演する俳優を知っているらしく後輩だけでなく周囲にも自慢ゲに語っている。続けてサルトルの長い芝居を観て、やってる江守徹は気持ちが良かっただろうがこっちはケツが痛かったなどと巨体に響く大音響で話すうえに、落ち着きなく体勢を変えるものだから大いに迷惑だった。野田の芝居にはこんなやつがよくいる。〈無駄話終わり。〉
 日の丸は、爆発か何かの拍子に真ん中に穴が開いて少し焼け焦げるのだが、その穴が三途の川、黄泉の国との出入り口に使われる。野田の思いつきにしてはまあ上出来だろう。そして、終幕近くもう一度太平洋戦争開戦の場面に立ち返った後だと思うが、いつの間にか焦げた日の丸の後ろに星条旗が見えるという分かりやすい仕掛けが現れる。そうならそうと始めからいってくれたらよさそうなものだ。野田君!
 導入部の、僕にはほとんどおかしくもないダジャレやごろ合わせも、よく知っている人に言わせるとたいていは意味があるのだそうで、ならばこっちの頭がどうかしているだけかと一応得心してみる。確かに戯曲に当たってみればそういえるところもあった。しかし周りを見ると、どうも分かっていてみている人は少なそうに見える。この演出(といえるものかどうかはともかく)では、言葉の意味を捉えようという観客の意志を完全に遮断して、言葉を直感として感じるほかないところへ追いやる。これを称してジェットコースターとかいっている人がいるようだが、この乗り物の特徴は、降りたら快感は忘れてしまうことだ。これでは折角書いた言葉が伝わらないのだから損である。何故次から次に打ち消すようにして言葉から意味をはぎ取ろうとするのだろうか?野田の、このひどくいじけた暗い情熱の様なものが僕には不思議である。
 ところが僕と正反対のことを書く人がいるのに驚く。雨谷恵美子というエッセイストがパンフレットに寄せた文章を紹介しよう。
「幕が開いてしばらくすると、観客が台詞を吸い込んでいるのが分かった。そうか、これが野田さんの言葉遊びか。追いつけたものを拾えば、駄洒落どころかストーリーを進行するキーワードであり、見事に無駄がない。時折、これは完全にお遊びだと分かる台詞にはドッと笑えてほっとする。言葉がゴムマリ見たいにぽんぽん弾んで空気を振動させながら客席に転がり込む。人々は逃さずキャッチしようと、まるで「耳男」のように耳をそばだてて集中する。場内に張り詰めるその緊張感と、素ではないかと感じさせる軽妙な台詞回しに思わず吹き出すどよめきが、交互に波のように押し寄せる。その上物語展開がスピーディなので、こちらも一緒に演じているかのように息せききる。
 それにしても、飛んだり跳ねたり走ったり、泣いて笑って大騒ぎすることは、なんて人間らしい、気持ちのよいことだろうか。現代人は日々の生活の中でそれを押さえ込んでいるから、時に過ちを犯すのだろう。」
 まさに「夢の遊眠社」絶頂期の頃の観客を彷彿とさせる書きようで、最もよき野田の理解者といえるが、残念ながら今回の公演で、こんな若者のノリはなかった。
 ついでだからもう一つの文章を引用しておく。
 「野田秀樹さんの舞台を観るたびに、いつも眩暈のようなものを感じるのです。それは、ドラマの加速する言葉の迷宮にいつの間にか強い力で連れ去られていながらも、そこに動く俳優たちの、自由で、しかも計算を尽くした現実のダイナミズムと向き合うことで、その場に現れる演劇というものの虚と実の間を、高速度で、しかも無意識に行き来しているからなのでしょう。」
 この意味分かりますか?僕には何回読んでも言ってることが分からない。
 実はこの文は、栗山民也がパンフレットに書いたものである。雨谷が野田秀樹の面白さを明快に(エモーショナルに)書くのに比較して、これほどよれよれになってしまうのは何故だろう?「眩暈のようなもの」を説明しようとして「めまい」そのものになってしまったようだが、要するに評価しようにも適当な言葉が見つからず、とまどいと幻惑を思わず吐露したのではないか。いずれにしても言葉と戯れることの快感を評価し「見事に無駄がない」と言い切る雨谷のような人もいれば、「言葉の迷宮」などというもののインチキ性を許せない僕のような立場のものが、両端に存在し、訳がわからないながらも肯定的に捉える栗山のグループが間にいるということのようだ。
 隣の巨漢はといえば、最初こそ笑っていたが、まもなくあくびをひとつすると、へたるようにして眠りについた。雨谷がいう「観客が台詞を吸い込んでいる」(この表現もモノすごいが!)という異様な興奮が彼女の思い込みに過ぎず、観客は木戸銭を払ったとしてもむしろ冷静に寝ることを選択したのである。(正確には一部そういう人もいた。)しばらくして、華岡軍曹が盛んにピストルをならすものだから、後生だから打つのを止めてと願ったが、あの音だもの、やっぱりとうとう目を覚ましてしまった。
 野田は、同じパンフレットに「十三年前に、この芝居を書いた。」という書き出しで短いエセーを寄せている。重要と思われるので引用しよう。
「その当時私は、自分の劇団というものをもっていた。しかも人気の絶頂期にあって、この芝居をやりながら、いささか戸惑ったのを覚えている。まるで、ポップミュージシャンのコンサートのように若い観客が、熱狂して押し掛けてきた。確かに「演劇はスポーツだ!」と言って、既成の演劇界を挑発した。「劇場の入り口から入った観客が、出口でその熱が冷めているようでは、芝居は終わりだ」などと言って、観客を煽りもした。だが、そうした言葉のすべてが、嘘であった。演劇がスポーツの訳がない。観客が熱狂すれば芝居だ、というわけのものでもない。そんなことは十分承知であった。それでもあえてそういって、演劇界を挑発しなくてはならない事情があった。私が二十歳で芝居を始めたころ、演劇界は元気をなくし始めていた。私は、勝手にそう思っていた。それが、私に言わせたコトバだった。
だが、ひとたび、口から出たコトバというのは、本当に私がそう考えているということになる。私は、「芝居はスポーツだ」と考えている馬鹿者になり、そして、若い観客の多くが、流行に乗って、芝居を見に来た。・・・
 わたしは、この「透明人間の蒸気」を、当時バブル期にあった日本においては、時代錯誤者の言葉として聞こえるに違いない。そう思って書いた。人々の耳に心地よく届きやすい、古い時代へのノスタルジーなどではなく、古い時代、すなわち1945年と真っ正面から向き合ってこなかった、戦後の日本人というものを少なからず意識して書かれたコトバだった。それは、バブル期の日本の劇場に押し掛けてくる若い観客に向かって発しても、届かない言葉だったのかもしれない。・・・」
 この文章を読んで、当時「流行に乗って劇場に押し掛けた若い観客」たちは怒りだすかもしれない。雨谷が興奮気味に書いたあの雰囲気に酔いしれていた観客は、野田が「嘘」だったと言おうがいうまいが、自分達は「スポーツのような芝居」を十分楽しんだのだ、といいたいに違いない。
こういう客を小馬鹿にしたような裏切りはあまり感心しない。まして自分が「馬鹿者」に思われたと嘆くのは、あまりにも自己愛(幼児性)が過ぎるというものだ。こう言ういじけた様は随所に見られる野田の性格の特徴である。
 しかしそれよりもここにはもう一つの「嘘」が隠されている。それは、当時元気のなかった「演劇界を挑発しなくてはならない事情」など野田のどこを探してもなかったということである。結果からみれば「第三舞台」をはじめ若い劇団が登場するなどの潮流は出来たが、当時明らかに対峙するような演劇「界」などは存在していなかったのだ。これを自分の思い込みかもしれないと一応言訳をするのだが、「芝居はスポーツだ!」という方法は演劇界などとは無関係に野田がかってに編み出した表現方法であった。
 これは「挑発」という言い方でカッコつけているが、むしろ野田自身が自分のアイデンティティを確認する必要があったという言葉に読み替えるべきところである。
 「私が二十歳で芝居を始めたころ、演劇界は元気をなくし始めていた。」のではなくて、二十歳の野田は「自分の元気」を探す必要があって、結果として芝居を発見したのである。この芝居は、言葉すらバブリーになった時代背景の中で、身体感覚=筋肉だけが信用のおけるものという野田の体質の直接的表現であった。つまり、スポーツのように身体を動かす表現方法は野田の個性に染みついたいわば習い性であり、言葉への不信が益々この傾向を加速させたのである。言葉への不信とはポスト構造主義から記号論へという思想の流行の中で、意味が相対化されて言葉が軽くなることであり、野田はこの傾向を受容したのである。
 大急ぎで説明するので、ある側面からしか見ていない誹りを受けることを覚悟して書くのだが、1975年6月ML派が最後の投げ場を求めてアメタイ(アメリカ大使館)に殴り込み玉砕する。これをもって全共闘運動は完全に終焉した。(当時ベタ記事だったからこう言う人は少ないかも知れないが、僕はある事情でそう思った。)この運動は総括的に言うと既成の権威や価値観に対する「プロテスト=異議申し立て」行動であったが、それは、学生(戦前の学生も含む)が特権的に抱えられる「革命=いつか世の中を変える」というロマンティックな幻想によって支えられていた。全共闘運動の終わりは、この支えが消滅することであり、学生は、学生であることのアイデンティティを失うことである。既に連合赤軍によって「革命」幻想の振り子は戻らなくなっていた。支柱を失ってなお精神的なバランスを保つためには相対主義でいるしかない。いわゆる「白け」の時代である。ポスト全共闘の学生達は沈黙した。
 それからしばらくたって、79年頃新しい学生芝居のうわさが聞こえてきた。しかもそれまで演劇の歴史に登場したこともない東大駒場からであった。飛んだり跳ねたりスピード感のあるこれまでになかった面白い芝居で、東大生がそれをやるというので主として同世代の若者に注目された。その時代の舞台はうわさで聞いているだけだが、野田秀樹の方法論はその時既に完成していたはずである。それはとりもなおさず野田が、かつての学生の「革命」に代わる幻想としての何かを獲得し、それを起点に表現活動を始めたことに他ならない。それが何であったかは想像するしかないが、僕は次のように推理している。
 この時代、横に連帯する回路は挫折しているから、自分のアイデンティティ探しは自分でやるしかない。現在とは何かという問いの答えを求めるうちに、おそらく野田は時間を遡行し、ついには天地創造の究極にたどり着いたと考えたと思う。彼は神話を作り上げたのだ。それには徒手空拳でやり果せたという自信はあったろうが、しかしそれはあくまでも個人的な幻想としての神話である。これを他者と共有できないことを知っていた彼は、作り上げた神話一巻に封印をして神棚に上げてしまったのである。
 自分の作品にしきりに「野田版」と付けたがるのは、偏執的に強い自己愛もあるが、自分の思想の起点が開示されない神話にあることを示唆しているのであり、もっと直裁には、ほとんどの作品の中に日本神話の登場人物をちりばめるという方法でその存在を暗示しているのである。
 前に引用したエセーの最後の部分に注目しよう。「挑発」の理由として
「古い時代、すなわち1945年と真っ正面から向き合ってこなかった、戦後の日本人というものを少なからず意識し」たといっている。しかも自分の芝居の若い観客はほとんどこれを理解できないだろうと自嘲気味に言う。
 ここにいたって僕は、野田秀樹はナイーブなのだと気がついた。ナイーブがすぎて自分の語りたい物語の核心部分に素手では触れられたくないのである。思わせぶりの台詞、駄洒落やごろ合わせ、言葉遊びは、雨谷が言うほどの意味はなく、単なる野田の照れ隠しである。「戦後の日本人」という問題の措定の仕方にも、何かおずおずと出してきたような観念臭が漂うのだが、若者に伝えようと言ってもことが複雑になりすぎている問題を、この芝居の描き方でよかったかどうかおおいに疑問である。
 言葉とポスト構造主義、記号論について野田の芝居と絡めて書きたかったが長くなったのでこの辺で終わりにする。最後に役者のことを書いておこう。
 宮沢りえは、このわけの分からぬ役柄を訳がわからぬなりにかわゆく明るくやっていて好感が持てた。「北の国から」や「たそがれ清兵衛」よりもむしろよかったと思う。
この芝居は、手塚とおる、有薗芳記の二人の怪優によって支えられた。この二人のもの狂おしい目つきは、夢に出てきそうだ。
 阿部サダヲは知らない俳優だが、もっと自己主張をしなければ、アクの強い役者の中で沈んでしまうぞと警告しておく。
 日比野克彦の衣装は、埃ぽくてよかった。美術もそうなら「いつまで段ボールにこだわっているつもりだ」といおうと思ったら堀尾幸男だった。堀尾は、日比野に敬意を払って段ボールオブジェにしたものか?悪くはないが感心したものでもない。
 

 野田秀樹を見ながら、何故かしきりに田中康夫を思い出していた。同じような喜劇と孤独の中を悲劇的に生きている人たちに見える。悲劇的とは、あの熱い時代にあった「孤立を恐れず、連帯を求めて!」というスローガンは歴史の彼方に立ち去ってしまったのかという悲しみである。
       

            (3/29/04)                                                                                        

 


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