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「蝶のような私の郷愁」

「組曲、二十世紀の孤独」(総合監督・坂手洋二)と銘打ったシリーズ三作のうちの「第一楽章」。第二楽章は「さすらい」(作・坂手洋二/演出・おおこうちなおこ)、第三楽章「壊れた風景」(作・別役実/演出・川畑秀樹)である。

新宿三丁目に出来た地下劇場「SPACE雑遊」のこけら落とし。すぐ裏手にある酒房「池林房」が作ったものらしい。朝までやっている飲み屋で30年前はよく行ったものだ。

「二十世紀の日本のどこかで、それぞれの孤独を噛みしめながら佇む人々・・・・・・。」とコピーが添えられている。「二十世紀」とはずいぶん大仰に構えたものだ。戯曲が書かれたのは二十世紀に違いないが、それがこの百年の人間の「孤独」を総括するものでもあるまい。「二十世紀とは何であったか?」と考えるのはそれなりに意味を持っている。「戦争の世紀」「イデオロギーの世紀」あるいは山崎正和のように一人の女流カメラマンの生涯に「二十世紀」(戯曲)を象徴させる言い方もある。しかし、この延長上で「二十世紀の孤独」などというものが成立するだろうか?

にもかかわらずこのタイトルが妙に説得力を持つのは、「二十世紀」がそうした時間の集積を表したものではないところにある。二十一世紀の現在から見て、つい昨日の地続きの二十世紀があって、世紀を跨いだにもかかわらずその過去が現在に迫ってくる。私たちは今世紀この「昨日の孤独」を乗り越えることが出来るのだろうか?二十世紀とは、我々の知っているあの時代を指していたのである。そこに90年代を二十世紀に見立ててみたいというプロデューサーの問題意識がほの見えている。「失われた十年」の影は我々の時代にまで延びているのである。

そのような観点から見ると、この芝居は演出の鈴木裕美のただならぬ力を見せつけたものといえる。

タイトルの後に「改訂版」(東京初演)とあるが、この公演のために筆を入れたものだろう。松田正隆自身が手を加えたとしても、坂手洋二(及び鈴木裕美?)の意向が反映されたものと考えるのが自然である。僕はこれを見た時点でオリジナルを知らないが、この改訂はテーマ性が明瞭にでたという点で成功していると思った。

「SPACE雑遊」は雑居ビルの地下の割には天井が高く、並みの小劇場よりは広く感じる。この空間の真ん中あたりにアパートの八畳間を突き出して、両脇にタンスを置いた。奥は台所に通じる廊下で正面のガラス窓の向こうに木の葉が揺れ動いている。その上手に流しがあるらしいがそれは見えていない。古ぼけた畳の上に小さな座卓がのっている。この部屋が「突出して」見えるのは、両脇が広く空いていてそこが暗闇だからである。

美術の奥村泰彦は、この劇場の広さをうまく使って、いかにも松田正隆戯曲らしい生活感のある舞台を作った。そして、「突出した」ことによって最後にはその八畳間の上の日常性をひっくりかえす仕掛けを用意していたのだが、そのために客席を犠牲にして、しかもそれが窮屈になったのはやむを得ない処置だったというべきだろう。この劇団は存外そういうことが平気である。

さて、語るべき物語があるかといえば、子供のいない夫婦が夕飯を食べながらかわす日常的な会話がすべてで、夫婦のたどってきた過去が次第に分かってくるのは当然だが、それが決定的な何かに発展するわけのものでもない。松田正隆の気分が典型的にでた本だといえる。

ただし、開幕と同時にラジオがこの地方に台風が近づいていることを告げ、暴風雨の予感が通奏低音のような不安を劇の底にひいている。

夫(坂手洋二)が会社から帰ってきて、部屋で背広を脱ぎ始めると、台所にいるらしい妻(占部房子)が、駅前に建設中の高層マンションを見に行きたいと話しかける。そのチラシがあるから見てくれというのだが、座卓の下にもタンスの上にも見当たらない。夫の声も態度も、自分にとってはたぶん一生かかっても絶対に買えない代物で、見たってしょうがないと思っていることを表している。では、妻は買えると思っているのかといえば、そうでもなさそうだ。こんなところにあったと、妻がエプロンのポケットからチラシを取り出して座卓の上に広げる。夫は仕方なさそうに付き合うことに。妻は3LDKの間取りを見ているうちにいろいろ刺激されたらしい。

坂手洋二のとつ弁でぶっきらぼうな言い方をうまくいかして、少しばかりいらついているような印象を作り出し、妻の占部にもその容貌にふさわしい少女じみた夢想癖や天然ボケのところを感じさせて、この二人の微妙なずれが最後まで持続する。その男の心の底に潜む僅かな緊張感とそれに対応することのない女の非現実的な感覚を徹頭徹尾、劇の基調にしようとしたことが鈴木裕美の「ただならぬ力」だと思うのである。なぜなら、二人のこの微かな距離が男と女の違い、さらにいえば「近代」の出口に佇む人々の、それぞれが抱えざるを得ない「孤独」を示唆するものだからである。

食事は、醤油とソースの入れ物が同じだったことから起きる間違いとか妻が作ったコロッケに輪ゴムが紛れ込んでいて夫がそれを歯の間から引っ張り出すとかそれなりににぎやかに進行して、面白く見せてくれた。

外はいよいよ雨風が激しくなってくる。まばゆいヘッドライトが強烈な光を向けて近づき轟音とともに去っていく。

食事の途中、不意に停電する。いよいよ台風は近づいたようだ。明かりを、と二人は思うが妻の頭にロウソクはハナから存在しない。百円ライターで何とかしようとしているうちに、夫が「ふすま」のことを言い出した。夜中にふすまを捨てにいって隣人に会った話を妻が途中で遮った。その人の不信を買ったに違いないと言う。夫は結論にたどり着こうとしている。その部屋のふすまが滑りにくくなったので、どうもロウソクを買って敷居に塗ったらしい。まもなく動かなくなったので、大家には黙って捨てにいったというのである。そのロウソクがどこかにあるはずだと夫がいい、二人はそこら中かき回し始める。

妻が何か叫んでタンスからとり出したのは、手の平大の貝殻であった。あなたは海に行った、そしてこれをいつ買ってきたのかと詰問する。これは「姉さん」のために買ったのだろうという意外な言葉である。夫の姉のことだと思っていたが、これはどうも妻の姉のことで、最初にその二人の恋愛があったらしい。どういういきさつでいまのふたりが一緒になったかは語られない。この姉は最近踏み切り事故でなくなった。最後の電話は元気な声だったとだけ妹がぽつりという。夫は無言。ゆふに劇一本分のドラマがあったに違いないが、二人にとって、そしてこの劇にとってもいまは「過去」の話になってしまった。

妻はその一枚貝を耳に当てて、海に行きたいという。貝殻が波音を奏でているのだろう。このあたりのせりふは詩情があふれていて美しい。ラジオで聴いていたらおそらく海の上に満天の星がきらめいているさまを想像出来たかも知れない。しかし、それでも尚どこかに違和感を禁じえなかったのは、「現代詩」というものが成立しにくくなっている時代、ということがあったのかも知れない。いま言葉の芸術はあらゆる芸術と同じようにもっとも深層において疲弊しているのである。

ロウソクは台所の引き出しからでてくる。明かりが灯ってお茶が用意されると、夫がぽつりという。「あの時俺は豚骨ラーメンを食ったのだ。」と。妻はなんのことか分からない。あの時、とは妻が堕胎したときのことだった。病院近くで待っていた夫は腹が減り、不謹慎かと思ったがラーメン屋に行った。そのことを内緒にしていることが後ろめたかったというのだ。そして堕胎のことは姉も知っていたという。夫にとっては重大な報告だったが、意外にも妻は冷静だった。姉の事故死は自殺だったのか?しかし話は、不意にぽつんと終わってしまう。

このエピソードは、少し唐突にも見えるが、姉との関係が極めて淡泊な表現でとどまったのに加えてみれば、この三人のある種濃密な時間が見えてきて、どうも周到に用意されたような気がする。堕胎する前にあった修羅場を想像するとこの劇の奥深さが見えてくるといってもよい。ただし、ここまで大波が立ったのだとすればこの劇の時点でも小波ぐらいはまだ残っていて、二人のあいだにはもっと大きく強い緊張関係がなければならないはずだ。この点は、多少違和感があるので、改訂のついでに始末をつけておいたほうがよかった。あるいは改訂時に書きすぎたのかも知れない。だとすればここまで書き込む必要もなかった。そもそもそんな恋愛どたばた劇では「二十世紀の孤独」もくそないではないか?

雨風はいよいよ激しくなってくるようだ。気のせいか避難を呼びかける声もするようだ。

夫は、川を見てくるといい出す。カッパを用意する妻。カッパには大きく住所氏名が書いてある。流されたときのためだと妻はいうが夫は非常識に大きいと怒る。ともかく夫は家を出ていった。

妻はロウソクの明かりで雑誌か何かを見ている。静かな時間がしばらく続いたあと、夫が帰ってくる。

夫はカッパを脱ぎながら、かなり増水しているという。ひょっとしたら避難しなければならないかも知れないという。

不安げな顔をして夫によりそう妻。夫は外を窺っている。

ロウソクのにぶい明かりの中、舞台の壁に水の影が揺れている。突出した八畳間の下をいつの間にか水が覆っている。このアパートは水に浮かんでいたのだ。水かさは次第にましているようだ。夫が「我々が皆水の中に沈んで、あの駅前のマンションだけが突出している光景が見えるようだ。」とつぶやく。高度成長、バブル、バブルの崩壊、長期低迷、グローバリゼーションの嵐、規制緩和、時価総額、敵対的買収、不労所得の否定・・・疲労感。

この最後のシーンには皆驚いていた。僕は最前列であぐらをかいていたから、照明器具が水の中に倒れはしないかと心配で驚いてばかりもいられなかったが。

溶暗で終幕。

一時間ちょっとの作品だが十分見ごたえがあった。シリーズのテーマとも呼応していて、鈴木裕美の演出には説得力があった。

これは占部房子が坂手洋二を相手にやりたかった芝居だというが(鈴木裕美がそう書いている)何故かは知らない。ただし、それは改訂前の話で、まさか書き直すとは思わなかったろう。妻の役にはもっとふさわしい役者がいそうな気がするが、とりあえず、ああいうのらりくらりとして何を考えているのか分からないのが存外ふさわしいのかもしれない。

役者坂手洋二は今回ばかりはどうも適役だったらしい。鈴木裕美もあまり注文をつけずにすんだに違いない。

ところでこの時点でオリジナルを知らないと書いたが、実はこの翌日文学座の若い連中がやる公演に行って、もとの戯曲で見た。二本立ての芝居のうちの一本だったが、改訂版のほうがはるかに充実している。

惜しいのは、オリジナル版は姉についてあまり言及していないのに、改訂版は「やり過ぎ」ていることだ。あそこまで書いたらどんな修羅場があったのか、知りたいのが人情だし、その後遺症がなかったかのようにすましていられるのは不自然だと考える。

「民衆の的」「上演されなかった『三人姉妹』」とあまり感心しない公演が続いたと思っていたが、小品ながら、燐光群、久し振りのヒットではないか?

帰りはむろん「池林房」に寄った。三十年前の青年で一杯だった。

 

 

題名:

蝶のような私の郷愁
(組曲・二十世紀の孤独第一楽章)

観劇日:

06/8/4

劇場:

SPACE雑遊

主催:

燐光群

期間:

2006年8月1日〜8月10日

作:

松田正隆

演出:

鈴木裕美

美術:

奥村泰彦

照明:

中川隆一

衣装:

山下和美

音楽・音響:

堀江潤

出演者:

占部房子  坂手洋二