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「鳥瞰図」

若手の作家の書き下ろしを上演するシリーズ「同時代」の第一弾。早船聡の名前は聞いていたが作品を見るのは初めてである。
舞台は、上手半分が安物のパイプ製テーブル椅子がいくつかおかれた場末の食堂風。鴨居の上に昔の東京湾の風景と思しき古い写真が一枚、大物の魚拓数枚の間にならんでいる。端に流しがあり、その横に釣り竿が何本も立てかけてあるところをみると、遊漁船をやっている釣宿らしい。舞台奥が通りに面した出入り口でそこにも釣りの道具がぶら下げてあったり、脇にアイスキャンディの冷凍ボックスが置いてある。
下手半分は上がり框から上が畳敷きの居間になっていて、ちゃぶ台やいまはなつかしい茶箪笥、テレビに仏壇まで置かれている。奥には台所の流しと、洗面台、二階に通じる階段があり、一家の生活があからさまに見えている。

近頃はすっかりご無沙汰だが、僕も釣りをやるのでこういう店はよく知っている。大概常連が多いのであけすけな付き合いになるものらしい。三浦半島のある釣宿では沖からあがってくると家族の昼飯である熱いうどんのご相伴にあずかったこともある。東京湾ではもう少し商売気があるから食堂風にしつらえているのだ。この装置は実にうまく特徴をつかんでいてリアリティがあり感心した。島次郎の守備範囲の広さを示したものといえる。

東京湾の古い写真は、この辺りがまだ埋め立てられる前の風景であり、かろうじて干潟が残っていた手つかずの自然と、同時に三代に渡って続けられてきたこの釣宿のひとびとの過去を物語るものである。かつて海であったところには、いま道路ができて高層ビルやいわゆるタワーマンションが建ち並んでいる。游漁船が係留できて海に出られる水路は確保されているが、街の様子は一変し、それが人々の心にも微妙な変化を及ぼしているという予感が、この劇の背景にある。

釣宿升本の女主人佐和子(渡辺美佐子)は既に七年前、連れ合いをなくして、いまは息子の茂雄(浅野和之)に三代目の船長をまかせている。茂雄は四十代半ば、子供がないために近所に住む勇太(佐藤銀平)を雇ってゆくゆくは店を任せようと考えている。勇太も船舶操縦免許をとろうと勉強しているのはそのつもりがあるからだろう。
常連の客は皆近所に住むものばかりで店はいわば彼らのたまり場になっている。サラリーマンでそばの高層マンションに住んでいる杉田(八十田勇一)は、浮気が見つかって目下のところ妻と冷戦状態にある。家を追い出され車で寝たこともしばしば。釣りが唯一の息抜きで緊張から解放されるときという。子供もいないので出て行かれても仕方がないと思っているが、なぜか別れようとはいわないのだそうだ。お盆は妻の実家で過ごすのが習慣になっていて、そのたびに早く子供を!といわれるのがつらいという。妻はその期に及んでも曖昧な態度でごまかしているというから、杉田としてもそれに合わせていざるを得ない。じつは三年もセックスレスなのだ。別れ話に発展しない宙ぶらりんの状態を存外楽しんでいる様子も見える。杉田は、これらのことをあけすけに語って聞かせる。

朝子(弘中麻紀)と照之(浅野雅博)の姉弟は小さい頃から家族ぐるみの付き合いがあった。最近母親が亡くなったが亭主、つまり姉弟の父親と一緒の墓に入るのは嫌だといっていたのを朝子が覚えていてまだ納骨をすませていない。朝子も照之も釣り好きで、しょっちゅうこの店に出入りしている。
朝子は地元のカーディーラーでセールスの仕事をしているが、話し振りによるとなかなかのやり手らしい。しかし、夫とは別居中で、大阪の夫の実家に小学生の一人息子を預けている。子供を取り戻して別れようと思っているが、息子はいまの生活にすっかりなじんでしまっているという。上辺の元気のよさの裏にはキャリアウーマンらしい苦悩が潜んでいた。
弟の照之はそういう姉を心配して同居しているが、サラリーマンの身の上で、転勤話が持ち上がっており、どこになるかはともかくそれを機会にいまの恋人と結婚しようかと思っている。

もう一人、峰島(品川徹)という老人がぽつねんと店の椅子に腰掛けている。いたと思ったら、ふらふらとどこかへ消えている。茂雄は、佐和子がこの老人から乗船代をとっていないことに気づいている。佐和子はそのことを責められて、峰島が元漁師だったから海に出たいのはしようがないではないかと理屈にならないことを言う。
この辺り一帯が埋め立てられることになった二十年ほど前に、峰島は反対派の急先鋒だったという。周りが切り崩されても最後まで抵抗していた。そこで孤立して近所の評判も悪くなったらしい。抵抗しても勝てる戦ではない。いくらか保証金を手にして、以来行方がわからなくなっていたが、二三年前にすっかり年老いた姿でこの街に現れたのであった。
佐和子はいきさつを知っている。漁師が働く場所を奪われたと思って同情しているのだ。だからせめて海に出たいなら出してあげようと思ったのである。茂雄はそれ以上追求しようとしない。
これらの人々の日常の中に、ある日突然一人の若い娘が飛び込んでくる。劇の主筋はここから始まる。
佐和子はとたんにそわそわと落ち着きがなくなり、仏壇の前で何かし始めたり急に台所に立ったり、外出したりしはじめる。

娘は二十歳、ミオ(野村佑香)といって、佐和子の長女波子の子であった。波子と茂雄の父親は彼らがまだ幼い頃家を出たまま帰ってこなかった。佐和子はしばらく待ったが、自分の不安と寂しさ、さらに子供の将来のことを思って、釣宿に入ったのであった。茂雄は小さかったので父親の記憶は全くない。しかし、物心ついていた波子は写真家だった父親を慕っていた。子供ながら佐和子の裏切りを心の底で許していなかったのだ。
波子は学校を出ると家を出て、消息を絶った。それがつい二三ヶ月前に車を運転中に事故でなくなったという知らせが入ったのだ。脇にミオが同乗していて怪我を負った。その傷が癒えると、にわかに思い立って母親の育ったところに初めて訪れたのである。ミオは母親の中に潜んでいる、あるかたくなな部分に違和感を覚えていた。そのために自分たち親子の間には溝があると思ってきた。いつか確かめようと思っていたが、事故でそれはかなわなくなった。そこで、手がかりを求めるつもりで祖母佐和子のもとを訪れたのである。

ミオは波子の父親と同じ写真家の道を歩もうとしていた。おそらく母親はミオに、幼い頃この辺りの風景を撮影する父親の姿を語ったに違いない。蛤やアサリがたくさん採れた干潟のことやおびただしい数の野鳥の群れがそこで羽を休めていたことなど。ミオは、毎日カメラを手に出かけていった。そんな風景はどこにも見つからないのに、である。
ミオが来ていることを茂雄が気を利かせて父親の片岡に知らせていた。そこからミオがなかなか自分の家に帰らない理由がわかる。事故から何か月もたたないうちに片岡が女を家に引き入れたというのである。ミオにしてみれば父親に裏切られた思いである。

一方、茂雄はこのまま釣宿を続けるのは困難と判断したので、とりあえず二艘ある舟のうち新しい方を処分して、勇太には跡継ぎをあきらめてもらうといいだした。唐突な言い分に佐和子は驚くが、これには何か裏がありそうだ。それでなくても、ディズニーランドで小さな女の子をつれているところを朝子に見られていたり、パチンコにいくといっては頻繁にどこかへ出かけていくので皆に変だと思われていた。そのうちに杉田に、近所のある病院にいるところを見とがめられる。
佐和子が問いただすと、六年前に別れた良美が子供を連れて戻ってきたが、末期がんで入院しているというのであった。子供はフランス人とのハーフで自分の子ではない。茂雄が面倒を見るいわれはなかったが、入院費やら保険のきかない薬代などを負担してやっていた。足りなくなったために舟を売って充当しようとしたのである。しかし、それももはや手遅れで手の施しようがなくなったようだ。

佐和子はそのことも波子のこともみんな自分のせいだと過去の自分の選択を否定するように嘆く。茂雄はそれをきいて、俺の父親はあっちだよと仏壇をさして、佐和子の選択は必ずしも間違っていなかったことを告げる。このとき、いなくなった佐和子の連れ合いには、元々妻がいたことが明らかにされる。
 夕方、ミオが外出から帰ってきた。峰島から聞いた昔の風景のかけらもなかったという。夕飯の支度をしようという佐和子に、突然ミオはふたりで写真を撮ろうと言い出す。戸惑う佐和子をよそにカメラの準備をするミオ。そして、二人は並んで一つの画面に収まった。

突然告げられた娘の死、唐突にやってきた初めて目にする孫にどう対処していいかうろたえるばかりであったが、ここに来てようやく肉親としての情がわいてきたのである。家族あるいは血のつながりということが、どうしようもない事実として、ある種の幸福感を伴いながら、突きつけられる終幕であった。

 
それにしても「鳥瞰図」とは茫洋としたタイトルではないか?鴨居にかけられた東京湾岸の写真は、上空から撮られており、確かに鳥の目から見た風景に違いない。何もない自然の砂浜が続く昔の海岸は鳥の目に映る光景としてふさわしいという気がする。それを台無しにしたのが現代の効率重視、自然破壊を顧みない考え方やり方であり、「鳥瞰図」はむしろそのことを如実に見せる効果的な図なのかもしれない。

 しかし、この劇に登場する人物たちは風景ではない。いや鳥の目から見た場合には皆同じような人間の暮らしであり、同じように泣いたり笑ったり悩んだりして生きていると映るに違いない。それが人間のいる風景だと。この高い視点から急降下してそれぞれの人々に近づいてみると同じような風景に見えていたものが、実に様々な人生模様を描いていて、一様のものではないことがわかる。「鳥瞰図」とはそのような視点の変化、落差をも含んだ概念として提示されているような気がする。

そのことは、意図されたことかわからないが、登場人物のほとんどが男と女の関係、あるいは夫と妻、親と子など家族の問題を抱えていることでいっそう強調されている。誰かが関わろうとしても入り込める余地などない小さく狭い関係の中をそれぞれの物語が進行していく。この濃密で多彩な物語も視点を移せば皆似たり寄ったりに見えてくる。現代の家族が直面している災厄は、さらに視点を高みに移したときに見えてくる自然が被った災厄と重なってくるのではないかというのがどうも作者の意図ではないかと思った。

TVドラマによくあるような日常のこまごまとした出来事を重ねながら人間関係の機微を描いていく小さな物語も面白くないわけではないが、他人の暮らしを覗き見するようでそこに何の意味があるのかむなしくなることがある。
そこへいくとこの劇はさりげない会話の中に、現代の人間風景を埋め込んで、なるほどと思わせる説得力がある。それぞれの「小さな物語」にも、これが我々の直面している現実だと感じるところもある。さらに「小さな物語」を環境問題といういわば「大きな物語」で包み込もうとした意図もわからなくはないが、残念ながらこれには失敗した。

東京湾を埋め立てるということと街の風景が変わり、人間関係が変容して新たな問題を生むということの因果関係がしっかりとした論として立てられていないからだ。言い換えれば、環境問題(東京湾の埋め立てを象徴的に提示している)とは何かということを人間の生活実感に引き寄せて考え抜かれていないことが、この劇の重要な半分を失敗に終わらせている。

「鳥瞰図」とは文字通り鳥の目に映った風景であるが、鳥に感情があるわけではない。それ自身は実に無機的なものである。そこには空間的広がりはあっても時間の概念はない。そんなものに何か感情を交えようと思ったらせいぜい何枚も何十枚も時系列的に並べて変化を観察することでしかできないだろう。そこから環境問題を引き出そうと思えば、さらに別の知識が必要となる。「鳥瞰図」とはその数ある材料・素材のうちのひとつにすぎない。早い話が、斜め上から地上を眺めていてもただそれだけのことで、まして人間のことなど見えやしないのだ。

あえていえば、埋め立てなど江戸時代からあった。この物語の頃は急速に都市化が進んで土地を海中に求めたことによるが、それは工業化社会が頂点に達したことを意味しており、海浜に限らずあらゆる場所で環境が激変した。それが人間の心にどう作用したかは、そうした産業主義が以前と比較して人間の暮らしぶりや感情になにをもたらしたかということを検証してみればいい。それがこの劇の骨格を支える柱となるべきものであった。その結果、以前の方がよかったといえるかもしれない。しかし、後戻りなどはできない。ならばどう変わっていくべきか?答えがあろうがなかろうが、それを死にものぐるいで探さなければならないのが、劇を作るものに限らずこの時代を生きるものに課せられた責務であろう。

安易に上から眺めれば「失った」ものが見えてくるに違いないと考えて「鳥瞰図」というタイトルを選択したのは少しピンぼけだった。
とはいえ、作者の早船 聡は何か手がかりがあるに違いないと考えた。ミオがカメラを片手にこの界隈を見て回ったことは、ミオにそれを託したことを意味する。結局ミオが発見したものがなんであったかはわからなかった。
推測するに実は、ミオは「失われたもの」は何も発見できないということに気づいた。佐和子を祖母として認める気になったのは、何も発見できなかった以上は、新しく始める以外にないと思ったのかもしれない。

早船聡はこの劇を書く前に山本周五郎の「青べか物語」を読んだといっている。本屋の文庫本の書棚にいけば、未だに山本周五郎作品は十冊以上並んでいる。人気は衰えない。とはいえ早船のような若さでこれを読むのは珍しいことではないか?動機は知らないが、これはいいセンスだといっておきたい。

昔、山本周五郎にはまったことがあった。このときのうろ覚えだが、山本は当時盛んだったプロレタリア文学の連中に誘われて、こう断ったという。「俺はプロレタリアの文字を一つも使わずに、君ら以上のことを書いている」。徒党を組むことを嫌い、直木賞を辞退する偏屈漢であったが、自分の書くものでは、常に人間を通して社会を見つめているという自負がそういわせたのであろう。
近頃のお笑いのように、芸などなくてもただ面白ければいいとか、日常のこまごまとした出来事を本当らしく見せるだけのドラマとか、思いつきとひらめきだけの喜劇とか若いものはそんなものしかできないのかと嘆いていたが、早船聡の構え方にはじっくりと人間と社会に取り組んでやろうという姿勢が見える。期待していい数少ない若者の一人といえるだろう。

松本祐子のやや押さえ気味の演出は、それぞれの登場人物が抱えている苦悩や悲劇性を必要以上に浮き立たせることもなく、あっさりとした味わいの喜劇に仕立て上げようとして、それには十分成功した。ただし、ミオの扱い方には苦労したようで、劇の中から浮いた存在になってしまう瞬間が幾度となくあった。役者の力量にもよるが、もう少し、馴染ませるべきであった。それと、佐和子のつくりかたが「うろたえる」という変な方向に行ってしまった。この年齢では、内心うろたえているが「表面は繕っている」という方向に行くべきで、観客にはそれで十分わかったはずである。
茂雄の浅野和之が繊細でいながら遊漁船の船長らしい貫禄も見せて、いい味わいを出していた。今年の演技賞候補だ。

杉田の八十田勇一ももっている喜劇性を存分に発揮、劇の空気を作り出す重要な役割を果たした。いるだけで面白いという妙な存在感のある役者である。
若い勇太の佐藤銀平にも感心した。

 

 

 

題名:

鳥瞰図

観劇日:

2008/06/20

劇場:

新国立劇場

主催:

新国立劇場

期間:

2008年6月11日(水)〜22日(日)

作:

早船 聡

演出:

松本祐子

美術:

島 次郎

照明:

小笠原 純

衣装:

前田文子

音楽・音響:

藤田赤目

出演者:

渡辺美佐子 浅野和之 野村佑香 
八十田勇一 弘中麻紀 浅野雅博 
佐藤銀平 品川 徹 

 

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