<%@LANGUAGE="JAVASCRIPT" CODEPAGE="932"%> 新私の演劇時評
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「海と日傘」

地下鉄有楽町線東池袋の駅を上がったところに高層のオフィスビルが出来た(らしい、というのも暗がりだったから全容は見ていない)。その建物の三階に豊島区が作った定員三百人ほどの小さな劇場の柿落としである。運営が「としま未来文化財団」というなんだか「はかなげな」名称の団体(政治家の気まぐれでどうにでもなりそうな・・・)なのは心配である。「あうるすぽっと」という仮名遣いの劇場名も気を利かしたつもりだろうが、いかにも行政のこざかしさを表わしていて気障りである。とまあ、嫌みを言っても、本音はうまく長続きして欲しいと願うばかりである。
豊島区芸術顧問は小田島雄志先生で、この柿落としも彼がプロデュースした。高野之夫豊島区長も、あいさつの中で「流行に左右されない本物の舞台を創り届ける」といっているから小田島先生と協調するその線でいくのだろう。たとえば岡田利規などはその範疇に入るのだろうか?「エンジョイ」(2006年12月新国立劇場)の時は、先生、僕の後ろで盛大ないびきをかいていたからダメだろうな、きっと。この規模の小屋は使い勝手がよいはずだが都心にはあまりない。幅広く門戸を解放してもらいたいものである。
さて、柿落としには新作書き下ろしを、というのが当たり前かと思っていたら、この作品は1994年の初演であった。その後韓国語に翻訳され、彼の地での公演も評判だったらしい。そういうことからも今や名作の誉れ高いのであろう。劇場のコンセプトにぴったりだと判断されたようだ。
なるほど、一編のやや私小説的な短編を読むようなしみじみとした情感につつまれる佳品に仕上がっている。それにしても作者三十二歳の作である。夫婦の間の静かな情愛、あるいは僅かな心の揺らぎをここまで細やかに描けるとは何と早熟な若者だったか。と、思う反面、正直なところ若さゆえに書き足りていないのではないかというところも感じた。
この劇場の舞台は目の高さよりも高い。幸か不幸か最前列だったから見上げる形になった。舞台の真ん中は座敷で、奥は縁側から植栽が一面に植わった外が見える。座敷の下手に一間ばかりの出入り口があって台所に通じている。上手にも同じような襖で仕切られた座敷、寝間がある。この両側の空間は最前列にいると壁が邪魔になって見えない。台所で何をしようが見えなくても困らないが、上手の寝室の中はしっかりした作りになっていてそこでも芝居は展開される。客はせりふだけ聞かされて起きていることを想像するしかないわけだ。ところがこの両側の空間は紗幕で客席に見えるようになっている(らしい)。僕の席からはどうやっても見えない。そちらで何かしている時には後ろの客席の視線が変わるのが気配で分かる。見える席と見えない席を作る。こんなバカなことを島次郎ともあろうものがやってはいけない。
明かりがはいると、佐伯洋次(平田満)が縁側に座って足の爪を切っている。日だまりで背中を丸くして爪を切っている姿は「のんびりしている」イメージの記号のようなもので、開幕のシーンとして、思わずうまいと叫びたくなった。そこへ隣の母屋に住んでいる瀬戸山しげ(山本直子)が通りかかって、佐伯の妻直子(竹下景子)の所在を訪ねる。直子にようがあったみたいだ。その会話の中から直子が病弱でしばらく病院通いをしていたことが分かる。言葉は長崎弁のようだが博多弁も混じっているように聞こえる。いずれにしても九州のどこか海に近い町なのだろう。
直子が外出から帰ってきた。食事の支度をしているうちに公園のベンチに日傘を忘れたことに気づいて、とりにいこうとするのを洋次が止める。妻の体を気づかって自分が行くというのだ。しばらく押し問答をしているが結局洋次がいくことになった。
洋次が出かけると、隣から大家の瀬戸山剛史(鴨川てんし)がやってくる。洋次になにか頼みごとがあるということだったが、直子は、夫は直に帰るからといって瀬戸山を引き止め、ビールの栓を抜く。瀬戸山は酒に目がない。思わず上がり込んで手酌でやっていると、そこへ妻のしげが佐伯の家に惣菜のおすそ分けを届けに現れる。見とがめたしげは「なんば、しよっと!」ということになる。瀬戸山の恐妻家ぶりは尋常ではない。酒で失敗するたびにかなり絞られているらしい。鴨川てんしの慌てぶりがあの容貌だけにすこぶるおかしい。頼みごとというのは佐伯に町内の運動会に出て欲しいというものであった。瀬戸山は実行委員になっていて、参加するものが少ないために運動に縁がなさそうな佐伯にも誘いの声をかけようというのであった。そんな話をしているうちに直子が席を外す。そろそろ引き上げようと、しげと瀬戸山が台所の直子に話かけるが返事がない。異変を感じた二人が席を立つと壁の後ろから慌てた様子の声が聞こえて来る。
その夜、医師の柳本滋郎(関輝雄)が看護婦の南田幸子(頼経明子)を伴って往診にきている。看護婦が寝間から先に現れ、手水の水を取り換えに洗面器をもって出てくる。このあたりの段取りとタイミングは老練な劇作家の手腕を思わせいかにも巧みである。瀬戸山夫妻も心配顔でかしこまっているところへ柳本が深刻そうな顔で出てくる。それを察知した夫妻がいとまごいして洋次がひとりになると、医師は余命三ヶ月を告げ、患者が意識を取り戻したのをきっかけに帰っていく。ぽつねんと独り舞台に残った佐伯に寝間から直子が話しかけ、ぼつぼつと会話がはじまる。佐伯は今日学校をくびになったという。臨時の講師か何かだったのだろう。今度は定時制の教員の仕事を世話してもらえそうだ。直子は瀬戸山のしげが家賃の催促にきたのを知っていた。まもなく原稿料が入るからそれで払えばいいと言うところを見ると、佐伯は何か書いているらしい。直子が日傘を忘れた公園で赤い靴の女の子に会った話をひとしきりしたあと、不意に「すいまっせん」と声をつまらせる。「なにもお前は悪うなかとぞ。」と佐伯。病のことか、それとも子が出来なかったことか、いずれにしても佐伯は妻が何を謝っているのか分かっている。
数日後、縁側の外で脚立の上に上がって何やら作業をしている男がいる。文芸誌「しおかぜ」の編集者、吉岡良一(大竹周作)で、台風のために壊れた屋根の樋の修理を手伝っていたのだ。佐伯に定時制高校の講師の口を紹介したのはこの男であった。修理道具を貸してくれた瀬戸山剛史が現れ、雑談の中から運動会の話になって佐伯どころか吉岡まで巻き込まれそうな展開になる。ひとしきり話がはずんでいるところへしげがやってくる。初対面の吉岡を紹介されたしげは、当然のことに「この間まで原稿を取りにきていた女の人のこと」に言及する。しげは、女性編集者と何度か顔を合せていた。ここが大事な伏線になっていて、寝間にいては退屈だといって座敷に布団を引っ張り出して様子を見ていた直子がこれを聴いている。
「・・・あの人は、佐伯さんと呼びよらしたよね・・・」と一同が帰ったあとで、直子がぽつんという。吉岡が佐伯を「先生」と呼ぶのにたいして、あの女の人、多田久子は「佐伯さん」といったという意味である。ここで、僕らは妻が病の床にあるとは言え、平穏な夫婦の日常と見えるその底に何やらざわめくものが押し隠されていることに気がつくのである。
町内の運動会が終って佐伯洋次が家に帰っている。足に出来たマメの手当てをしているところへ吉岡がひょっこり顔をのぞかせる。直子は隣室で休んでいるらしい。さりげなく吉岡が多田と会ってきたという。彼女は博多の本社に転勤が決まって、近く先生の元に原稿を取りに伺うとのこと。それがこちらでの最後の仕事になるので奥様にもごあいさつをしたいと申しています、ということだった。それなら高校のほうに来るように伝えてくれと佐伯。吉岡は少し躊躇して「多田がなんというか・・・、二人で会うのはよくないのでは・・・」という。どうもこの関係は吉岡の周辺では周知のことらしい。
この日夕方看護婦の南田が帰りがけに薬を届けに立ち寄った。ちょうど食事中だった二人は、一緒に夕飯を、と誘って南田を家に上げる。先生が長旅でなければ外出はかまわないといっている旨を伝えられると、直子は早速どこへ行こうか南田に相談をはじめる。若く健康ではちきれんばかりの肉体を直子は眩しそうに見つめながら、自分がいなくなっても訪ねてやってくれという意味のことを南田に言う。それがどんなことなのか分かっているだけに若い南田は身を固くして黙るしかない。
南田が推薦してくれた海を見に外出する日、朝から雨が降っている。久し振りに外に出るのを楽しみにしていた直子は着ていく服を選ぶのに洋次を巻き込んで大騒ぎである。夫の背広を換えさせ、とっておきのハンドバックを探しだすのに家の中を右往左往している。さて出かけようと弁当をとりに台所へ向かったところで玄関に人の気配。戻った洋次に誰かと訪ねると、果たして多田久子だという。転勤の挨拶を兼ねて原稿を取りにきたのだ。上がってもらえばいいと直子。現れた多田(藤本喜久子)の髪は雨に濡れている。お茶を差し出す直子がそれに気づいてタオルを取りに戻る。「・・・髪・・・切らしたとですか・・・」と直子。髪を切ってこの人は何を決心したのかと直子は考えたかもしれない。多田を目の前にして様々の想念が頭を巡ったはずだ。「・・・どうぞ・・・お茶飲まっさんですか・・・」洋次と多田がお茶を口に運ぶが、直子はじっと茶碗を見つめ、一呼吸おいて持ち上げるが、指から抜け落ちるように茶碗が転がる。「拭かんか・・・」と洋次。多田がタオルをさし出す。直子はそのまま動けない。そのタオルを多田から取ると洋次は直子の前まで行って拭こうとする。と突然、直子が洋次の腕を取って激しく自分の膝の上に押し付け何かに耐えるように目をつむって離さない。それは多田の目に入っている。いたたまれなくなった多田が「失礼します」と言い残して立ち去る。
見送りに出た洋次のいない座敷で、ひとり抜け殻のようになった直子が佇んで「・・・雨の上がったとですよ・・・」と誰に言うともなしにつぶやく。庭に出た直子の上に陽光が差している。戻った洋次が妻の姿に気づかず、家の中をうろうろ探している様子を直子はじっと見ている。探し疲れて力なく木の腰かけに坐っている夫に「そっちから見える?」と声をかけるのに洋次は驚いて振り向く。直子は明るい声で自分はいま虹の中にいるのだという。そして、少し真顔になって「うちのこと・・・、忘れたらいけんとよ・・・」というと次の瞬間無邪気に笑う。十月の午後の日を浴びながら・・・。
一月末になっていた。瀬戸山夫妻が座敷にいると、火葬場から他のものは帰ったといって吉岡と佐伯が入ってくる。吉岡は佐伯に気を落とさないようにというが、まあ覚悟はしていたから・・・心配ないと応える。多田も向こうで頑張っているという言葉にもあっさりとした反応である。それぞれが帰って行き佐伯がひとり取り残される。腹がへっていることに気づいたのか台所に行ってお茶漬けを持ってくると卓袱台に座って食べはじめる。ふと気がつくと雪が舞っている。誰に言ったのか「・・・おい・・・雪の降ってきたぞ・・・」
この稿を大部書き進めてから、エピソードの順番にあまり自信がなかったので、戯曲に当たろうと思って探したら幸い裏の図書館で見つかった。最初に早熟な若者の反面、若さゆえに書き足りていないといったのは本に当たる前だった。このときは、直子の心情はよく表現されていて情感も込められているが、洋次がどう思っているのか最後にくるまでわからない、少しバランスが悪いのではないかということであった。この描き方では観客は夫と妻のどちらの視線にも属さない極めてニュートラルな位置から物語を見ているために、通俗的な興味でみたり、たまたまこの夫婦に訪れた不幸で特殊な出来事にすぎないと思ったり、取りようによって案外平板に見えるのである。もう少し言うと、死にゆくものの立場に重心をおくとややもするとセンチメンタリズムに陥りやすい。ここは、残されたものの視線から二人の関係を物語るのが自然ではないか。妻への鎮魂歌とは裏返せば夫がその死を納得するためのいわば「論理」でなければならない。そのためには冷静にあるいは赤裸々に自分の心を対象化する必要がある。そういうある普遍的なプリンシパルにシンクロした時に真に観客にカタルシスが訪れるというものである。審判役として吉岡の役割は重要だったが、もっと大事な役をになうべき洋次の影が薄かった。
ところが、本を読んで少し考えが変わった。戯曲の前書きにこう書いてある。
「生まれることも/死ぬことも/人間への何かの遠い復讐かもしれない/確かに、それゆえ、男と女は/その復讐が永続するための/一組の罠という他ない」
松田正隆は果たしてアダムとイブのことをいっているのかもしれない。そうでなくてもこのフレーズから受けるのは男と女は別のものでありながら一対であることから逃れられないという実存的な構造をいっているようだ。とすれば、男と女どちらにも属さない第三の目、言わば超越的な目線で見るということはあってもおかしくはない。それならば、男女どちらかの主体の側から対象を見ないと普遍性にはたどり着けないという僕のような考えは間違っていることになる。この一対の夫婦、それが紛れもない人間の姿であり、普遍性とはそれ以上でもそれ以下でもない。
しかし、最後の洋次の独白を読み返して、あの場面では聞き逃していた別のことに気がついた。洋次のモノローグはこうである。
「わたしは、しかし/妻に重さがあると知って驚いた若い日の甘美な困惑の中を今もさまよう/  たぶん、と私は思う/遠い復讐とは別の起源を持つ/遠い餞け(はなむけ=筆者注)があったのだと、そして/    女の体に託され、男の心に重さを加える/不思議な慈しみのようなものを/眠っている妻の傍でもて余したりする 」
洋次は気がついていた。「遠い復讐とは別の起源を持つ遠い餞け」があったことに。松田は戯曲の最初に掲げた言葉に呼応して、「罠」とは「不思議な慈しみ」に他ならないとそれを否定するように変容させる。男と女は始めからその存在を祝福されていたのだというのであろう。ならば、僕が不満を言ったのは戯曲に対して不当であった。責められるべきは、演出家と俳優である。
洋次は妻の悲しみを必死で受け止め、それに全身で応えようとしていた。自分はどうしたらいいのか。妻の死にどうしたら誠実に向き合えるのか?洋次は小説家である。小説家は自分の心をのぞき込みその課題を考えるであろう。

やはり、平田満に「不思議な慈しみのようなものを眠っている妻の傍でもて余したりする」演技を要求しても無理がある。純朴さはあっても小説家のような繊細さと知性には欠ける(本当にないというわけではなく印象で損をしている)。また、竹下景子の起伏の少ない表現力には限界があった。別のキャスティングでもう一度見るか。それにしてもこういうものが描けた松田正隆の力量を再認識した。

 

 

題名:海と日傘
観劇日: 07/11/9
劇場:あうるすぽっと
主催:豊島区・としま未来文化財団
期間:10月30日〜11月11日
作:松田 正隆
演出:高瀬 久男
美術:島 次郎
照明:沢田祐二
衣装:前田文子
音楽・音響:藤田赤目
出演者:竹下景子 平田満 山本道子 関 輝雄 鴨川てんし 藤本喜久子 大竹周作 頼経明子

 

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