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「ワールド・トレード・センター」

一体何故こういうものを書いたのか?それは二重の疑問であった。舞台で展開されたのは、2001年9月11日、マンハッタンのグランドセントラル駅近くのビルにある雑誌編集部の一日を淡々と描いたものである。そのことにどんな論評も加えずに、いかにもNY在住の日本人独特の雰囲気がただよう=実際に行ったものにしか分からないかもしれない「異邦人」性みたいなもの、の中に事件を埋め込んでしまったのである。
その日、坂手洋二は現場にいたわけではなかった。にもかかわらず、自分が96年ごろから時事評論の連載をしていたという浅からぬ因縁のあるこのECS編集部に取材して、虚実ない混ぜながらその日一日の出来事をいわば定点に留まってありのままに報告しようとした。しかも、時事評論家としての坂手はそこにいない。この劇は崩れ落ちたWTCの粉塵がまだおさまっていないだろう真夜中の編集室で、最後に居残った編集長カマタ(大西孝洋)と編集者の女(秋葉ヨリエ)の会話で終る。過去になにかあったと思わせるそぶりで女がいう。「I hate you.」男が今何といった?という風に振り返ると女は「but, I love you.」とつぶやく。(確かこうだったと思う。)アラブ人たちの怒りと憎しみが火の玉となって、つい十数時間前に三千人の命が奪われた途方もない一日をこのように締めくくるのは意外であった。
9.11をマンハッタンのどこで経験したかによって、見方はがらりと違うという誰かが言った言葉を坂手は引用している。このオフィスは現場から約6km、劇場街のブロードウエイ近くのミッドタウンにある。TWCはマンハッタンの南の端にあったから、そこから2〜3キロ北までは、崩れ落ちるビルや空から降ってくる人の姿を目の当たりにした地区である。NYに長年住んでいる友人の妻は日本の金融機関に勤めていて、この朝出勤してすぐに事件を目にした。巨大なジャンボジェットが目の前のビルに衝突した時、ガラス窓を通してボッという熱気が頬を打ったという。こういう経験をした地域を仮にA地区とすれば、舞台となったオフィスはB地区にある。そこからさらに北へセントラルパーク辺りまで行くと立ち上る煙くらいしか見えないC地区になる。
開幕してすぐに階段の踊り場から双眼鏡を使って見ている場面がある。この距離感が一時滞在者に過ぎないNYの日本人のメンタリティを象徴的に表わしている。一体何が起きているのか現地メディアの伝えるところは混乱している。この混乱は、同時多発という状況がさらにNY市街を襲うかもしれないという可能性を前提にしていたからといえる。だからむしろ、日本に電話して同時刻にやっていた筑紫哲也のニュース番組で情報をとっていたという話にはいかにもというリアリティがある。
最初はそんなのんびりムードであったが、事件は、ビルが崩れ落ちる頃からこのオフィスにも徐々に浸透してくる。ちょっと様子を見てくるといって出たカメラマンが現場にいったきり連絡が途絶え、頭から埃を浴びた日本人が避難してくるに及んで俄に緊迫した状況が生まれるのだ。
坂手はこの雑誌に寄稿していた間、他の仕事も兼ねてNY滞在の拠点を15丁目のややハドソン川寄り(7番街)のアパートに持っていたようだ。この日はそのあたりに非常線がはられ、住人すらそこから南に出入りを禁止されることになった。この自分がよく見知っている街という親近感によって、彼は現場にいなかったにも関わらず自分の立ち位置をもっともAに近いB地区におくことができたのではないかと思う。つまり、編集部での出来事を取材しながら、それを現場との関係でより立体的に描けたのは彼がNYのダウンタウンに拠点を持っていたことが大きい。しかもこの劇を書こうと思ったのは何よりも土地勘があって、そこで起きた重大事件であったことが動機になっているのではないかと思われる。彼の関心は、その真ん中で何があったかということに違いないが、残念ながら編集部はB地区であるミッドタウンにある。
したがってそこで起きることはこの事件の余波が様々なところに影響してくるといったいわば間接的な出来事である。果たしてその夜オフブロードウエイで計画していた芝居はそのまま公演が行われうるのか?編集部に出入りしている俳優たち、ウエダ(樋尾麻衣子)やコンノ(久保島隆)に混じってイタリア系の米国人であるジャニー(Ed Vassallo)がやって来る。数時間後に迫った問題に意思決定をしなければならない。この俳優はアンダースタディといって「代役」を専門にやっているらしい。地下鉄が終夜運行をするのか気になるところである。そのあいだにもアルバイトや編集者が出入りして外の様子を刻々と伝えてくるが、WTCに居た勤め人はじめ救出に向かった消防士たちも多数亡くなったという話を聞くにつけ、編集部にも動揺が走る。そこで、ジャニーの発案で、俳優たちにも教えているというメンタルトレーニングをすることになるが、この恐ろしくからだを動かし体力を使う運動に一同やや唖然。
その間にECSのゼネラルマネージャー、イデイ(小宮孝泰)が現れ、編集長や編集部員たちとの雑談のなかからこの雑誌の置かれている微妙な位置関係が明らかにされる。NY周辺に住んでいる約6万人の日本人に対して隔週刊で販売されているこの雑誌は、親会社である宅配・運送業者の出資ではじめられた。最近では同じターゲットに配られるフリーマガジンに押されぎみだが、まだ赤字に陥ってはいない。ビルは親会社の所有、編集員も充実していて恵まれた経営環境にある。しかし、長期的に見れば親会社との業態に大きな違いがあり、なにかあればいつでも放り出される不安は存在する。内部の問題としてあるとすれば、編集長はじめ編集部員が皆一時滞在者もしくはいつかは日本に帰ろうと思っているもの、つまり皆よそ者意識で、NYに骨を埋めようと思っているものはいないということである。しかし、これとても同じような立ち場にいる日本人が読む雑誌ではないかといえば、NYにまったく別の、米国とは関わりのないコミュニティが嵌まりこんでいる奇妙な風景があるだけということも出来る。
この立場は、「ワールドトレードセンター」が「アタック」されたという事実を捉える目にも当然現れる。WTCはカタカナ語で「ワートレ」である。米国人には絶対に通じない言葉であるが、日本人にとってはこの上ない便利な略語である。劇ではこのカタカナ語の不思議、つまり外国のものをカタカナで取り込み、いつの間にか日本語にしてしまっている、その対象との距離感が独特だという議論が編集者のあいだで話題になる。中国語は外国語に発音の近い漢字を当てるということだが、つまり飯店がレストランではなく音を当てはめたホテルであるというように、それに比べると確かにカタカナ語は便利である。見ただけで外来語だと分かる仕掛けになっている。それが略されて「ワートレ」になると日本の社会でしか通じないある種別物になってしまうというのである。何故そうなるのかといえば、といっても劇で語られているわけではないが、長い間外国との接触がなく、案外自己中心的な発想が根底にあるからかもしれないと僕は思っている。世界の先進国のうち独特の地理関係(ゲオポリティクス)と唯一キリスト教と関係しない独自に発展した歴史をもっている国だから、とでもとりあえず言う他ないのではないか。異質の文化なのである。この議論には異質であることを密かに恐れているという自嘲気味の匂いがあって、あまりまともに聞ける話ではない。ただ、「ワートレ」には一種の軽さ、突き放したような印象があるのは事実である。WTCがNYの人々、いや米国の人々にとって国の威信の象徴であったという点で、そういういい方に違和感があるのは否めない。しかしながら、むしろ極言すれば、カタカナ議論は一旦カッコに入れるとして、9.11は世界史に残る重大事件には違いないが、動機も結果もハナから日本人にはあまり関係がなかったといえる。(日本人三十人が犠牲になったのは事実としてあるが・・・そういう議論ではない。)
劇は一貫してこの「関係なさ」を描く、というよりは描かざるを得ないのだが、しかし、坂手は描くことによって確実に自分の世界観を変容させたと僕は感じた。それが最初にいった二重の疑問の回答である。
この日の夕方NYに入ったブッシュが最初にやったことは、ほとんど報道されていないが、三大ネットワークの責任者を呼んで、こういったのだ。「今後政府のやることに批判的な報道は厳に慎むように。」大統領がメディアを規制したという本来なら大スキャンダルになるべきところを、すんなり通過して米国は攻撃を受けたその日のうちに国を挙げて復讐ののろしを上げ、アフガニスタン侵攻に雪崩を打って突入していくのである。劇では、ブッシュの声明について軽く言及するだけで、深追いをしない。あれから六年が経過した現在から見れば、イラク戦争の泥沼があの時点から始まったのである。ここで、「チェックポイント黒点島」や「上演されなかった『三人姉妹』」の坂手洋二であれば、一言声を発しているはずだが、NYの異邦人たちは沈黙したままだった。
では坂手の視線は何を見ていたのだろうか?
劇はB地区で起きていることを描いていた。しかし、坂手の目はかつて何年にもわたってテンポラリーに暮らしたことのある、あのA地区にもっとも近い15丁目のアパートの前に佇んで、崩れ落ちていく巨大な建物を見ていたのではないか?いつも目の前にあった天を衝くような二つの塔が一瞬にして視界から消える。三千人余の人々の命が押しつぶされる。そして彼は名状し難い恐怖感に襲われながらたちつくす。粉塵が次第におさまっていくと現れてきたのは巨大な空虚である。そのうつろな空間は、単に不在ということをはるかに越えたむなしさ、いわば無常である。無常の中に、善悪も敵味方も宗教も人種もない。彼は、対立や暴力の果てあるいは原初には、無常というものがあることを知ったのではないか。これは実際に彼が体験したことではない。しかし、行きなれていたアパートの傍に想像で身を置くことは出来る。もし自分がそこにいたらば・・・・・・。そうしてこの無常ということを前にして、どうしたらこの事件に自分がコミット出来るのか、途方に暮れたあげく、坂手は時事評論家として言うべき言葉を失ったのである。
B地区とは、そのA地区に隣接していながら当事者たりえないというもっとも居心地の悪い場所である。何が起きているのか見えない上に状況分析する十分な情報もない。日本で伝えられていることを入手して目の前のことを知る有り様である。自分が寄稿していた雑誌の編集部がたまたまここにあった。その日の出来事を聞き出せる複数の知人がいる。しかもNYの中の日本人、どこまでもいっても当事者たりえない。それを描くことによって生じるもどかしさの中に、自分はもはや「C地区にはいない」と言うことを込めたかったのではないかと思うのである。C地区とはセントラルパーク辺りよりも北のアップタウンである。そこからマンハッタンの先端を見れば、NYが、いや米国経済の象徴が攻撃を受けて煙を上げている光景がよく見えただろう。状況を分析することも、その意味するところも理解出来たに違いない。見通しのよいC地区は時事評論家が住まう場所である。しかし、自分はもはやそこにはいない。ブッシュ批判もアル・カーイダ批判もさておいて、何が起きているのかと事象の真ん中へ肉迫していく。なぜならそこは自分がかつて暮らした親しい街だったからである。すると、意外なことに現れたのは巨大な無、空虚であった。
この日ブッシュは、これは戦争だといった。宣戦布告もない、国家対国家の戦いでもない、テロとの戦争だといった。これまでの戦争のルールから大きく逸脱しているという意味で、これが二十一世紀の最初の年に起きたということは象徴的である。しかし、それはレトリックに過ぎない。すべての戦争という言い方がないのと同様、すべてのテロも存在しない。あるのは憎しみや憤怒が暴力に昇華せざるを得なかった個別の行動だけである。したがって、米国に対するテロ攻撃は個有のものである。にもかかわらず多くの先進国はブッシュの呼びかけに応じた。それはレトリックにまんまとはまったわけではなく、それぞれ個別の理由、国としての利害得失を考慮した結果のことだった。そうしてこの事件は、たちまち各国家間の極めて政治外交的イシューになってしまったのである。
人間の歴史は、平和で幸福に暮らせる理想的な社会をめざして進化し続けるという神話が正しいと思われていた時は、「現在の権力」は必然的に克服されるべきものに過ぎないのであった。今でもこういう考え方は漠然とした形であっても残っている。後から来るものは正しいと。しかし、それでは割り切れないこともある。この劇では、米国社会の中にある、しかもNYという国際都市にある日本人コミュニティの特殊性がいやがうえにも際立たってみえる。WTCのテロ攻撃という事件が何であったかに一言も言及しないで(この言い方ではちょっと語弊があるかもしれないが)B地区という中途半端な位置にあった、日本人が集まる事務所のちょっとした非日常を描いただけではないかということもできる。しかし、こういう描き方をせざるを得なかったのは、坂手自身がそこにいる、そこにしかいないことに気がついたからである。それでも、あの激突の現場を感じることは出来る。憎しみの力、対立のエネルギーが衝突して消滅したグランドゼロ。あの空虚、無常は普遍的なものである。それを描こうとしてC地区に戻ろうとしたが、今まで自分がもっていた物差しでは推し量れない、割り切れないものがあることに気がついたのだ。自分の立ち位置は所詮ここにしかないと。
この劇のチラシには一行のコピーが書かれている。「たった一日で、世界が変るわけじゃない。」その通りに違いないが、しかし坂手洋二にとっては世界観に影響した出来事だったのではないかと思って見ていた。
各エピソードには、たとえば編集員に応募してきたの女(江口敦子)が段ボールの中に入って寝ているとか、日本人の前衛アーティストという得体のしれないいかにもNYにいそうな男(川中健次郎)が登場するなど、面白いものもあったが、ならべかたに工夫が乏しく散漫な印象があった。

これ以降坂手の書くものに変化があるのではないかと密かに期待している。

 

 

 

題名:

ワールド・トレード・センター

観劇日:

07/10/26

劇場:

下北沢ザ・スズナリ      

主催:

燐光群

期間:

2007年10月20日〜11月6日

作:

坂手洋二 

演出:

坂手洋二

美術:

伊藤雅子 

照明:

竹林功

衣装:

伊藤雅子

音楽・音響:

島猛 

出演者:

中山マリ 川中健次郎  猪熊恒和 大西孝洋   江口敦子 樋尾麻衣子 向井孝成 久保島隆 杉山英之 小金井篤 秋葉ヨリエ 阿諏訪麻子 安仁屋美峰 高地寛 伊勢谷能宣 嚴樫佑介西川大輔 吉成淳一 武山尚久 鈴木陽介

 

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