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題名: 闇に咲く花
観劇日: 2008/08/15
劇場: 紀伊国屋サザンシアター
主催: こまつ座
期間: 2008年8月15日〜8月31日
作: 井上ひさし
演出: 栗山民也
美術: 石井強司
照明: 服部基
衣装: 宮本宣子
音楽・音響: 宇野誠一郎
出演者: 石母田史朗 浅野雅博 
辻 萬長 小林 隆 石田圭祐 北川響 増子倭文江 山本道子 藤本喜久子 井上薫 高島 玲    
眞中幸子  水村 直也(ギター)

「闇に咲く花」

前回見たのは七年も前、2001年八月だった。名古屋章がまだ存命で、神主牛木公麿役は押しが強くてとぼけた味がぴったりのはまり役だと思った。(初演は松熊信義)息子健太郎を千葉哲也、神田警察の鈴木巡査が小市慢太郎、GHQ職員諏訪三郎がたかお鷹、にぎやかな戦争未亡人の五人組は、増子倭文枝(青年座)、梅沢昌代(文学座)、那須佐代子(青年座)、日下由美(文学座)、島田桃子(文学座)の芸達者であった。
実は、その前1999年十一月にも見ている。名古屋章、小市慢太郎、たかお鷹、増子倭文枝、梅沢昌代、那須佐代子は同じ、健太郎を益岡徹、その親友稲垣善治を近藤芳正がやった。初演から出ずっぱりなのがギターの加藤さん役水村直也である。
1989年四月の再演、河原崎建三の健太郎役を見たような気もするが、何しろかなり前のことなので記憶が定かではない。
このように何度も見ている芝居なのに、なぜ「闇に咲く花」なのかちっともピンと来ていなかった。戦争から帰ってきた一人息子が理不尽な戦犯容疑で南方に連れ戻され裁かれるというなんとも痛ましくやるせない話である。この印象があまり強いために、「愛敬稲荷神社物語」というサブタイトルの方が僕の中では少し霞んでしまっていたのかもしれない。これは、神社とは何か、特に戦争の時代の神社とは何だったかというテーマが一貫して流れているところに、唐突な印象を否めないC級戦犯という、これはこれで別の深刻な問題を重ねてある、その二つの構造の関係をきれいにすっきりとは得心していなかったせいにちがいない。

終戦から二年たった昭和二十二年の夏、神田は駿河台猿楽町の愛敬稲荷神社。境内の建物は焼夷弾にやられてほとんど焼失、舞台中央にあるのは唯一焼け残った神楽堂である。洗濯物が干してあったり畳んだせんべい布団が隅にあるなど所帯じみたところもあるが、 そのくせ正面には壁代がかかり梁には鈴が下がっていて、にわか仕立ての本堂といったしつらえである。焦げた立ち木がちらほら見える。下手にはバラックの屋根の下に長い作業台とベンチ、その上に数本の縄を渡してひょっとこやおかめのお面がつるしてある。

大の字に寝ていた神社の宮司牛木公麿(辻萬長)がむっくり起きだして、舞台下手へ移動するところへおなかの大きな婦人が次々に五人(増子倭文江、山本道子、藤本喜久子、井上薫、高島玲)現れる。妊娠なのかと思っていると五人は腹から大きな袋をとり出して牛木に渡しふうふういっている。
この時期、東京の食糧事情は最も悪いころである。五人は神社の焼け残った絹の壁代や道具類をもって成田まで米の買い出しに出かけたのであった。闇米を取り締まる経済警察が要所要所で待機しているのに出くわすと、大きなお腹を指して生まれそうだと騒ぐ。その手でうまく摘発をかわしてたどり着いたというわけである。
五人は、いずれも近所のアパートに暮らす戦争未亡人。夫を戦地に送り出すときにこの神社でお祓いを受け、宮司の激励を聞いたものばかりである。その縁で、今は神社の境内につくった工房に集まり、お面をつくって細々と暮らしている。
神事に使うものを米に換えるなど罰が当たるのではないかという彼女らの心配に、宮司は「神様はお留守のようだ。戦時中も神風を吹かしめたまえと祈ったが、そよとも吹かなかったではないか。」と今も神は不在だといって安心させる。神主がこんなことをいうのは何だかご都合主義のようである。
そこへ猿楽町二丁目交番勤務になったという警官、鈴木巡査(小林隆)が挨拶にやって来る。愛敬稲荷神社の愛敬とは珍しいと思ったが、なにか?などと如才ない。役者に芸者に幇間、料亭に小料理屋など愛敬を売る客商売が生業の人たちの信仰を集める、いたって庶民的な神社なのだという。鈴木は闇米のことに気付いている様子である。
巡査と入れ替わりに稲垣善治(浅野雅博)が現れる。稲垣は牛木健太郎(石母田史朗)の親友であった。金華小学校、神田中等学校時代、野球部で剛腕投手だった健太郎とバッテリーを組んでいた。健太郎は職業野球団イーグルスに入団したが、稲垣は自分の才能に見切りをつけて家業である医者の道を目指した。軍医として応召し、つい最近南方からようやく帰還したばかりであった。健太郎が昭和十九年にグアム島からマニラに転戦の途中、戦死したことをすでに知っていた。昔話の中で、健太郎が捨て子だったことが明かされる。
稲垣が健太郎との思い出を語っていると、いつの間にか見知らぬ男(石田圭祐)が現れて、話の中に入り込んでくる。球は速いがコントロールが今一つ、という健太郎の欠点が職業野球団に入ってからも悩みの種だった。グアム島守備隊に配属されるとそれを克服しようと現地の青年相手によくピッチングの練習をしていた。ある時練習中に速い球を取り損ねた青年がボールを額で受けて脳震盪を起こしてしまう。病院に担ぎ込まれるが全治一ヶ月、命に別状あるわけではなかった。不思議なことにそれをきっかけにして制球力が身に付いたというのである。見知らぬ男がなぜそこまで知っているのか?唖然としている稲垣と神主に、「グアム島時代の牛木健太郎に特別の関心を抱いているもの」という奇妙な言葉を残して男はその場を去っていく。

愛敬稲荷神社が神社本庁の傘下に入らないからといって何かと目をつけられていたが、牛木公麿が呼び出されて「闇をやっちゃいかん。地道にお御籤や御守りを売って生計を立てるように。」といわれる。神社本庁は伊勢神宮を中心とする全国八万の神社のほとんどを束ねている団体で力がある。本殿も拝殿も跡継ぎもない身ではこれに加わっても仕方がない。それよりも何よりも食うことで精いっぱい、ということだったのだ。
それで、ようやく印刷を頼んでいたお御籤が上がってきたので、未亡人グループのひとりが運試しにと引いてみることになった。大吉だったから、まあ良かったと喜んでいると、息子が大金を拾って交番に届けたら謝礼をもらったという知らせが飛び込む。それを聞いて次から次にお御籤を引くのだが、すべて大吉、しかもそれぞれ思いもかけない幸運が舞い込むというおめでたいこと続き。そうした騒ぎが前兆となって、ついにおめでたの最高潮がおとずれる。
突然、健太郎(石母田史朗)が「父さん、ただいま」と現れたのだ。この芝居は伏線のはり方が実にうまい。得体のしれない男が訪ねてくるのもそうだが、「大吉」の連続なんてあり得ないなどと思わせる暇も無く、戦死したはずの健太郎が生きて帰ってくるのである。
マニラに移動する船が魚雷にやられて漂流しているところを米軍に救助され、ハワイで治療を受けた後にカリフォルニアの収容所に送られて、そこで終戦を迎えたという。帰国が遅れたのは、海に投げ出されたときに頭を打って記憶をなくしたせいであった。収容所で野球をしているうちボールが頭あたったことがきっかけで、記憶が戻ってきたのである。

健太郎は、境内の片づけや掃除に汗を流しながら、職業野球団のテストを受けて見事合格した。これで一安心と、公麿は神社本庁に出向いて仲間入りをすることに決める。ところが、それに健太郎は不満である。
公麿はいう。神道には創始者もいなければ教典もない。いわば日本民族の歴史とともに自然に成立したもので、そこにあるのはただ一つ浄く明るい心だけである。それは日本民族という皮でできたゴムまりのようなものだ。中には浄く明るい心がいっぱい詰まっている。外からおされればおとなしく凹んでいるが、その力がなくなればまたもとの真ん丸な形に戻ってよく弾むようになる。神道は古来ほかの宗教にも寛容で、その態度は実に融通無碍なのである。
健太郎の不満は、この神社がなぜ、いちいち上に何かを戴いてないと気が済まないのか?というものであった。戦争中、神道が国家と手を結んだときには、国のために命を捧げよう、靖国で会おうなどとつらいことを神社がいわなくてはならなかった。 今またたった一つの組織をつくって、なんだかんだ指図をしようとするのはまるで役所のようではないか。 もともと神社は通りすがりの人が、人並みの幸せをちょっと祈るところ、できるだけ正直に生きようと決心するところ、いわば庶民の心のよりどころではないか。この神社も、近所の人がここに来れば何だか慰められ励まされ自分の人生や世の中と仲直りできる、そんなところであって欲しいと健太郎はいう。
聞いていた未亡人たちが口々に、そういえばうちの亭主が出征するとき神主さんは「骨は国が拾ってやるから安心していきなさい」などと、国のために死ねという意味のことをいっていたと話し始める。聞いていた公麿が、腹立ち紛れに健太郎は外で寝ろ!お面の工房も閉鎖だ!と当たり散らす。公麿には健太郎の気持ちが理解できないようだ。

ちょうどその騒ぎの最中に、鈴木巡査が先日やってきた見知らぬ男を伴って現れる。男は、占領軍総司令部法務部雇の諏訪三郎と名乗って、牛木健太郎がC級戦犯容疑で召喚されていると告げる。グアム島におけるキャッチボールの一件が、非人道的行為と見なされたのだ。現地の青年に悪気はなかった。ただ覚えている日本兵の名をいえといわれ、「うしき」=「ウイスキー」のニックネームで人気者だった健太郎の名を上げたのである。
それを聞いた健太郎が、にわかに頭を抱え奇妙な声を上げる。自分が誰かわからなくなっているらしい。捨て子だった幼い自分に変えっている。神経科医である稲垣が、これはショック性の全生涯にわたる全健忘症であると一同に向かって宣言する。
稲垣は治療をしようとするが、記憶が戻ったら健太郎=健坊はつれていかれる。とはいえ、このままでは健太郎は生きていけない。思案の揚げ句、健坊が直ったら秩父の田舎に隠してしまおうと密かに決心する。

こうして、お御籤の大吉に始まる幸福の絶頂も長くは続かなかった。闇商売は、再度挑戦した妊婦作戦が見破られて大失敗。さらに、これが最後と大きな賭けに出たイワシの商売も儲けどころか、かえって罰金をとられるという最悪の事態に終わった。
一方、稲垣の熱心な治療が功を奏して健太郎の記憶は徐々に戻りつつあった。手がかりはやはり野球のボール。中学時代の仲間の顔が浮かぶ。そこから一気に健太郎の頭の中に過去の出来事が蘇ってきたようだ。
「しかし、父さん。」と意外な言葉がその口から漏れる。この境内が焼けた屍体置き場になったときからここは神社でなくなったのだね、というのだ。神道の基本は、浄く明るい心を大切にする、それに尽きると、何度も聞かされた。そして、死は穢れているものだから神社で葬式はやらない、死は神社にふさわしくないのだ、と父さんは教えてくれた。ところが、戦争中ここからいったい何人の出征兵士を送り出したのか?ここが火葬場と化したその時から、神社も神道も滅んでしまったのだ。「お国のために死んでこい」といったときから、神社は死への入り口になってしまった。
健太郎は、ついこの間起きたことを忘れてはいけないという。そのことに詫びなければ神社や神道こそ全健忘症ではないか。過去の失敗を記憶していない人間の未来は暗い、と戦時中の態度にほおかむりしている神社や神道関係者を告発するのである。
神社は、人々の暮らしにそっと寄り添って、そのささやかな幸せを祈る場所、 道端に咲く名も無い小さな花だと健太郎はいう。
それを聞いた稲垣は、これで健坊は完全に直ったと宣言。さあ、秩父へというと、公麿もここを畳んで一緒に行く決心だという。
ところが、そこへ鈴木巡査が諏訪三郎を伴って現れる。稲垣が健太郎は重症で直らないというと、諏訪が一抱えもある大きな箱を持ってきて、いや、牛木健太郎の記憶は正常に戻ったと自信あり気である。
箱は開発されたばかりの磁気録音機であった。諏訪がスイッチを入れると健太郎がさっき話した言葉が再現される。確信に満ちた声だ。健太郎は死の恐怖が迫ってくるのを感じる。しかし、その機械から流れる自分の声に耳を澄まし、続けて「神社は花だ。・・・花は黙って咲いている。・・・花と向かい合っていると心が和む。これからの神社はそうならなくちゃね。」とつぶやく。健太郎にある覚悟ができたようだ。

エピローグで、裁判は三日で終わったことがわかる。公麿は境内に捨てられていた子と鈴木巡査が靖国神社で拾ってきた子供の二人を育てている。鈴木巡査は、公麿たちが仕組んだイワシの闇に加担して活躍、大成功させた後バレる寸前に警察をやめて、今は神社の副宮司に収まっている。諏訪が現れてGHQの仕事をやめたといい、健太郎が最後まで握っていたボール一個を手渡して行くところで幕が下りる。

帰還した青年がC級戦犯で現地に送還され処刑されるという痛ましい話なのに、心地よい清涼感が残るのはなんといっても栗山民也の演出によるところが大きい。闇商売における官憲との攻防、戦中の神社・神道批判、C級戦犯という重い問題。井上ひさしの構成の妙ということもあるが、緩急自在にユーモアを絶やさず日本人が健忘症にかかっているという主題を追求して間然するところがなかった。
戦中、神社は死への入り口になった。神道は死という穢れを受け入れて道を誤った。健太郎は話しているうちに自分の果たすべき役割を理解した。その罪と罰を自分が一身に背負っていくしかない。残された父さんたち=戦後を生きる人々に、過去のあやまちから学んで未来をつくっていくために僕を忘れないで欲しいと願いつつ・・・。
健太郎は帰ってこなければ良かったのだ。いや、健坊はすでに南の海に投げだされたとき死んでいたのかもしれない・・・。帰ってきたのは健坊の亡霊だったのだ。だとすれば、僕を忘れないで欲しいという思いは、戦争の死者たち全員の声と重なるのではないか?

ただ、劇の興奮が去ってみると、なぜ神社なのか?という思いは残る。確かに神道であれ仏教であれ、戦時中の宗教が程度の差こそあっても戦争に協力したことは事実であろう。しかし、それをいうなら演劇や、文学もあらゆるところで大政翼賛的合従連衡はあった。なぜとりわけ神社が責めを受けなければならないのか?という理由を探すとすれば、明治になって神道が国家と結びついたという一点であろう。(仏教はそれ以前に徳川体制に組み込まれている)ならば、「浄く明るく=清明」という神道の中核にある思想(イデオロギーのようなものではないかもしれないが)あるいは古来からの伝統の何が変質したというのか、国家神道とは何んであったかという本質論がこの劇には足りなかった。つまり、舞台が神社である必然性が今一つ弱いと思うのだ。
一歩譲って、神社であることに重要な意味はないとして、この芝居は戦時中の庶民が、戦争に加担して兵士を戦場に駆り立てたことを、戦後になって、まるでなかったことのようにふるまうのを告発していることは明白である。反省がないというわけだ。確かに昨日までの正義を今日になって手のひらを返すように変えるというのは、卑怯であり、無責任である。
しかし、それをこのように攻め立てるのでは、おそらく「戦争に勝つことが目標だった」「時代がそうだった」「ほかに選択肢があったか?」という答えが返ってくるような気がしてならない。それでは不毛である。過去に学んで未来をつくることにはつながらない。むしろ、なぜ社会全体があれだけ一つの考え方にまとまってしまったのか?それがこの場合の問いのたて方だろう。
対支那戦略で不拡大を唱える軍人もいた。少なくとも日米開戦時において彼我の戦力比較では勝ち目がないことを知っていたものは一人や二人ではない。しかし、戦時中の社会は、かなり大胆にいってしまえば、客観的根拠も確かな戦略もなく、ただ情緒に流れて勢いが止まらなくなったようにみえる。ほんとうは、その流れの中にいた庶民(牛木公麿もそのひとり)を責めても酷である。なぜなら、そういうものが「庶民」だからだ。
僕はむしろ多様な意見が許される社会が健全なのだということにつなげなければ、反省がないとか卑怯千万といってもあまり意味がないと思っている。その点では「一億総懺悔」というのもかなり薄気味の悪いものだ。あちらでなければ今度はこちらという単純な振り子運動をくりかえすのではあまり生産的でない。もっと成熟した議論が必要なところなのに井上ひさしにそれを望むのは、それこそ酷かもしれない。
成熟した議論とは、第一次世界大戦(あたり)以降の日本の近・現代史を世界史の中において見直す、もっとはっきり言えば、なぜ日本は戦争に負けたのかという総括のことである。我が国はこの総括を左翼(いまとなってはサヨク)が一手に引き受けたために一元的な(勧善懲悪あるいは悪者探し)観点からしか見てこなかった。それが無効になった以上、今こそ「なぜ負けたのか」を多面的にとらえ、そのうえで我々の社会がどこへ向かうべきか総括すべきときである。

ついでにいえば、最近話題の「我が国が侵略国であったというのは濡れ衣である」という趣旨のエッセーを読んで上に述べたことを再確認した。侵略か大東亜共栄圏かという俗流とも言える議論はもともとあったのだが、この「濡れ衣」騒ぎは、外国から非難されるたびに平身低頭恭順の姿勢を貫く政府の態度を自虐史観と批判するむきには、いい鬱憤晴らしであった。しかし、これを今更ぶり返しても役に立つことは何もない。その中には、日本は謀略にあって、無理やり戦争に引きずり込まれたとか、ほかの先進国が侵略をしたのに日本だけが非難される筋合いはないといった妙な議論が含まれている。これでは論にもなっていない。あの戦争が侵略か否かはどうでもよろしい。むしろ軍人には、あの戦争に「なぜ負けたのか?」ということを真剣に考えていただきたい。
終戦の年に二十歳だった人はすでに83歳になった。もう二度と悲惨な体験はごめんだという人たちが、まもなく絶えてしまう。体験は伝わりにくいものである。せめて劇の世界ががんばるしかないが、それでもいずれ近いうちに、我が国も外交は軍事力を背景に!という時代が来るだろう。その時のためにも、やり残している「総括」が必要なのである。

とんだ脱線をしてしまった。劇に話を戻すと、今度のキャスティングの中で、少しぎくしゃくしている若者が何人かいると感じていたが、新人であった。戦争未亡人の中の最も若い小山民子役の高島玲、子守の少女役眞中幸子それに鈴木巡査の後任として最後に登場する吉田巡査の北側響である。この三人に共通しているのはいずれも新国立劇場演劇研修所第一期生であるということを後になって知った。所長は栗山民也だから教え子三人の起用である。いまひとつ溶け込んでいなかったのは仕方がないが、すぐになれるだろう。がんばって欲しいし、期待している。
辻萬長の牛木公麿は初めてだったが、そんな気がしなかった。適役であった。石母田史朗は僕が好きな役者の一人で、満足だった。初演から同じ役をやり通している増子倭文江、それに文学座の山本道子、無名塾出身の藤本喜久子、いずれも経験豊富な芸達者である。安心して見ていられるのはもちろんのことだが、今になって、この劇の主役はむしろ彼女たち五人の戦争未亡人なのではないかという気がしている。

というのも、最初にいった、これがなぜ「闇に咲く花」なのかピンと来ないという話にようやく戻るのだが。神社は「道端に咲く小さな名も無い花」と健太郎はいった。とりあえず「咲く花」が神社なのは間違いないところだろう。「闇に」というのは暗闇のことだから、咲いているかどうか見えないはずである。「闇でもそこだけは輝いている」ととるのは道端の地味な花といっているのにそぐわない。それに英語ならダーク、ダークサイドといえば邪悪な世界、これでは邪悪と神社の並列でいい意味にはならない。
いろいろ考えているうちに「闇」が暗闇で「咲く花」を神社と決めつけたらうまくいかないと思った。そこでようやく見えてきた。この芝居は、米の闇商売に成功するところからはじまり、同じ手口でしくじると今度はイワシの闇で失敗、その後大成功と都合四回も「闇」が出てくる。つまり「闇」とは暗闇ではなくて、統制に抵抗して庶民が生きていくための知恵だったのだ。となれば、後は簡単である。「咲く花」とはあの底抜けに明るい戦争未亡人たちだったのである。権力をものともせず闇商売に精を出す若い未亡人の群れ。またしても主役は女たちであった。こんな仕掛けになっていたとは、俺も頭が悪いよなあ。でも、これですっきりした・・・。
しかし、待てよ。これも珍解釈かも、と一抹の不安を残しながら終ることにします。

 

 

 

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