題名:

屋根裏

観劇日:

05/4/15

劇場:

梅ヶ丘BOX

主催:

燐光群     

期間:

2005年3月26日〜4月16日

作:

坂手洋二

演出:

坂手洋二

美術:

じょん万次郎     

照明:

竹林功    

衣装:

野典子

音楽・音響:

じょん万次郎 内海常葉

出演者:

中山マリ 川中健次郎  猪熊恒和 大西孝洋 下総源太朗 江口敦子 樋尾麻衣子 宇賀神範子 内海常葉  向井孝成 瀧口修央 宮島千栄 裴優宇 小金井篤 杉山英之 久保島隆  
 


「屋根裏」

前口上で「屋根裏の散歩者」に言及していたが、江戸川乱歩の主人公は天井裏から他人の暮らしをのぞき見た。しかし、この芝居の舞台はわずか一間四方にせいぜい四尺(つまりまともに立てない)の高さの穴蔵か檻のような空間である。他人様の生活を観察するどころではない。見えるものは壁と、あえて言えば自分の内部だけだ。世界一狭い舞台と称して米国で興行してきたらしいが、評判を聞かないところを見ると・・・どうだったのか?日本の住宅は兎小屋で有名だったから極端にした喩えかと思ったかもしれない。
坂手は、人の生とは物語として語れる以上のものであり、もしその真実を表現しうるとすれば、さまざまなフラグメントを寄せ集め、そこから立ち上るかげろうにようなものだと言いたげである。そのためにしばしば分かりにくく退屈である。いくつかの関連の無いエピソードを連ねた『二人の女兵士』(2005年、新国立劇場)がそうであったように、この芝居も自殺した弟が住んでいた学生寮と見立てた屋根裏部屋で何故彼は死んだのか考え続ける兄(猪熊恒和)の話に始まり、引きこもり少女を巡る人々、幕末の浪士、張り込みの刑事、地下室の死人、防空壕の兵士などが登場するさまざまの寸劇を重ねたものである。後半は冗長に思えたが、この狭い舞台が醸し出すメタファが存外明瞭に感じられて楽しめた。
この屋根裏は、屋根と天井の間ということになっているが、地下に埋められた棺桶のようなもの、エレベーターのように上下する箱、野中に置かれた小屋などという設定が登場し、次第に「閉じた狭い空間」を意味することがわかる。
この屋根裏という閉所にもっともふさわしいと思われるエピソードは「引きこもり」である。登校拒否の少女(江口敦子)のもとへ同級生の男子(小金井篤)がやってくる話やその後訪ねてきた女教師(宮島千栄)が説得を試みる場面、或いは引きこもりの少年と必死で諭す母親とのやりきれない会話などからもその印象が強く残る。また、新潟で実際にあった事件も取り上げられて、このあたりは社会派坂手洋二の面目躍如と言ったところである。
しかし、「引きこもり」という社会問題がテーマだと言い切るのは短絡に過ぎる。
幕末の浪士二人(下総源太朗、向井孝成)が言い争い、刀を抜こうとするが、壁につかえて抜くに抜けない話、張り込み中の二人の刑事(下総源太朗、向井孝成)が清張の小説のようだと語る漫才のようなやり取りなどは坂手のサービス精神の一面に違いないが、見方によっては、このデジャブのような光景が望遠鏡を逆にのぞくような極く小さな空間に閉じこめられ「矮小化」した社会そのもののように思えてくる。我々の住んでいる世界はそのように狭く息苦しいのだといいたいのかもしれない。
坂手はこの「屋根裏」を40万円で売りに出している。ステンレスの柱で組み立てた小屋のようなものをだ。どんな料簡か分からないが「屋根裏ハンター」なるものがたびたび登場し、それを鑑定するところを見ると簡易物置や簡易ハウスに見立てているのだろう。なるほど「引きこもる」にはちょうど具合が良さそうだ。
ところが、終盤に至るとこの作り物は宇宙に飛びだす勢いで上昇する。かと思えば吹雪の中の山小屋やホームレスの段ボールハウスに変貌し、ついにはまわりを蔽っていた黒い壁が取り去られ、むき出しの空間にぽつねんと置かれる。屋根裏と称する狭い濃密な舞台の中にあった観客の視線は突然単なる物置を眺める他者の目に変貌せざるを得ない。
坂手は「引きこもり」とは何かを考えていて、それがおそらく社会的病理に通底すると直感したのだ。引きこもりは自己愛の過ぎたようなもの、つまりは自分を傷つける外の世界との間にバリアを作ることと僕は勝手に要約しているが、それをポジティブに考えれば「立てこもり」になる。下界を積極的に拒絶する。そこに潜り込んで出てこないというイメージは何となく愉快なのである。、しかし、その立つこともままならぬ狭いところに押し込められている苛立ちもまた一方の真実で、これは二重三重の意味で、我々が生きている時代の極めて閉塞した様相を象徴しているといえるのだ。では何故現代人は、何に対して立てこもるのであろうか?
管理社会とは真綿で締め上げるように目に見えない力で人間の自由を奪う。いや自由を奪われているという自覚すら与えずに巧妙に管理する社会、それが現代である。例えば僕らは、たいていは源泉徴収という無自覚の仕掛けで税を取られている。電気代、ガス水道代NHK、健康保険、銀行自動引き落とし、生きている以上はついて回る。そして保険会社のパンフレット通りのライフステージを生きて、言われるがままの保険料を払い、時々ディズニーランドで息抜きをする。民営化したもと国有鉄道に乗ってその利益に貢献し、運が悪ければその儲け主義の犠牲になって果てる。我々は国家や企業の利益のために生かされている。少子化を恐れるのはその高が減るからだ。終戦直後、いまの半分の人口だったことをもう忘れている。国家や企業は利潤を生み出すために我々に貨幣を配っている。支払う金がなければ高利で貸し与えてくれさえする。ついに払えなくなれば死亡保険金で始末をつける。我々はすっかり見透かされ見張られていて、この循環からついに逃れることは出来ないのである。
これはリチャード・ドーキンスがいう「我々は遺伝子の陰謀によって生かされている」というテーゼとよく似ている。我々の肉体は滅んでも遺伝子だけは受け継がれ生き続けるのである。科学もまた時代を反映しているといえる。
ここまで書いて、朝刊(朝日、5/5木)のあるコラムが目に留まった。しばらく見なかった木幡和枝が芸大教授の肩書きで写真の「木村伊兵衛賞」三十周年に寄せて短いエセーを書いていた。
写真は、その性質上もっとも直裁に時代を表現する芸術のひとつといえるが、三十年間の受賞作を並べてみて、木幡はある「感情のざわめき」を覚えながら「長い年月、多様な世界、多義化する感性。その中で自分はどこに立っているのか。」自分の「何か」、どこかが分かったという感慨を漏らしている。
彼女はこの展覧会を次のように総括した。
「30年の間には極地の貴重な自然や動物、産業の変遷と環境破壊、内外のディープな都市光景とテーマが目まぐるしく変わり、激変する後期資本主義社会の変貌を誇張しているようにもみえる。だが、作者のうちなる眼が何を見ているか、撮る(作る)動機は何か、そこにより根底的な変化を感じる。」
この変化、すなわちスタイルと価値観の面での世代交代を98年以降とし、とりわけ00年の女性作家(3人受賞)以後は「好きなものや人、雰囲気、色、かたちを手元に置く、その手段としての写真が前面に出てくる。・・・共通するのはプリクラ世代の収集癖と好きなものフェチである。」というのが現在であるらしい。
そして、展覧会のムックにある座談会の藤原新也の発言を次のように引用して現状を認めた。
「第三回受賞者でもある藤原新也は、一回目の北井(一夫)を『写真が時代思想に関わっていた最後の人だ』と語る。そして最近の自己言及的な傾向については、世界の飢餓や戦争といった諸問題に目を向けないのを批難するよりも、多数の若者が『引きこもり』状態にある現状を『人の面倒みてる場合か』みたいなところがある」として自己表現と自己治療のための写真(もはやこの意味では美術も変わらない)の有効性を擁護している。」
ニヒリスト藤原新也らしいものいいだと感心した。
このように書きながら、かつての神田カルチェラタンの女闘士の胸がざわめいたことは容易に想像が出来る。それが時代ではないかといわれれば否定は出来ないが、ではその先は?という問いには、とりあえず立ちすくむしかないのが僕らの『時代』でもある。
このようにして坂手洋二もまた苛立っている。
ナレーターは客席の前に立って独り言のようにつぶやく。「かつてポーランドで何百万人も虐殺されたユダヤ人が、いまパレスチナで大勢を殺している。」
引きこもる若者にとってなんの関心もないことである。その言葉が、目の前の狭い空間に届くことはない。しかし、坂手はあえてこのような台詞を書かざるを得ないと考えている。
坂手は屋根裏にこの社会全体を押し込めてこれが我々の時代だと見せようとした。それには成功したと思えるのだが、ではどのように告発するかという点で迷いがあった。
終盤の冗長さはこの手探りがこうじたものである。
もとより正解など無い。
それはそれでかまわないと思うが、振り上げた拳を頭上にかざしながら、幕が下りたという感じがした。

照明の竹林功がいい仕事をしていた。狭い空間に光を程よく回すのは技術的に難しかったであろう。暗転のタイミングもうまくいっていた。目立たないが職人芸といっていいだろう。
俳優は、よく稽古していた(海外公演で鍛えたか?)とみえる。
下総源太朗と向井孝成のコンビはなかなか見せてくれる。
江口敦子が女子高生をやれるのには驚いた。案外若いのか?何を考えてるのか分からないところがあって次も期待したい。

梅ヶ丘駅前のみどり寿司でYと一緒に一杯と思って劇場を出たが、11時に近く、ラストオーダーも終わって店じまいするところだった。床に座りっぱなしで腰が折れていたのを蟹味噌サラダとビールで伸ばそうという魂胆だったが残念だった。
坂手洋二には悪いが、なにしろ、うしろの30分がよけいだった。   


 (2005/5/12)










                                                                                       
 

新国立劇場

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