題名:

やわらかい服を着て

観劇日:

06/5/26

劇場:

新国立劇場 

主催:

新国立劇場     

期間:

2006年5月22日〜6月11日

作:

永井 愛  

演出:

永井 愛 

美術:

大田 創     

照明:

中川隆一    

衣装:

竹原典子

音楽・音響:

市来邦比古

出演者:

吉田栄作 小島 聖 粟野史浩 月影 瞳 大沢 健 でんでん 泉 陽二山中 崇 日沖和嘉子  丸山 桂   
 
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「やわらかい服を着て」

昔亡くなった松田優作が、あるイベントに呼ばれてやってくると、それがなにかチャリティのようなことと知って、「俺、こんなの嫌いなんだよな。」と例の低くぐもったような声でつぶやいて、すぐにいなくなるということがあった。彼らしい振るまいと誰もとがめ立てをしなかったからよかったが、普通はブーイングの嵐になるところだった。

この芝居のように、イラク戦争における劣化ウラン弾の放射能被害によって小児がんに冒された子供たちを支援するNGOの活動に対して「俺、こんなの嫌いなんだよな。」といったら、袋だたきに遭うだろうか?遭うかも知れないから口に出しては誰もいわない。

ただ、ロビーにしつらえられたコーナーで、小さなチョコレート玉5個とイラクの子供が書いた絵のコピー一枚を寄付込み五百円で販売していたが、これを買っているものを見かけなかったのは消極的な不参加の表明ではなかったか?

僕自身は、自分にとってどんな意味があるかと考えて結局結論が出なかったために、この甲高い声の呼びかけに応じることはしなかった。

シリーズ「われわれはどこへいくのか?」のテーマで永井愛が書き下ろした劇はイラク戦争の被害者救援活動を行うNGOにフォーカスしたものだった。永井は実際に存在する団体に取材してこれを書いたのだという。

主人公は夏原一平(吉田栄作)商社マンである。「ピース・ウインカー」というNGOを主宰して、米国のイラク攻撃に反対する運動を行っている。夏原には商社の同僚で婚約者、佐野千秋(月影瞳)が運動に同調して付き添っている。NGOのオフィスは鉄工所だった建物を夏原が自分で家賃を払い、社長の城島(でんでん)から借りている。

結成から一年くらいという設定で、「ゆるやかに結ばれた同志」である若者たちが何人かすでに活動している。定職を持っていない若者もいて、一見フリーターの集まりように見える。池森新子(小島聖)はしっかり者でみんなの信頼も厚い。大槻純也(粟野史浩)はこの池森に気があって結婚したいと思っているが、池森がリーダーの夏原に心を寄せているのではないかと不安である。池森にもそのような態度が見えなくはない。あるとき夏原は池森に惹かれている自分を発見して驚き、しかし、それを自制する。一方婚約者の佐野千秋は夏原と池森のあいだを疑っていて、活動から遠ざかっていく。

最初はイラク戦争開戦前夜で、これに反対する署名活動や啓蒙活動を行っている。商社の同僚や勤め先のコンビニの店長から賛意が寄せられたと喜んでいる一方で、米国の攻撃が避けられない状況になっていく。

次に、例の日本人人質事件が起き、ボランティア活動家に対するいわゆる自己責任論が澎湃として湧きあがったことから「ピース・ウインカー」もとばっちりをくらうはめに。社長の城島のところへオフィスを貸しているのはけしからんという脅迫電話が相次いだのだ。これを何とか説得して事無きを得る。

そして活動は、劣化ウラン弾の被害で白血病になったイラクの子供たちを救う募金活動に中心が移り、このことで池森新子と大槻純也は二人でイラクを訪問、成果を上げて帰国する。

ところが、そのあたりから人間関係がぎくしゃくして来ると同時に活動資金の問題もからみ「ピース・ウインカー」は解散の危機に瀕する。なんとか活動を続けたいという一同の気持ちが確かめられ、解散だけはかろうじて避けられそうな気配のなかで幕が下りる。

イラク戦争、若者のボランティア活動という現在進行形のテーマを背景にしているところは「われわれはどこへいくのか?」という課題にふさわしい解答といえる。しかし、その政治的な側面の評価は丁寧に避けて、ヒューマニズムという分かりやすい概念一つに絞って、活動家の日常を描いた。したがって、我々がこの問題(イラク、アラブ、テロリズム・・・)とどう向き合うかといった深刻な議論を期待したとしたらやや拍子抜けになるかも知れない。

むしろ人間関係の方が中心で、なかなかにぎやかではらはらさせられる四人の恋愛模様だが、終わってみれば肝心のNGOの話などそっちのけで、若い男女が集まると結局色恋沙汰になるという、まあ当たり前のお話になってしまった感がある。

こういう話、つまり、イラク問題に対する見解の違いや運動論にからんで起きる恋愛沙汰ということでもなく、それとは無縁の単なる男女関係の話なら、背景は何でもよかったといえる。身近なところで劇団という若者の集団ならばありがちな話で、それを舞台にしたほうが、よほどリアリティがあったと、経験したものとしてはいいたくなる。

リアリティといえば、まず第一に、NGOの主宰者、夏原一平が自分のポケットマネーでオフィスを借りていることに強い違和感を感じる。

商社の給料は比較的高いと言われているから、そのくらいの余裕はあるかも知れない。しかし、NGOといえどもある目標を掲げた組織であるから、活動全体の規模をあらかじめ考えて、資金の見積りも当然してあるはずだ。夏原が自分の趣味でボランティアをしているのなら勝手だが、相手の期待が大きくなれば責任も大きくなる。期待に応えられないのは無責任であり、それなら始めからやらないほうがいい。活動資金の調達がなにより優先されることを商社マンの夏原が知らないはずはない。そうでなければボランティアをやる資格はないし商社マンとして失格なのはいうまでもない。

案の定、夏原は経済的に破綻して結婚のためと思って購入したマンションを売ってしまうことになる。

次に、勤めている商社がイラク戦争にからんでNGOの活動に不利なあるいは敵対する商売をしようとしたことに抗議したというせりふがあるが、これも商社マンとしてはあるまじき行為である。具体的にどんな商売なのかは分からなかったが、会社の意思決定のメカニズムを知っていれば「抗議」がなんの意味もないとわかっているはずだ。偽善の匂いがする。

それらが因になって、ついに夏原は商社を辞めてしまうのである。それも生き方と思うが、自分をなげうって他者のために生きようとするいわば慈善の精神、肥大したヒューマニズムには異様なものを感じる。商社などろくなことをやっていないのだから辞めるのはちっとも惜しくはない。それよりもNGOとは政府組織が出来ない事業を人々の意思に基づいて行う組織というように考えていたが、夏原のやっていることは、事業の態をなしていない。なんの戦略も目標も資金すら持たずに理想だけは高いという極めて個人的な子供じみた行動といわざるを得ない。はっきり言えば、この程度なら、学生の同好会に毛の生えたようなものである。

何故こうなったかといえば、永井愛の理解がこの程度だからである。

イラク戦争と勿論その後の復興に日本人としてどのようにコミットしていくかという性根の坐った議論、この地域の未来に対する見通しがなければ、イラクの人々に対して無責任というものである。この程度の運動ならセンチメンタリズムで十分だ。被害者にとって被爆治療は一生のものである。この若者たちに一生それに付き合う覚悟があるか?到底おぼつかない。

「われわれはどこへいくのか?」の「われわれ」は人類全体を指していると同時に我々日本人を指している。日本人としてこの問題をどう捉え、何が有効かを考えるのがその問いへの応えになると思うが、そのためにはさまざまな情報が必要になる。ところが、日本及び日本人は長いあいだこの地域とのつきあいがなかった。石油以外に興味すらなかった。我々はこの地域と社会、人々についてあまりにも無知なのである。

戦場写真家橋田信介ですら、たまたま知りあったたったひとりの少年の目を治してやろうと奔走して、結果殺された。身を守るための情報、人脈等々がなかった。この点、永井愛を責めるのは酷かも知れない。大概は「人道」をてこにコミットするしかないのが現状である。

商社マン夏原が中東地域に対して一般の日本人よりは知識を持っていたはずと仮定しよう。ならば米国が中東和平についてロードマップを何度も書いては作り直していることを知っているはずである。では日本はどのようなロードマップが書けるかといえば、それは全く不可能である。なぜなら、どうころんでも日本は当事者ではないからだ。当事者が方針を立てられないなら、日本としてはやりようがないのだ。

イラク戦争は自衛隊を巻き込んだが、基本的には日本とは関係のない戦争である。その遠因が日本のあずかり知らぬ中東問題、パレスティナ問題だからである。

ここから先は、中東問題の話だから知っている人には飛ばしていただいて結構。

 

イラク戦争は、2001年9月11日の米国における同時多発テロが引きがねとなっておきたものだ。このテロを実行したウサマ・ビンラデンとそのグループがアフガニスタンにかくまわれているという理由で米国はこれを攻撃した。結果タリバン政権は倒れて、いまかろうじて民主的と言われる政権が誕生した。この後次にテロの供給もとと名指しされたイラクに大量破壊兵器があるという疑いで、査察が入ることになった。独裁者サダム・フセインがこれを拒否したために米国とそれに同調する国が派兵して攻撃した。それがイラク戦争である。戦車の装甲を破るためと、地中深く爆弾を送り込むために劣化ウラン弾が使われ、兵士も一般市民も被爆することになった。

もう一つの理由は、米国がイラクの油田の利権を確保することにあったといわれている。そのためにフランス、ドイツ、ロシアはイラク攻撃に賛成しなかった。もともと利権を持っていた国々である。結果米国はまんまとそれを手に入れた。ブッシュがテキサス出であることを考えれば首肯けることだ。

9:11が起きた原因には、パレスティナ問題がある。米国の政権のスポンサーはジューイッシュである。これがイスラエルに不利な政策決定を許さないという構造になっているために、米国はアラブのテロリズムの標的になる。パレスティナ問題は領土問題だがむしろ貧困とそれから来る閉塞感が主要な原因である。PLOにしても亡くなったアラファトの個人口座に50億ドルもの現金があったというくらいで、本人のカリスマ性はともかく、内部はかなり腐敗しているという噂は絶えなかった。

また、この地域の国々はサウジアラビアをはじめヨルダン、クウェートなど王制を残したままのところが多い。近代化されつつあるとは言ってもまだ途上国である。

ペシャワール会の中村哲医師がかつて言っていた。アフガンの現状は日本で言えば室町時代のようなもの、選挙と言われてもそれはおいしいものかと聞かれる始末で、人々が欲しているのは決して近代化とか変革などという役に立たないものではないという。

また、彼は自力で潅漑事業を興していたが、周辺の住民の伝統的な技術で石を積み住民の手で水路を建設することができた。約二億円の費用が日本で集められたそうだが、これを商社などがからんで政府援助となれば百億円のプロジェクトになって、しかも住民の技術は排除され補修もきかぬものになるという。外国資本が利益をごっそり回収して現地にはやがてスクラップ同然になる廃虚が残るのである。ODAがいかにあくどいものか、つまり商社がいかにろくでもないかが分かるというものである。

この中村医師が中東のテロの問題について簡潔にまとめた文章があったので、紹介しておく。

http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/pew_oka/pew_oka18.html

 

とにかく、永井愛は「戦争」の話となると、大東亜戦争だろうがイラク戦争だろうが、めろめろの大センチメンタリズムになってしまう。戦争は人が傷つけられ殺される。だからかわいそうだ。戦争には反対しよう。ということになる。井上ひさしも戦争にはこだわるが、その態度は分析的である。我々がそれに加担しないためにどうしたらいいか考える。傷ついた少女を救うだけで、免罪されるなどとは考えない。文明について、暴力について、進歩とか発展について疑問を突きつける。

永井愛にももっと冷静に「戦争」あるいは「人間の愚かさ」について考えてもらいたい。

書いているうちに方向が違ってしまった。大急ぎで本題にもどすと・・・

吉田栄作は、初舞台だったそうだ。鍛えられた肉体を披露したのはいいが、そのくせなぜあんなに存在感が薄いのだろう。どこかで自分に自信がないのかもしれない。舞台である人格を見せようと思ったら、演技の質を変えなくてはならない。スター性は認めるから、それにふさわしい存在感を示してもらいたいものだ。

小島聖はうまくなった。こだわりを捨てたところがいい。こうして女優になっていくのだ。粟野史浩は、今どきの若者らしくキレやすい性格を力強く作り出した。もっとも、「肝っ玉」のときとどこが違うかと言われたら少し困るかも知れない。永井愛のあて書きだったかも知れないが。
でんでんが意外によかった。青春群像を描きたかったという永井愛のねらいは、大沢 健、泉 陽二 、山中 崇、日沖和嘉子、丸山 桂らの個性ある、しかしけれん味のない演技によって成功していたといえる。そのなかで、下町の町工場の社長の存在は、若者たちの理想主義や観念論を現実に引き戻して人生の多様性を示す要の役割を果たした。こういう設定に永井愛はぬかりがない。でんでんというキャスティングが当を得たものだったのが、成功の一因となった。

 

 

 

 


新国立劇場

Since Jan. 2003