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「赦せない行為/蝶のような私の郷愁」

いまや森本薫の追っかけと化したYが探し出した公演を見に行った「3KNOCKS#2」というわけのわからないタイトルがついていて、主催はサイスタジオとHappy Hunting Ground となっている。判じ物のようなパンフレットを子細に眺めると、これはどうも文学座に所属する若い連中が時々集まってやる公演らしい。演出はH.H.G.となっているから何人かの共同作業ということなのだろう。

女優化粧をばっちり施した佐古真弓が客の世話をしていたからなるほど文学座かと思ったがそれ以上のことはなにも分からない。秘密結社のようなものか?観客にとっては実に不親切な公演である。いっぱし客商売をやるなら次回から考えたほうがいい。はっきり言えば自分らで思案したコンセプトに自信がないか、考えたことが曖昧かのいずれかであろう。

公演は森本薫作『赦せない行為』と松田正隆作『蝶のような私の郷愁』の二本を、休憩を挟んで見せるもの。後者は前の晩、「改訂版」を燐光群の芝居で見ていた。どこを「改訂」したか知るのにこれは好都合であった。

まず、『赦せない行為』。

明かりが入ると、がらんとした舞台の上手に木のデスクと椅子が置かれていて、和服の女(添田園子)が引き出しから手紙の束をとり出して、一つ一つ読んでいる様子。床には文学書か何か分厚い本がいくつか散らばっている。他人の留守に手紙を盗み見るのは確かに「赦せない行為」に違いない。

そこへ男(細貝弘二)が入ってきてその姿をやれやれといった表情で見ている。女が気付いてはっとするが、別に悪びれた様子もなく、手紙を点検するのは当然だといわんばかりの態度である。この二人は姉と弟で、いま姉は弟の恋人からきた手紙を探していたのだ。

弟は、「恋人でも何でもない、自分の愛は彼女には受け入れてもらえなかった」つまり自分は振られたのだという。その言葉を姉は信用していない風であった。弟は、のらりくらり彼女との関係は終わったも同然というが、姉の追求は執拗である。煮え切らない態度に姉は弟の頬を打擲する。この執着は異常である。この妙なこだわりには弟に対する複合的な感情を感じさせるものがある。

弟の恋人というのは自分の知り合いの娘で、他に婚約者がいたのに自分の弟と付き合うことになって申し訳ないと姉は思っていた。それを今度は弟が捨てることになっては自分としては立つ瀬がない。いったい二人の関係はどうなっているのか。姉はやきもきしながら見ていたのである。

弟は恋人が案外大人で自分には手に負えない奔放さがあるという。姉の心配は杞憂に過ぎなくて、むしろ自分のほうが翻弄されたのだと弟は自嘲気味である。しかし、姉はこの恋人を傷物にしたのではないかと心配している。というのも、この恋人が弟の旅行中に姉を訪ねてきて、世も山話をしながら弟と夜を過ごしたことをほのめかして帰ったからだ。

姉には二重の意味でこれは気掛かりだった。弟が誘惑されたのではないかという心配と娘を傷物にしたのではないかという疑惑である。

姉が重大問題のように大げさにいうのを聞いて弟は「いや、話の成り行き上、神宮球場のベンチで夜の十時半まで話をしただけだ。」という。

すると姉は、突然堰を切ったように大声で笑い出す。哄笑は異様に長く続いた。それまで姉の中でくすぶり続けてきた気掛かりの種が一気に炸裂して胡散霧消してしまったかのようだ。事実そうなのであろう。

それから弟の言い分は肯定的に受け取られ、姉の表情は和らいでいく。

およそ三、四十分の短い劇であったが、姉の哄笑を頂点にすとんと落ちる構成の妙がさえた一編であった。ひょっとしたら、もともとはラジオドラマとして書かれたものかもしれない。ラジオで聴くほうが想像力が働いてもっと分かりやすかったかも知れないと思った。

二人の役者は、やや硬さが目立って、見ているほうの肩にも力が入る有り様であった。特に弟の細貝弘二は部屋に分厚い文学書をばらまいておいている学生(あるいは研究者)というよりは、現代の街中から抜けてきた普通の青年のように見えた。しかしそれでは、この劇の持っているある種ペダンティックな雰囲気を表現することは出来ない。この「高踏的」ということは今日では全く見られなくなった風俗だが、「良家の子女」などという化石とともに掘り起こして舞台に見せるようでなければ、森本薫をやる意味があるだろうか?細貝は少なくとも旧制高等学校を出ていると考えるべきだ。「・・・栄華の巷低く見て・・・」という気概が高踏的ということである。この時代、同世代の1%にも満たないものしか高等教育を受けていない

また、関連する苦情だが、姉の添田園子のせりふの中に何度か出てくる古い言い回しについても言っておきたい。「・・・・・・ではないか(え)」の「か」は反問・詰問の意味であるが、あの時代のイントネーションは「か」のあとに(え)を含んでいるものだった。歌舞伎を思い出せばいい。「・・・・・・ではないか!」と止めると、いい方がきつくなって女言葉に聞こえない。

部屋の中にばらまいた書籍は分厚い文学書・全集の類いである。中でも下手の壁際に並べたものは、岸田国士全集のような演劇関連の本だった。劇団の仲間が持っている本を集めたものだろうが、こういう安易な小道具の設定をしては「お里が知れる」というものだ。まず、弟はどういう人物で、どういう読書傾向がある男かということに気が行かねば、演出家としては落第である。集団演出もいいが、こういうところは「なあなあ」になりやすいところだ。

総じて、時代考証やディテールの表現にいくつも難があった。研究不足、独りよがりが懸念される。

次に、「蝶のような私の郷愁」。オリジナル版で見ることが出来たのは偶然だった。

舞台は上手と下手から伸びた壁が途中で見切りとなっている。中央に空いた空間は上手の台所、下手の玄関につながっているという設定。窓などの見通しはない。舞台中央には卓袱台、奥にタンスが二つ並んでいて、上手手前には小さな台の上にテレビが乗っている。

会社から帰ってきた夫(加納朋之)の髪はきれいに後ろになで付けられ、てかてかひかっている。トイレに入るたびに鏡に向かって櫛で髪をなで付けているような男だ。身だしなみに気遣いは美徳といえるが、自分の外観以外に、こういう男はえてしてなにも考えていないものだ。帰るなり妻(征矢かおる)に駅前の工事中の高層マンションのチラシを見てくれと言われても、その意味するところすら感じない。モデルルームに行こうといわれてもうんうんと首肯くだけで、後先のことなどいっこうに気にならないようである。妻にしてもこの高額そうに見えるマンションに対して物珍しさ以外の興味があるとは思えない。

要するにこの二人は、ごくごく平凡に、その日を屈託なく暮らしていけばいいと考えているようなありふれた夫婦であり、劇はその日常をあくまでも淡々と描こうとしている。

台風が近づいていることは、最初にラジオのニュースで知らされるが、それにしてもこの部屋の「日常性」を犯すほどの大きな要素ではない。

卓袱台に夕食が用意され、それを食べながら交わされる会話はユーモラスである。しかし、普通の夫婦がその場限りでやり取りするだけの、たいした意味のある言葉とは思われない。加納朋之の夫はあくまでもやさしく妻の言い分を聞き入れ、征矢かおるの妻は、ややつっけんどんな言い方だが悪意があるわけでなく。夫婦のあいだに何のわだかまりもないことは明らかである。

松田正隆が描こうとしたのは、このような平凡な夫婦の屈託のない日常であり、それを最後に、静かにひっくり返して見せようとした短編小説的世界だったのであろう。オリジナル版のその気分はよく分かった。

食事が終わって、天気予報を見ようとしてテレビをつけた途端に停電する。この劇ではセットの都合上外の様子がいっさい分からないので、台風の具体的な緊張感が伝わってこないのが欠点だった。それはともかく、真っ暗になった中、百円ライターをつけて明かりをとったり、ロウソクを探しててんやわんやしているうちに、貝殻を見つけて妻が海を見に行きたいといいだす。

改訂版ではここから姉の話がかなり深刻な様相を帯びて展開することになるが、この劇ではあっさりと触れる程度で終わる。夫婦の過去をことさらのように描くのではそもそも「日常性」を描きたかったテーマに抵触するのである。

そして、ふすまを捨てに行った話も出てくる。建て付けが悪くなったふすまの敷居にロウソクを塗ろうとして買ってきたはずだという夫の話しである。ところが、散々探し回ったロウソクは、とうとう最後まで出てこない。つまり、停電したままの世界で後半の劇は進行しているのである。

外の様子が気になった夫は、突然川を見てくると言い出す。増水して氾濫の恐れがあれば、すぐに避難しなければならない。カッパを取り出すと、上着の表に白いペンキで大きく住所氏名が書かれている。みっともないといいながら夫は出て行く。

一人部屋に残った妻。

突然電話が鳴り出す。「住所も名前も間違いありません。・・・いえ、違います。・・・いえ、違います。ちがいます。・・・」という妻の声で溶暗。幕。

この最後の悲劇性すらも「日常性」にはかなわないといった感覚を持った。夫が流されるという異常な出来事すらも「なにもない」と言う状況を持続するためには「ちがいます。」とねじ伏せられる。なにもないのっぺらぼうの世界こそ我々の正義だと思い続けること。しかし、裂け目はそこら中にあるという松田正隆の警告には耳を傾けるべきものがある。

「改訂版」はこういうテーマ性を下敷きにして夫婦の過去を描き、夫が川から帰還するという結末を用意して悲劇性を避け、文明批評も視野に入れたスケールに仕立て直した。劇の陰影はいっそう深まったといえる。

この劇は、加納朋之も征矢かおるも「心に何の屈託も無い夫婦」を極く日常的な普通の所作で演じることによってうまくテーマ性をひき出したといえる。二人とも達者な役者だと思った。

気になったことは、征矢かおるの衣裳である。ぞろりと足首まであるスカートは流行かもしれないが、普段着には見えない。外出から帰って着替えしないでいる主婦のように見えた。

もう一つ。テレビをつけようとして停電になる。真っ暗である。最初のうちはライターの明かりなどで部分的に明るくなったが、次第に全体に明かりが入ってくる。まあ、目が暗闇に慣れてくるといえば言えるが、それでも経験からいえば手探りで歩くようなことにはなる。ところが、さらに照明は明るくなって舞台全体が見渡せるほどになった。夫婦のふるまいも停電しているという前提はどこかへおいてきたらしい。

こういうことはどう見てもおかしい。おかしいと気付かないのは集団演出のせいではないか?「まあ、いいか」という気分がこういう「嘘」を平気でさせる。H.H.G(Happy Hunting Ground)が演出ということになっているらしいが、このしゃらくさい意味不明でひとりよがりのネーミングに現れているように、大甘の無責任きわまりない演出になっている。

若いうちから、物事はきちんと論理的に考える、論理的に行動する、それが肝要であると苦言を呈しておく。


                    
  
 



   
               
                               

               
                      

 

                    
           
 
                               

               
               
               
   

                                       

題名:

赦せない行為/
蝶のような私の郷愁

観劇日:

06/8/5

劇場:

サイスタジオコモネ 

主催:

サイスタジオ/HHG 

期間:

2006年7月27日〜8月6日

作:

森本薫「赦せない行為」松田正隆「蝶のような私の郷愁」

演出:

H.H.G 

美術:

乗嶺雅寛

照明:

坂口美和

衣装:

音楽・音響:

高橋正徳

出演者:

細貝弘二 添田園子「赦せない行為」 加納朋之 征矢かおる「蝶のような私の郷愁」