<%@LANGUAGE="JAVASCRIPT" CODEPAGE="932"%> 新私の演劇時評
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題名: 人類館
観劇日: 2008/08/01
劇場: 青年座劇場
主催: 青年座
期間: 2008年7月24日〜25日
作: 知念正真
演出: 菊地一浩 
美術:
照明: 広瀬由幸
衣装:
音楽・音響:
出演者: 津嘉山正種

?「人類館」

もともと三人の登場人物によって上演される劇であるが、津嘉山正種がどうしても一人でやりたいといってきたので、一も二もなく承知したと作者であり演出家でもある知念正真はいっている。ト書きも台詞も全部読み上げるという舞台がどんなことになるか想像もつかなかったが、かつての芝居仲間である津嘉山ならウチナアグチ(沖縄方言)も心配ないから好きにやって結構と返事したそうである。
津嘉山が倒れたと聞いたのは、その少し前だったから、病み上がりに一人語りなど大丈夫なのかと思って代々木八幡に出かけた。例によって、チケットはYがとったものなので内容は分かっていない。

何もない空間に質素な机が一個置かれている。辺りは暗い。和服姿(といっても沖縄地方のものだろう)の津嘉山が灯りに浮かび上がり、静かにト書きを読み始める。
「舞台中央に、まるでお芝居のセットのような粗末な茅葺き小屋がしつらえており陶器類、紅型、スルガー、ニクブク、くば笠、ムンジュルー傘に至るまで、いわゆる『大和人』が沖縄について、持っている知識のありったけを、辺り構わず、それももっともらしく、飾り立ててあるという体である。
小屋の一方の柱には、稚拙な字で『リウキウ、チョーセンお断り』と書いた札さえぶら下がっている。これらの民芸品に混じって一組の男女が陳列されている。……」
続いて調教師風な男の台詞。
「皆さんこんばんは、本日は我が『人類館』へようこそおいでくださいました……」
男の口上は、香具師とか呼び込みのような調子で次のようなことを蕩々と述べる。すべての人間は法の下に平等であり、その基本的人権は尊重されなければならない。いついかなる意味においても差別はいけない、それは人類普遍の原理である。しかるになぜどのようにして差別がうまれ、行われるかと言えば無知蒙昧、偏見が原因だ。ならば無知を一掃し、偏見をただして差別をなくすにはどうすればいいか?そこにこの『人類館』の果たすべき役割が存在する。
ここでは地球上で差別されているあらゆる人種すなわち、黒人、ユダヤ人、朝鮮人、アイヌ、インディアン、エトセトラ、エトセトラ・・・・・・を取りそろえて彼らの日常の暮らしを見ることができる。それをよく見れば、「彼らも我々と同じ人間なのに・・・」と気づくはずで、そうなればきっと彼らに友愛の情がわいてくるだろう。それこそが待望久しいこの学術人類展の目的なのである。
男の口から繰り出される話に驚いた。「人類館」とはいやな予感がしていたが、文字通り人間を展示して見せている見せ物小屋のようなものだった。調教師風の男は、長い鞭で琉球人の男と女を威嚇しながら、あちこち向かせてその身体的特徴を学問用語を使って説明し始める。

明治三十六年(1903年)大阪天王寺で行われた第五回内国勧業博覧会において、実際に行われた「学術人類館」事件を元にした話である。事実がどうであったかは、この際あまり重要ではないが、一通り見ておくことにする。
この博覧会は、日清戦争後の一種高揚した気分を背景に、大日本帝国の国力を内外に示す目的で開かれたものだが、その中にあったパビリオンの一つで展示されたものである。人類学者坪井正五郎の発案で作られたというから文字通り学術的な展示のつもりだったのであろう。記録によると、
「内地に近き異人種を集め、其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて、北海道のアイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、同キリン人種七名、ジャワ三名、バルガリー一名、トルコ一名、アフリカ一名、都合三十二名の男女が、各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作を見する。」という予定だった。
これを見た沖縄県民が不快に感じるといって新聞を中心に抗議のキャンペーンを張る。たとえば、沖縄県出身の言論人太田朝敷の言い方はこうである。
「学術の美名を藉りて以て、利を貪らんとするの所為と云ふの外なきなり。我輩は日本帝国に斯る冷酷なる貪欲の国民あるを恥つるなり。彼等が他府県に於ける異様な風俗を展陳せずして、特に台湾の生蕃、北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは、是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈これより大なるものあらんや」
我らを高砂族、アイヌと一緒にするのは侮辱だと言っているところが興味深い。
また、清国からも激しい抗議があいついで、外交問題化しそうだったのでこれはやむなく中止になった。アヘン吸引の男性と纏足の女性が予定されていたと言うからやめてよかった。
学術的とはいえ、大日本帝国が近代国家の仲間入りした気分の中で、当時は差別意識がかなり露骨にあったから事件に発展しても仕方がなかったといえる。

調教師の男は、陳列されている男に近づくと、鞭の柄で顎を上げさせ琉球人の身体的特徴を説明し始める。男は大勢の視線にさらされてうつむいてしまうが、そのとき鞭が鳴り慌てて男が姿勢を正すということがあって、まるで檻の中の動物のような扱いである。
さらに女の方に向き直って、一見我々と同じように見えるが、鼻が高く毛深いという。「親の因果が子にたたり・・・・・・」といよいよ見せ物小屋の呼び込みの口上である。こいつらの住んでいる家ときたら、これこのとおり茅葺きの粗末なもので、鍵もかけない。泥棒がいないわけではないが、なんと盗むものがなにもない。食べているものは芋ばかりと女を鞭でつついて、この体は芋でできている、その上こいつらは渋茶が大好きでどこへ行っても茶ばかりがぶがぶ飲んでいる。それに毒のある蘇鉄の実を食うのは不思議だ、人類普遍の謎だという。
調教師の男がいなくなると、陳列された男は足を踏みならして「あの野郎叩き殺してやる、いつか必ず殺してやる。」と悔しがる。あれだけあなどられ嘲りにあったのでは我慢できなかったろう。女が、さっきまでがたがた震えていたくせにとバカにすると、警官殺しで金網の中にいたことがある、米軍の倉庫に忍び込んでシーツをかっぱらってきたこともあると強がる。
ここで待てよ?と思った。こんなことはかなり昔にはあったかも知れないと思って見ていたが、それではここで展開されているのは米軍がすでに駐留している時代の話、つまり戦後のことなのだ。
男と女が安心して音曲にあわせて踊っているところへ再び調教師が現れて、鞭を振るい勝手なことをやるなと居丈高に制止する。それに対して男と女は、約束が違うと抗議しはじめる。ここに来たら着るものも食べ物にも不自由はさせない、学問もただだと言われたが、これではまるで奴隷の生活だというのである。
聴いていた調教師が男を殴り倒して、鞭で床をたたきまるで動物をおとなしく従わせるようなしぐさで男をなだめると、「てめえら自分を何様だと思っている、怠け者のくせに」とののしり始める。これは教育が足りないせいだ、厳しくしつけなければと調教師。今は一億国民こぞって国難に対処しなければならない時期だ、一命をなげうっても国家に殉じる覚悟がなければならんと叫ぶ。
なんだかまた時制がおかしくなってきた。
俺は沖縄の方言が大嫌いだ、だから日本語を教えてやるといい、真っ先におまえらが覚えるべき言葉はこれだ、威儀を正してよく聴けという。続く言葉は、天皇陛下万歳!
これでは戦時中に戻っている。
この頃になると津嘉山の顔から汗が噴き出し、振り乱した髪の一部が顔にかかってすさまじい状態になっている。時折沖縄地方の方言が速射砲のように飛び出すが何を言っているのかは雰囲気で想像するしかない。
戦時中の話から、ベトナム戦争時代へ飛び、再び戦時中に戻るとそこは沖縄戦における日本軍の集団自決命令の話になる。さらに、敗戦から米国の占領駐留へとつづき、「祖国日本」への復帰運動という波乱の歴史をたどることになる。
そして現代、精神病院にいる。沖縄は精神病患者が最も多いという話は本当かどうか分からないが、時代の変わり目には、非常に深いところで精神を病むものが出るのだという説明にはなかなか含蓄がある。ところがそこから次第に再び沖縄戦の時代に戻り、芋であるところの手榴弾で集団自決があついで、終戦を迎える。「沖縄を返せ」のシュプレヒコールがとどろく中、芋が大音響とともに炸裂して、調教師が倒れてしまう。調教師が芋で死んだとはいえないので死体を隠そうとして椅子に座らせ帽子をかぶせ鞭を持たせると、最初の場面に戻り、「皆さんこんばんは、本日は我が『人類館』へようこそおいでくださいました……」と男がしゃべり出す。そこが精神病院なのかどうかは不明のままである。
そして、ト書き。
「というわけで、芝居は振り出しに戻ってしまった。誠に不本意ながら作者としては如何ともしがたい。御用とお急ぎでない方は、はじめから繰り返してみて頂きたい。いずれにせよ、そう簡単に幕は降りないだろう。
なぜならば、『歴史は繰り返す』ものなのだから・・・・・・・・・」

一人で戯曲を読みあげる朗読劇というのは、早い話がラジオドラマである。僕らが小さい頃は、ラジオドラマをよく聴いた。「ホシを挙げろ」『赤胴鈴之助』(少女時代の吉永小百合が千葉周作の娘さゆり役をやっていた)、毎週日曜日の夜には、森繁久弥と加藤道子が読み上げる「日曜名作座」(五十年間も続いていたとは知らなかった)などに耳を澄まして聴いていた。マクルーハンによるとラジオは聞き手が想像力を駆使して対象を再構成しなければならない参加型メディアで、テレビなどの漫然と見ていても差し支えのないものと一線を画している。これを舞台で見るというのは、ラジオのスタジオをのぞいているようなもので、やや違和感があるが時々目をつむって聴いていたら同じことである。というわけで僕はそうした。そうすると、元もと津嘉山正種はラジオドラマ(朗読)を得意としているから、情景がより浮かびやすい、頭に入るということになった。

知念正真の本は、明治時代に実際にあった「博覧会」における「人間展示」という衝撃的な事件のなかに、琉球差別の問題や太平洋戦争末期の集団自決、祖国復帰運動と米軍基地など沖縄固有の問題を巧みに取り込んで、時には日本に対する痛烈な批判を、沖縄についても自虐的といえるほどの言葉をちりばめてある。それは決してまなじりを上げて声高に叫ぶというものではなく、鞭を持った調教師の男もどこか芝居じみていて滑稽であり、展示された男女の態度も時にユーモアを交え諧謔を弄して軽い。こういう取り上げ方はなかなかの知能犯である。
日清戦争後という時期は、日本のみならず世界中で民族主義があおられ、互いに排斥しあうという傾向があった。入り口は「博覧会」だが、あれが今まで戦前戦後を通じ一貫して沖縄が味わわされ、今も続く屈辱の始まりだったといっているのである。

むろんこれは沖縄が抱えている様々な特殊性、地政学的な条件、琉球の歴史と文化、日本本土および米軍との関係等々の問題が一筋縄ではいかないことを知り尽くしているからこそ書けることである。端的に言えば、基地よ出て行け!差別をやめろ!といってすむことではない。威張りくさる調教師をぶっ殺してやるといっても、ぶっ殺したところで何か解決されるのかといわれれば、もう笑い飛ばすしかないではないか?その笑いの下にある沖縄の怒りと悲しみについて理解されなければ、それは続くというのである。
物語の冒頭で言うように「差別は無知蒙昧、偏見からくる」。これを取り除くにはいうまでもなく学習が必要である。人間にそれを理解する知識・理性が備わっていなければならない。これがいかに困難かは、実は表に現れない世界を見れば分かる。
それが戯曲の最後に、再び冒頭の台詞に戻り、そう簡単に幕は降りないだろう、なぜなら「歴史は繰り返す」からだ、という言葉になって表現されている。

この劇は、登場人物が三人と言うことになっている。それはそれで見てみたいと思うが、この津嘉山の一人語りでも十分に面白かった。目の前で髪振り乱して拳をあげ、体を揺すって読み上げるのだからラジオドラマとはいえないが、一種の講釈師と見てもいい。こういう芸はマクルーハンが言うところのホットメディアなのだ。迫ってくると言う点では申し分がなかった。

 

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