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題名: 女教師は二度抱かれた
観劇日: 2008/08/08
劇場: シアターコクーン
主催: シアターコクーン
期間: 2008年8月4日〜8月27日
作: 松尾スズキ
演出: 松尾スズキ
美術: 二村周作
照明: 大島祐夫
衣装: 戸田京子
音楽・音響: 星野源
出演者: 市川染五郎 大竹しのぶ 阿部サダヲ 市川実和子 荒川良々 池津祥子 皆川猿時 村杉蝉之介 宍戸美和公 平岩紙 星野源 少路勇介 菅原永二 ノゾエ征爾 浅野和之 松尾スズキ

「女教師は二度抱かれた」

劇団「大人計画」松尾スズキの名は知っていたが芝居を見るのは初めてだ。62年生まれの四十六歳、キャリアは長い。シアターコクーンが扱うくらいだからすでにメジャーなのだろう。なんていってると「このおっさん何なの?」といわれそうだが、若い者の芝居は面白いものが少ないからあまり見ない。
がっはっはと笑って劇場から出たとたんに忘れるというのも悪くはないが、そのために大枚払う必要があるか。所詮コント芸に毛の生えたような芝居に染五郎や大竹しのぶを抱き合わせて高く売りつける百貨店商売はいかにもあざとい。
それというのも市川染五郎が、この連中となぜ一緒にやっているのかという戸惑いの表情をしばしばみせて、その芝居のテンションのあまりの落差に見ているこっちがつらくなった。

「ギャー、ビビビ!」と叫んでいるところに「女教師は二度抱かれた」と言うおだやかでない吹き出しがあるポスターは漫画でできている。内容が漫画みたいなものだから、そうしたのだろう。
松尾スズキのサービス精神は実に旺盛なもので、枝葉のギャグがたっぷりと仕込まれていてうるさいくらいだ。中には恐ろしくアナーキーでぶっ飛んだものや時事ネタもあってなかなか笑わせるが、筋を追うには邪魔になるだけだ。もっともこの劇団は、その莫迦ばかしい笑いが受けているのだろうから、そんなことをいうのも大人げないか。

小劇場出身の新進気鋭の作家・演出家である天久六郎(市川染五郎)が、これも売り出し中の人気歌舞伎役者滝川栗乃介(阿部サダヲ)にたのまれて歌舞伎の演出をすることになる。天久は小劇場専門の劇団ビリーバーズの演出家で、歌舞伎などやったことがないからどうにも自信がない。しかし、この取り合わせは劇場が渋谷ということもあって話題になっていた。
小劇場と歌舞伎の出会いがうけるというので、発泡酒のCMを二人でやることになる。その打ち合わせだの撮影だのと、天久の劇団のマネージャー白石泉(市川実和子)は調整に大忙しである。何しろこのCMのギャラが一千万円。その金で劇団の稽古場を借りることができるから失敗は許されない。
白石泉が登場するたびに顔のあざが増えているのは、同棲しているミュージシャンの元気(星野源)から日常的に受けている家庭内暴力のせいらしい。ただし、本筋にはなんの関係もない。
渋谷の稽古場に向かう途中、滝川栗乃介の車が人を撥ねる。これが表ざたになるとまずいと思った付き人の弁慶(荒川良々)がひそかに病院に運んでこれを隠してしまう。ところがその被害者が病院を抜け出して、滝川のところにやってくると、女優の山岸涼子(大竹しのぶ)を使って欲しいと妙なことを言う。被害者の男は鉱物圭一(浅野和之)、山岸涼子のマネージャーと称していた。
山岸涼子は、天久六郎の高校時代の演劇部の顧問であった。山岸自身がかつては女優を目指していたが、挫折した経験を持っている。東京の大学を卒業すると小さな新劇の劇団に入ったが「チケットのノルマがきつくて」女優の道を断念、高校教師として故郷に戻っていた。
そのころ、高校生の天久六郎も演劇の道に進もうと思っていた。明治大学文学部演劇学科を目指す天久を山岸涼子が応援しているうちに恋心が生まれ、互いに惹かれあっていることがわかる。ところが山岸には土地の大金持ちの息子で鉱物圭一という婚約者がいた。天久は自分が東京に出て成功し、その後に山岸を呼ぶという約束をする。
鉱物家が所有する動物園で会っているうちに、二人が管理室で情交に及ぶと偶然園内放送のスイッチが入り、その模様が天下の知れるところとなって二人は窮地に追い込まれる。
天久は大学に合格して故郷を去り、山岸との約束を果たすこともなく劇団の維持に汲々として今日までやってきた。ただこのところ、劇団の看板女優江川昭子(池津祥子)とともにこの高校時代の思い出の事件を描いた「女教師は抱かれた」の台本を用意し、近く公演しようと準備していた。
そこへ、女優として山岸涼子が現れたのである。この芝居の主役である女教師は山岸こそふさわしい。なぜなら本人だからである。ところが山岸は自分の顔が無くなったといって、アイデンティティが崩壊している様子。
マネージャーとしてついてきた鉱物圭一によると、あのあと自分はすぐに婚約を破棄したが、山岸涼子は精神に異常を来し精神病院に入ったらしい。不憫に思った鉱物は、病院ごと買収して、治療をしてきたという。このところ薬で安定しているときには自らを女優と思っている。なんと、この男はあの直後から今日まで、狂った山岸涼子に寄り添って、とことん面倒を見てきたというのであった。
天久は、自分がいかに不実であったかに気付いてがく然とする。こうなっては何もかも引き受けて罪を償い出直すしかないと決心した天久は、いろいろないきさつから自分が関与した死体遺棄事件の犯人として自首することになる。天久逮捕によってCMはオンエア中止、一千万円のギャラもキャンセルになって稽古場から追い出されることになった。ところが、まもなく事件は天久の勘違いであったことが判明して放免される。(このあたりは新聞の切り抜きを大写しにして説明するだけ)一千万円は天久個人の借金になり、劇団も拠点を失ってバラバラである。
最後の場面、閉鎖される稽古場にやってきた天久が、掃除をする白石泉と話している。そこへ鉱物が山岸涼子を伴って現れる。この地下室は自分が買ったという。今まで通り稽古場として使っても構わないといって、山岸涼子をその場に置くと、どこかへ消えてしまう。今度こそ一緒に芝居をやってくれということなのだろう。

とにもかくにも異様とも言えるテンションの高さである。阿部サダヲの歌舞伎役者ぶりは、時々完全にアッチへいってしまっていた。荒川良々の弁慶も目つきがおかしかった。他の男優陣のせりふもしぐさも甲高く激しい。その高揚した状態のまま話が目まぐるしく展開するので、一瞬でも油断するとおいていかれそうになる。この過剰なまでのギャグを交えたスピード感が、おそらく松尾スズキのスタイルなのだろう。彼自身、自分の気持ちを最高潮に盛り上げて、そのハイテンションの勢いを保ったまま書き進められたものという感じがある。したがって、あまり計算されていない思いつきのシーンも挿入されているが、これもまた松尾のサービス精神がなせる技で、若い観客が支持するところなのであろう。

タイトルを見たとき、映画「郵便配達は二度ベルを鳴らす」と関係があるのかと思ったら、発想のもとはテネシー・ウイリアムズであった。「欲望という名の電車」のブランチが妹のステラとスタンリー夫妻のもとに身を寄せる前、故郷で教師をしていたことにヒントを得たとどこかに書いていた。
本によっては少しぼかしてあるが、ブランチが十七歳の教え子と関係したことが大スキャンダルになって、生まれ故郷にいたたまれなくなった、とスタンリーがバラしてしまうところがある。この劇では、その少年が演劇部員で、女教師は顧問という関係であったとしたら・・・・・・、ということだったようだ。ただし、ブランチが精神病院に入ること以外、他の要素は取り込まれていない。面白い発想であったが、それだけで終わってしまったのは、ちと惜しい気もしている。
たとえばこの劇では、高校生天久六郎も女教師山岸涼子も純然たる恋愛関係というにはあまりに互いを利用しようとしすぎている。天久は自分の若さを年上の女にぶつけて自分の道を行こうとしていた。一方、いったんはあきらめた女優の道にふたたび戻ろうと若い教え子の存在をきっかけにしようとする山岸涼子。こうした一種のボタンの掛け違い疑似恋愛と、彼らが目指す「演劇」とは何かという本来の主題(おそらく松尾スズキの問題意識)にフォーカスして描いて見せる手はあった。
ブランチが精神を病んだ理由は切実に迫ってくるが、山岸涼子のそれは、動物園の園内放送で恥をかいたという漫画のような出来事だけで、なぜ狂ったか多くは語られていない。肝心のこの二人の関係がきちんと描かれていなくて、笑いをとろうと枝葉末節にこだわった松尾スズキの限界だったのか。

それにしても、このキャラクターの不気味さは尋常でないことがよくわかった。山岸涼子が新劇の女優だったときに出会うフランス人演出家のルクルーゼ役の時は、鼻を高くしてもじゃもじゃのかつらをかぶった。しゃべる言葉はでたらめだがフランス語のように聞こえる。タモリの芸に似ていた。しかし松尾の方が迫ってくるという点で迫力が違った。
ダンサーとして登場する松尾の動きは、体をくねくねさせて素早く移動しながら踊るものだが、その姿はダンサーというよりも見たこともない動物のふるまいであった。
また、屍体処理の専門家、いわゆる掃除屋として登場するキャラクターは、長髪にヘアバンド、サングラスで表情をかくしている。これが、プロ中のプロという触れ込みだが何を言っているのかズルズル声を発しているだけで言葉が聞き取れない。専門の通訳を介してようやくわかるのだが、この言葉のズルズル加減が絶妙の芸になっていて、腹を抱えて笑った。
そして、頭に日の丸の旗を一本立てた、漫画の「ハタ坊」。子供のキャラクターだが親父ムキだしである。これもぬめっとした肌触りの妙な存在感があってひきつけられる。
照れ隠しのような表情を浮かべて見せる独特の個人芸で、久しぶりに「怪優」という言葉がふさわしい奇妙な個性に出会った。

客演の浅野和之も面白いところを見せてくれた。新宿二丁目のバーで披露した一発芸「鉄砲で撃たれ、倒れる鹿」である。浅野はこの形態模写をスローモーションでやって見せる。さすがに芸域が広い。それがどうした!ということではあるが、見事なものであった。
こういう瑣末な部分が記憶に残るのは、劇の大半がギャグやお笑いでできているせいかも知れない。それに異様なまでの執念を燃やし、ばかばかしいことに蕩尽とも言うべき 金もかけている。「笑い」の消費という点では現在のTV業界とほぼ一致しており、おそらく観客はこういう「笑い」を要求している若い層なのだろう。
同じような劇団を探そうとするなら佐藤B作らの「東京ヴォードヴィルショウ」から出た「WAHAHA本舗」あたりが思い浮かぶが、彼らよりは一世代若い。こういう系譜が受け継がれていくのかどうか、僕にはさっぱりわからない。

最近読んだ本の中から気になったところを引用して、お仕舞にしたい。
「中庸は望んでも求められないとすれば、狂か狷がよい」という孔子の言葉の解説である。
「孔子はなぜ『狂』に惹かれたか。「狂者は進みて取る」(狂者進取)からである。進取、すなわち、旧弊に囚われず積極的に前進するがゆえに、それが『疾』(=ビョーキ)であろうとも、孔子は『狂』を認めたのだ。
私はここで、芸術のジャンルでよく見られる前衛的・実験的・反抗的な試みを想起する。それは、体制的になり硬直した既成の芸術への物狂おしいまでの挑戦である。意余って力足らずのことがあっても、確かに、その意欲が新しい芸術を作ってきたのだ。しかし、いつのころからか、前衛的・実験的・反抗的な『狂』は、ただの『蕩=でたらめ』になってしまった。裁断され仕立てられて美しい着物になるわけではなく、ぼろ布となってどこかに消えていく。」(呉智英「現代人の論語」第十八講、狂簡と堕落より)

 

 

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