題名:

十二夜         

観劇日:

06/3/10       

劇場:

新国立劇場    

主催:

新国立劇場     

期間:

2006年3月7日〜3月19日    

作:

ウィリアム・シェイクスピア

翻訳:

小田島雄志   構成 山崎清介   

演出:

山崎清介          

美術:

岡本謙治             

照明:

山口 暁            

衣装:

尾崎由佳子            

音楽:

遠藤 憲 
出演者:
伊沢磨紀 福井貴一 円城寺あや 佐藤 誓 植本 潤 戸谷昌弘 土屋良太 大内めぐみ
山崎清介  

                                           
「十二夜」

黒いマントに黒い帽子を目深にかぶった九人の集団が「しぇっ、しぇっ」という音を吐きながら舞台奥から小股で行進してくる。一人は腰の辺りに頭のある人形を携行している。
それを見た途端に頭が回転し始めた。反応したがすぐにたどり着かないもどかしさ。この一瞬の間が年を取った証拠である。
これは「子供のためのシェイクスピア」ではないかと思った。ある蒸し暑い日の昼下がりに道に迷いながらたどりついた東京グローブ座のマチネで見た記憶はよみがえったが、内容はよく覚えていない。正直に言うとあの頃は、子供の時分からシェイクスピアを教え込もうという了見は如何なものかと思っていたので、少し構えてみたような気がする。「そんなにシェイクスピアはありがたいものか!」というわけである。子供にシェイクスピアを見せなくては!と連れてくる「かぶれた」親などろくなものじゃない。こういう偏見は今も変わらないが、近ごろでは、どんどん見せたほうがいいと思っている。観劇人口を増やせるというのは迷信で、むしろ子供の頭を刺激する効果があると思うからだ。子供にとってはシェイクスピアもくそもない。目の前の面白いものを見ているだけなのだから。そもそも「子供のため」などという概念が果たして成立するのかどうかそっちのほうが心配である。
記録を確かめてみたら98年7月、出し物は「ヘンリー4世」で、出演したのは小須田康人、伊沢磨紀、吉田綱太郎、佐藤誓、植本潤、間宮啓行、彩乃木崇之、戸谷昌弘、明楽哲典、山崎清介と、もう少しまじめに見ていたらと思わせるキャスティングであった。そういえば、吉田綱太郎の大仰に動き回る姿を思い出した。このシェイクスピアシアターの役者は、シェイクスピア好きが高じてとうとう子供まで信者にしようとしていると思ったものだ。ただしこれは僕の誤解で、企画したのは山崎清介の方だった。彼は八年間もフジテレビ「ひらけポンキッキ」でキャスターをやったのだが、その経験を生かそうとしたことであった。出来たばかりの東京グローブ座を任されたこともあっただろう。この時の役者のうち五人が今回の公演にも出演していて、「子供のため」とことわってはいっていないが、あきらかにあのシリーズの一環として新国立劇場が取り上げたものだ。
始まる十分前くらいに現れた黒づくめの一団(頭に黄色いヘルメットをかぶっていた)から伊沢磨紀が顔を出して、多分柴崎コウの唄を歌った。自分が似ているから歌いますという口上であった。いわれて見れば面差しが似ていなくもない。円城寺あやもなにか歌ったと思う。余興としても楽しめたが、役者たちのアンサンブルが出来ていることがよく分かって立派に劇の露払いになっていた。
小田島雄志訳を山崎清介が翻案しておよそ二時間にまとめた構成は、物語の骨格がよく分かり、状況説明も簡素で分かりやすくうなずける出来であった。口でならす効果音や手をたたいてリズムを取るのをクラップというらしいが、これが随所に入り場面を省略したり、転換したり劇の進行に一定のここちよいスピード感を与えていた。これは東京グローブ座で見た時と同じだから山崎が作り出した定形なのだろう。
何と言っても冗長な翻訳調の長ぜりふや思わせぶりの警句を聞かされることがないのが「子供のための」気遣いで、これは僕ら大人にとってもありがたいことだ。
話の筋は、シェイクスピアだからそれほど込み入っているわけではない。登場人物が多くて一見複雑そうだが、人間関係のベクトルははっきりしている。ただし、一人で何役もこなすのがこのシリーズの特徴である。
プロローグで、ヴァイオラ(大内めぐみ)とセバスチャン(伊沢磨紀)の双子の兄妹が嵐の海で難破して、別れ別れになってしまう。
一命をとりとめたヴァイオラは男装してシザーリオと名乗り土地の名士、オーシーノー公爵(福井貴一)に仕える。オーシーノー公爵は、名家の娘オリヴィア(植本潤)に求婚しているが、兄の喪に付しているという理由でまったく取りあってもらえない。田舎紳士で金持ちのサー・アンドルー(佐藤誉)もオリヴィアとの結婚を望んでいる。これを知っているオリヴィアの叔父のサー・トービー(山崎清介)は間を取り持ってやるという約束でサー・アンドルーから何かと金を引き出していた。
ヴァイオラはオーシーノー公爵に密かに恋心を抱いているが、彼のラブレターをオリヴィアに届ける役割を命じられる。ところがこのシザーリオを一目見て皮肉なことにオリヴィアが恋に落ちるのである。
脇筋として、オリヴィアの執事マルヴォーリオ(戸谷昌弘)が侍女マライヤ(伊沢磨紀−二役)に偽のラブレターをつかまされて「実はオリヴィアが自分に恋している」と舞い上がり、結婚を妄想する話が進行する。その侍女マライヤは密かにサー・トービーに惚れているという事情も隠し味になっている。
この執事マルヴォーリオの妄想ぶりがたっぷりと描かれていて、戸谷昌弘の過剰とも思える大熱演がおかしかった。
そこへアントーニオ(土屋良太)に救われたセバスチャンが現れるともつれた恋の糸が一気にほぐれ始める。
シザーリオとうり二つのセバスチャンをみてオリヴィアは恋の告白をする。一方、互いに嵐の海で死んだものと思っていた、ヴァイオラとセバスチャンが再会を喜び、やがて一同、事情が飲み込めて、ヴァイオラはオーシーノー公爵とオリヴィアはセバスチャンと結ばれるという大団円を迎える。
途中遊びの場面が随所にちりばめてあり、にぎやかで華々しく幸福な時を感じさせて、子供でなくとも十分に楽しめる劇であった。
縄跳びの場面では、二本の縄を回してその輪をくぐり抜けるものや一度に四人が輪の中に入るものなど、難度の高いものがあり、はらはらしながら見ていた。そこには話の筋から離れて実際に道端で子供らが遊んでいるような懐かしさがあった。
岡本謙治の美術は、実にシンプルで真っ黒ななにもない舞台にわずかなテーブルと椅子、間口一間ほどの矩形の柱に幕を下げ、これが移動することで劇場や場所の境界に見立てるというもので、話の内容の派手さに比べればあっけないほどである。しかし、この抽象性は、黒マントの衣装や一人何役もこなすという配役のあり方と一貫しており、シェイクスピア劇のエッセンス、つまりストーリーの面白さを際立たせようとする意図と一致している。
山崎清介はセバスチャンが現れて一同が事情を飲み込んだところで幕を引いてもいいと考えた。登場人物たちが、寄ってきて次第に一つに固まるとそのまま後ずさりして間口一間の幕前に並んで、記念撮影でもするように止まり、そして両側からはらりと幕が下りて暗転。あっさりと劇は終わるのである。
小田島雄志訳とはいっているが、それはこの劇の半分くらいだと本人が書いている。すると残りは山崎清介が創り上げたものだが、あの長い劇をよくここまで圧縮し、現代の要素も盛り込んで面白く出来たことには感心する。子供のためにどんなに面白く構成出来るかを、自ら役者としての立場もふまえて考えたに違いないが「子供」という対象を越えて誰が見ても楽しめる一つの形式を確立しえていると評価したい。    





 







 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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