北岳(3,193m)2008年夏

昨年( 07年)は、Yが山登りを始めて十周年であった。Yはこれを記念して、一年前(06年)から初めて登った北岳を十年ぶりに再訪すると勝手に決めていた。ところがこっちは両神山(1,723m)を途中で敗退したばかりですっかり自信を失っていたから、三千メートルもの山岳登山など、とてもだめだと思い込んでいる。おまけに昨年はなんだか気力も萎えていて、動きまわるのがおっくうであった。しかし、一度こうと決めたら変更はきかない性格である。あまりブウブウいわれるので、どうにか近場で選んだ千メール前後の山を二つ(扇山と百蔵山)登ることでお茶を濁してしまった。低い山といっても楽ではないが、何しろアプローチが短いからあっけない。Yは「えっ、これだけ!」と明らかに不満顔であった。
あのスリル満点の岩場や雪渓歩き、ビバークまでした思い出深い北岳に比べれば、街の高台にある公園程度の山では釣り合いが取れないのである。それでますます「北岳十周年記念登山」に執念を燃やした。十一周年目になってしまうがかまうものか、来年こそは!とひとりで張り切っていた。しかし、僕としては四十九歳だった頃に比べれば、既に老人の域に達している。来年になれば体力が回復するなんていうことはさらさらない。そのときはまたなにかいいわけを考えようと思っていたら、その来年はあっという間にきてしまった。
四月から六月にかけて忙しい日々が続いたが、ほとんどパソコンの前に座りっぱなしの仕事だから運動不足も甚だしかった。たまに下北沢まで歩くくらいのことはするものの体力作りに役立つなんてことはまるでない。足のしびれもとれる気配がなかった。そういう状態でも、いよいよ日程が迫ってくると、いろんなことがあったせいか今年は逃げを打つ気にならなかった。断固やるべし。途中で心臓が破裂しようと脳内血管が破けようと這いつくばっても登ってやると密かに誓ったのである。

覚悟を決めたら、後は楽になった。二三日前から酒をひかえて睡眠も十分取るようにして、八月二十日早朝、車で芦安に向かった。
笹子峠から甲府盆地に入るのは久しぶりだったので、道を間違えたりして午前五時半頃、ようやく明るくなった芦安の集落に入った。夜叉神峠に向かう薄暗い道に若いガードマンが立っている。 少し下ったところにある駐車場に誘導しているのであった。こんな早朝からいるところを見ると、夜中も見張っていたのではなかろうか?ご苦労なことだ。数年前から南アルプススーパー林道は夜叉神峠から先、マイカー規制がしかれて入れなくなっている。芦安の駐車場に車を置いてバスか乗り合いタクシーで広河原までいくのである。突然、環境問題に目覚めた南アルプス市が新たな税源と雇用を確保できたことは実にご同慶の至りである。ここ旧芦安村はたった二百人の人口に数億円の地方交付税がつぎ込まれていたので一部で知られるようになった。村営の温泉レジャー施設が三つもあって結構なものだと思っていたが、合併によってかえって自活しなければならなくなったのであろう。環境問題にかこつけて稼ぎの種にしたことは疑いようがない。まあ、こっちも遊びで来ているのだから、マイカー規制くらい仕方がないというべきか。
Yが周到に調べ上げていた予定通り、五時四十五分発のバスに乗ることができた。広河原までは約三十キロメートル、三百メートル下に野呂川が流れる切り立った崖の上を一時間の道のりである。

北沢峠(長野県との県境)に向かう道に出会うT字路にくると、向かいに北岳が見える。以前はその角にロッジ風の建物があって、立体地図を買ったことがあったが、移転したのか跡形もなくなっていた。バス停は野呂川沿いに少し下ったところにある。身支度を整えて、さっきのT字路まで引き返し、その先のゲートを越えると野呂川を渡る狭い吊り橋がある。正面遥か奥に北岳頂上を右に見て一本の稜線が左に向かってのびている。その池山尾根が左へ登り返す鞍部を八本歯のコルというが、そこから一直線にこちらに向かって流れ下っているのが大樺沢である。吊り橋からは沢の上流に雪渓が残っているのがはっきりと見える。
天気は悪くないが、この日はあいにく頂上にガスがかかっていた。
吊り橋を渡ると市営の広河原山荘がある。早朝にもかかわらずキャンプや渓流釣りの客、学生の合宿などで賑わっていた。登山道はこの山小屋の左脇から始まる。
時刻は午前七時五分。上空に少し雲があるが、おおむね晴れている。高度を確かめておこうと「プロトレック」のモード変更ボタンを押すと、気温は出るが高度がエラーになっている。通常は気圧センサーによって計測されたおおよその現在高度が五メートル単位で表示され、高度変化を示す棒グラフが点滅し始める。さては、寿命がつきていかれたか?発売されてすぐに購入したから十五年くらいはたっている。普段は机の上に放りっぱなし、使っていないのが悪かったのか?しかし、なんどやってみてもおなじこと、どうしようもない。出かける前に確かめておかねばならなかったのだ。まあ、時計の機能だけでも働いているのをよしとしなければなるまい。そう思って高度はあきらめた。
はじめは針葉樹の林の中を左に沢音を聞きながらゆっくりと登っていく。いくつかの堰があってそこだけは水の音が激しい。間もなく白根御池小屋に向かう道を右に分けて沢沿いに進む。右の道は視界のきかない暗い林の中をいくというので嫌った。ただ白根小池がどんなところか興味があったので帰路に使う予定である。ちなみに前回は八本歯のコルを経由して大樺沢を下りたのだが、これが崖にかけられたはしごの連続で沢の付け根に下りてくるまで生きた心地がしなかった。ここだけは避けようと思ったのはいいとして、白根御池コースという選択もまた大変なことになるとはまだ気づいていない。
しばらくは、沢に流れ込む小さな流れに靴底を洗われながらよく整備された道を緩やかに登る。水にぬれた岩に足を取られないように慎重に進むと、やがて砂まじりの道になり、突然小山のような土砂によって阻まれるところにさしかかる。石ころだらけでほとんど水のなくなった沢に板を渡し、その先にはパイプで組んだ橋をかけてある。対岸に渡り今度は沢を右に見て登るのだ。古い地図を見ると登山道はまっすぐついていて沢を徒渉するところはない。おそらく山が崩れて、道が埋まったために迂回路を造ったものであろう。そんなことをどこかで読んだ記憶がある。
忘れもしない、この場所は十一年前に、午後八時頃ヘッドランプをつけて下りてきたとき、対岸に渡ったとたんに道を見失ったところである。登りは矢印が目立つようにつけられているが、下りは徒渉してすぐ砂の上に踏み跡がいくつもあって暗い中ではルートを見つけにくいのだ。雨は降っていなかったが時々空が光る。雷が近いと思って大いに焦った。実は夜でも夜中でも広河原に入ってくる車の明かりだというのに気づいていなかった。いまなら午後六時以降の通行は禁止されているからこういうことはないはずだ。このときは下手に動くと遭難の危険があると思って、道を登り返し、木立にかくれるようなところで朝がくるのを待ったのである。Yにとっては、初めての山登りでビバークというとんでもないが得難い経験であった。夏とはいえ山の夜は寒い。雨具を着てコンロの火に手をかざして寒さをしのいだ。
この沢沿いの道は緩やかで歩きやすいから順調かといえばそうでもない。三十分登って一度の小休止のつもりが息が切れてその間隔がだんだん短くなってくる。さすがに一年間何も運動していない体で急に全身運動だから、足腰の筋肉が痛んで休まないと続かない。
ちょうどビバークしたあたりだと思うが、リュックをおろして傍らの岩に腰を下ろした。ふと足下を見ると青い粉状のものがこぼれている。何かと思ったら両方の靴底のかかとの方が三分の二ほどはがれて、中の崩れたウレタンがこぼれだしているのであった。つま先がまだくっついている上にスパッツのゴムを靴底にひっかけて持ち上げてあるからかろうじてはげ落ちなかったのだ。道理でなんだかブニョブニョすると思っていた。手入れもしないで放っておいたからソウルとアッパーをつないでいるゴムが劣化したのであろう。こういう場合直ちに登山を中止するべきなのだろうが、そんなことには思いも及ばなかった。弱ったことになったが、上の山小屋で相談したらなんとかなると、そのまま登り続けることにした。
小休止のたびに振り返ると、正面に高嶺(2,779m)のやや丸みを帯びた頂上から左右対称に降りてくる優美な稜線が見える。以前ビバークしたときにこれが中空にシルエットとなって浮かび上がり、気のせいか重低音のBGMを伴って圧倒してきた。山が覆いかぶさってくるようだった。古代の人々の山への恐れとはむしろこういう闇と一体になったところから来たのかもしれないなどと思ったものだ。この高嶺が自分の登った高さの指標になった。ここからみると、まだその中腹までも達していない。
やがて、沢の音がどこかに吸い込まれたような静寂が訪れる。灌木の枝越しに時々覗く沢には一抱えもある白くて丸い石がごろごろ積み重なっているばかりである。水はこの石の遥か下を流れているのであろう。

不意に空が開けて道は再び対岸へ渡る。前に来たときには雪渓の端がここにあって、大勢が雪の上で休んでいた。氷から滴り落ちる水を水筒に補給しているものもいた。この日は、前回よりも二十日も遅かったから、雪渓はかなり後退していて黒く汚れていた。ここが二股といって、まっすぐに八本歯のコルを目指す道と頂上直下を右に巻いて急斜面を登っていくルートの交差点になる。標高約二千二百メートル、広河原から七百メートルの高さを登ってきた。(後で計算すると、ここまで地図上の距離が二千六百メートル、傾斜角度は十五度であった。)
何か鉄パイプと木でできた建物が場違いにも道から少し外れて灌木の中に立っている。発電機のような音もしているが、山小屋というほどの大きさはない。近づいてすぐにトイレだとわかった。雪が積もるのを考えて床を高く組んである。辻にあたるから気を利かしたつもりだろうが、やたらに目立って景色が台無しである。
ここから右股は標高差約五百メートルの急勾配を登る。喘ぎながら自分の体を持ち上げては一歩登るたびに休む。左に沢筋が一本降りていて雪渓が消えずに残っている。それを見ながら高度を確認してはまた一歩あがるという具合で、速度はがっくりと落ちてしまった。はげたソールも気にかかる。しかし、灌木だけの道だから見晴らしがきくのはありがたい。大概の山は林の中の急斜面で苦しいだけ、気を紛らわすものがないもない。前回もこのルートを登った。途中に一瞬だけなだらかで氷河が削った跡つまりカールの底のように見える場所がある。急な階段の狭い踊り場のようなものだ。そこだけは木のかわりにたくさんの種類の高山植物が咲く、お花畑と呼ばれているところである。残念だが、花の盛りはすぎていた。高山に咲く花は、いわれてみればけなげで可憐だと思うが、これを愛でて歩く山旅なんてことにはどういうわけか興味がわかない。小さな花に感情移入するほど繊細な神経を持ち合わせていないことを嘆くべきかもしれないが、どうも女の趣味のようで、潔しとしない。しようがない、早い話無粋なたちなのである。
ここで丁度十二時。朝握り飯一個を食べただけであったが、食欲はあまりない。しかし、何か口に入れないと体が動かないような気がしていた。若い頃は、体がどこかにエネルギーを溜め込んでいて、多少食わなくても動き回れたと思うが、近頃では直接きいてくる。例えば、歩いていて眠気がわいてくるとか頭がはっきりしないときにあめ玉ひとつでしゃっきりする。カステラのようなものをほんの一口食べただけで急に力が出るなどということはよくある。文字通りためがきかなくなったのだ。老いるということがそういうことだったとは若いときには気がつかないものである。
草むらにへたり込んでソールの具合を確かめた。相変わらず青い粉状のウレタンがポロポロこぼれている。しかし、幸いまだつま先の方へは広がっていなかった。それから、恒例になったフルーツのタッパーをあける。一口大に切った桃、なし、スイカ、オレンジそれに巨峰。むさぼるように口に入れる。ぶどうだけはまだハシリだから少々酸っぱかったがあとは甘くて果汁も十分だった。急に食欲が出てきた。そこで、パンにハムとチーズにレタスを挟んだものを口にした。
僕らの他にも二三組が腰を下ろしている。ここは右俣ルートのちょうど中間にあたり、登りにも下りにも休憩地としては誠に都合の良い位置にある。少し離れた灌木の茂みから若い女性が現れた。そこが登山道であった。不思議なことに小さなリュックで軽装である。まるで散歩にでも来たような風情であった。ぶらぶらこちらに歩いてくる。すると後ろから同じような格好の若者がやってきた。腰にヘルメットを二つぶら下げている。そこで気がついた。この二人はロッククライミングをやってきたのだ。
北岳バットレスは頂上の直下にある岩壁である。約六百メートルの断崖絶壁は、穂高の滝谷、谷川岳の一の倉沢(ここが最も死者が多く七百人以上にのぼる)、甲斐駒ケ岳の赤石沢奥壁などと並んで多くのクライマーが集まるところである。登りきったところが頂上というのは北岳だけの魅力だろう。彼らは八本場のコルの手前からこの壁に取り付き、三四時間で頂上に達する。身の軽さはうらやましいと思うが、たとえ若かったとしても決してやる気にはならなかっただろう。人間には、どうしても激しく体を動かしたいという欲求を生理として持つタイプがいるものだ。

腹ごしらえをすませて再び登りだした。 三十分ほど休憩していたことになる。同じ急傾斜だが、今度は沢筋からはなれて背丈の低い灌木の中をいく。景色は見えないが空が開けているので気分は楽だ。相変わらず休み休みしながらそろそろと登る。ここを登りきるとおよそ二千八百メートルの森林限界を超えた尾根筋に出る。ときどき上を確かめると木がまばらになったような気がして、そろそろ急登も終わりかと期待するのだが、そんなに甘いものではない。ああ、あそこまでだと思って体を持ち上げるのだが、そこまで登れば、次のあそこが現れるといった具合である。
十一年前、山登りの足の運び方も知らないYは、常に僕から十歩くらい後ろになった。ややもすると姿を見失うほど遅れてしまう。そのときは、立ち止まってやってくるのを待つ。ところがほどなく立場は逆転した。僕の方がハアハアいいながら登ってくるのを上に立って待っているというのが常態になった。しかし、今回はもっと早く登れるのに、僕のペースに合わせてくれている。実際、待たれると思えば、どうしても心に焦りが生じて、これが疲れを増すことになる。この気遣いはありがたいことである。
疲労困憊、太ももから膝、ふくらはぎにいたるまでもはや力が残っていない、ふらふらの状態でうなだれたままどうにか足を運んでいる。よくしたもので、ちょうどそのとき足下から植物が消えて土が現れた。ついに急登は終わった。頂上から西の小太郎山(2,725m)を結ぶ尾根の上に出たのだ。元気がよみがえってきた。
前に来たときはここでちょうどお昼になった。頂上で昼飯という予定だったが、まだ先は長いということで、この土の上に腰を下ろした。大勢の登山者が数珠つながりに尾根道に座っているので、場所を探すのに苦労したと記憶しているが、誰もいない今はこんなに広かったのかと意外な思いである。もう午後二時を回っていた。
振り返ると、高嶺の頂上とほぼ同じ高さにいる。その右奥に見えるのは特徴あるオベリスクの地蔵岳(2,764m)、少し離れて右に雪をかぶったような白いピークが二つある。観音岳(2,874m)と薬師岳(2,780m)の風化した花崗岩が白くざれた頂上である。この鳳凰三山の十キロメートルにも及ぶ長い稜線と野呂川から一気に千五百メートルの高さで立ち上がっている山塊はまるで屏風を立てたように見える。
高嶺から左に目を転じると、アサヨ峰(2,799m)をピークに、鳳凰三山級の高さで連なる早川尾根の山々が見える。それが栗沢山(2,719m)を最後に切れ落ちると、その向こうに白く摩利支天の岩峰がこちらに向けて立ち上がり、それを抱えるようにひときわ高い甲斐駒ケ岳(2,966m)の灰色がかった頂上が少しかすんで見えている。この位置から甲斐駒を見ることができたことは何よりもうれしかった。さらに左に回ると、そこには雄大な仙丈ヶ岳(3,002m)の山体が横たわっている。特徴であるカールは確認できたが、頂上には雲がかかっていた。ひとしきり眺めを楽しんで、ほどなく出発した。
この日泊まる予定の肩の小屋(3,000m)までは約八百メートル、標高差百五十メートルを登る。尾根道はおおむね土に覆われているが、ところどころに岩をよじ上る小さなピークがあって楽をさせてくれない。既に足は限界に達していて、ストックにすがってようやく前進するという有様であった。
最初に目に入ったのは何か青いものであった。あっ、やっと着いたと思った。少し高いところで小屋の主人が登山道の方を見ていた。予約客を迎えているのである。とにかく平らな地面に足を置けてほっとした。午後三時であった。Yがこれから頂上を目指すという。いやはや元気なことだ。明日のご来光を拝む手はずではないのかといって、勘弁してもらった。何しろ一刻も早く横になりたかったのだ。靴を脱ぐとソールがとれかかってぶら下がっている。それも後回しにして、二階にあがり、割り当てられた番号の位置を確かめて寝転がった。山小屋に入る時刻であったから先客が何組か既に布団をひいて横になっている。
Yが靴底のことを相談したといって上がってきた。手に針金四本とペンチを持っている。「よくあることだが、小屋としてできることはせいぜいそんなことぐらいだ」といわれたらしい。えっ!「よくあること」なの?瞬間的に靴のメーカーはずいぶん無責任ではないかと思った。僕一人の問題、手入れを怠ったとか保管方法を知らなかったとか自分の不注意なのかと思っていたが、誰にも起こりうることだという。そんなことならばきちんと警告を発するなり、対処方法を啓蒙するなり、対策を講じるべきではないか。とまあ悲憤慷慨しても始まらないか。とりあえず明日、この針金を使ってどのようにソールを固定するか考えておかねばならない。
そうしているうちに、次々に泊まり客が入ってくる。団体は一組ぐらいで、幸いうるさいということもない。見ていると、ウイークデーだからかもしれないが、中年の夫婦連れが最も多いようだ。ありがたいことに混み合っていないので、一組で柱と柱一間分を使えることになった。布団や毛布も五六人分を独占できる。夕飯は四時半から順番にというおふれが回ってきた。それまでまだ少し間がある。
先に到着していた四十代と見える夫婦が隣で既に寝床をこしらえ、横になろうとしていた。余った寝具を積み重ねて、僕らとの間に垣根を築いてくれている。とりあえず仰向けになって毛布をかぶった。汗はひいていたが寒い。次第に体の芯から冷えてきた。あとで高熱が出るような悪寒である。あわててリュックからフリースを引っ張りだして着込むともう一枚毛布を重ねてくるまった。それでどうにか寒さは収まって、緊張から解放されると筋肉がほぐれていくような気がする。とにかく体を休めようと目をつぶった。
なんとなく明日針金をどう巻き付けようかなどと、考えながらひと眠りしようとしていると、まもなく隣で盛大ないびきが始まった。あとにも先にも聞いたことがないような大音響である。自分のいびきに驚いて目を覚ましてくれないかと思ったが、いっこうにやむ気配がない。はじめは我慢していたが、いらいらしてきて嫌みたらしく垣根に布団を積み上げたり、枕元の柱をたたいて注意を喚起するとか、いくつか抵抗を試みた。細君が気づいてなんとかしてくれても良さそうなものだが、覗いてみると亭主の脇ですがるように体を丸めて寝ている。この音でも平気というのは、なれているのだろう。長年我慢を続けていると怒りがあきらめに代わりついには無神経になってしまう現象なのではないか?
他の客が気づいてくれることを願ったが、夕飯前だから大概荷物の整理や、洗面、寝床の準備やらで忙しく出入りしている。つまづいたふりして足でも蹴飛ばしてくれたらいいのになどと思いながら、ひたすら耐えた。
そのうちに夕飯だというので、さっさと起き上がって階下の列に並んだ。 液晶テレビが柱に取り付けてあって、地デジ放送が北京オリンピックの模様を映している 。さすがにここまで来て熱心に見ているものはない。狭い空間に並べられた小さなテーブルに八人座ることになるが、先客の中年男がでかいあぐらをかいて遠慮もないから窮屈この上ない。名前も知らない白身の魚を甘辛く煮付けたものとサラダに飯とみそ汁だった。数年前、甲斐駒の帰りに雨にふられ仙水小屋に泊まったのが山小屋初体験だったが、このときは刺身に揚げ物、デザートにスイカが出たのでびっくりした。山の中で刺身を食おうとは思わなかった。それに比べればさすがに人里離れた三千メートル、どうやって荷物をあげているのか知らないが万事質素にということなのだろう。それで量も十分だった。

夕飯が終わった後外で出て洗面、寝る支度をした。薄いガスが出て視界はきかない。幸い筋肉痛は歩けないほどの痛さではなかった。
午後七時前、さて寝ようと思ったら隣のいびき男夫妻は既に床に入っている。先に寝た方が勝ちと思っていたが遅れを取ったようだ。まずいなと警戒しているうちに間もなく始まった。他のものはまだ寝床を作るやら何やらごちゃごちゃやっている。階下のストーブの周りに集まって話し込んでいるものもいる。
その人々も三々五々自分の布団に入り始めた。大音響は、八時の消灯の後も続いているので、これで一晩中やられたらたまらんが、他の連中も「あの野郎」と思っているのがわかるからその仲間意識で僕のイライラも多少は緩和される。苦労は皆で分かち合うのである。二階客だけでなく階下で寝ているもの全員を敵に回している。それを察知したのか、さすがに細君が何かしたような様子が垣根の向こうから伝わってくる。ややトーンが変わるが、期待に反して音量が若干弱くなっただけである。そのうちに正面を向いて仰向けに寝ていたのを少し横向きにしたらしい。それで「グァァー」と「スゥー」の中間ぐらいに変化した。変化が兆したというのはなんであれいいことである。起きているかいびきをかいているか二つに一つなんて人間はいないはずと自分をなぐさめて、ひたすら待ち続けていると、時間はかかったが驚いたことに階段状に音が低くなっていく。そして、ついに寝息が聞こえなくなってご臨終、のはずだったが、その前に疲労の極にあった僕の方が眠りに入っていた。
夜半に目が覚めた。プロトレックのスイッチを押して時刻を見ようとするが電池が弱くてよく見えない。高度計がいかれているのは電池切れのせいかもしれない。どうやら午後十一時三十八分であった。膀胱がパンパンである。真っ暗な中を、手探りでリュックからヘッドランプを取り出し、外へ出ようとしたが鉄の扉が開かない。ぐずぐずしているとYが心配してやってきた。要領が悪かったらしく、Yがやると難なく開いた。
外は晴れている。時々湿気を帯びた風が吹いてくるが、寒くはない。用を足して、しばらくベンチの横にたって景色を見ることにした。東の正面にはほぼ満月に近い月が少し赤みを帯びて煌煌と輝いている。星はところどころに見えるが、湿った空気の層が満天の星空を隠しているらしい。月は鳳凰三山のすぐ上空にある。特徴ある白い三つのピークが月に浮かび上がっている。その向こうに富士山が見えるはずだったが影もない。高嶺の稜線が左に落ちて、再び早川尾根に立ち上がる鞍部、白凰峠の向こうに街灯りがわずかに覗いている。山梨県韮崎辺りであろう。大きな自然と人工的なものの対比を見せつける情景に何かが違うという違和感を覚えた。
西をみれば仙丈ヶ岳の二つのカールが照らし出されている。その大らかな山が左に切れ、重畳と重なる山影との間にできた小さな隙間から長野県飯田あるいは高遠辺りの灯がもれている。南は北岳頂上の方向だが岩嶺に阻まれてみることはできない。その遥か向こう、大きな櫛形山の右脇からもれている明かりは山梨県市川大門町あたりか。何年も前、真冬にそこを通ったときにあれが北岳だと聞いて双眼鏡で覗いたことがある。前哨の山々に阻まれて遥か頂上しか見えなかったが、厳冬の北岳は寒々とした青空を背景に、白く氷に覆われ時折頂上付近で雪煙を巻いていた。
今その山に立っている。この光景の雄大さは、どんな写真もTVカメラの映像も表現することはできないと初めて実感できる、そこにいるものだけが味わえる大きさである。考えてみればこの山は、麓の街から見ようと思えばこのわずか三カ所からしか見えないのだ。しかも、それは平面で構成されている。その街から見た山を想像する。いま自分は確かにその上にいるはずだが、実はそこにはいない。攀じ登るという行為のどこか途中で別の世界に入ってしまったのだ。ここから見えるあの明かりの世界といま自分が立っている場所は、いわば全く次元を異にする空間といってもいい。だから彼らから僕は絶対に見えない。できれば僕も彼らを見たくはなかった。山に登るということは異世界に分け入るという行為なのだ。よくは知らないが、山伏の行為がそれを表しているように思える。俗を出て、魔物が棲むという世界に身を置いて自らを浄化しようとする。山をご神体とあがめて暮らしてきた我らが先祖、僕も役小角の子孫につながるものであることをこの夜しみじみ知らされたような気がする。よけいなことを言うようだが、山は畏れるものであって、征服されるべきものでは決してない。また征服できるものでもない。
三十分ほどそんなことを考えながら真夜中の山々を眺めていた。寝床に入るとすぐに眠ったらしい。目が覚めたのは午前四時、ご来光を仰ごうというものがいたら動きだしている時刻である。すでに起きているものは二三組いるようだが、身支度をしている気配はない。風が強くなっているような気がした。さては雨であったか?夜中の湿気が雨を呼んだのかもしれない。じっとうかがっていると階下で「雨」という言葉が聞こえる。仕方がない、午前五時半の朝食を済ませてから、頂上に向かうことにしてぎりぎりまで布団の中にいた。
朝食は煮物にのり、納豆、梅干しといった定番、愛想も何もない。外に出てみると、煙雨とでもいうのか、霧のような細かい雨が白い蒸気と入り交じって西から流れていた。視界はほんの十メートルぐらいである。小屋を出発しようとするものでごった返していたので、ソールを縛り付ける作業がひかえている僕らは最後にしようと雨具を着込んで待っていた。リュックは小屋に置いて頂上を往復するつもりである。ようやく針金を巻き終わって外に出ると十数人のパーティが準備運動をしているところだった。その連中を後にして、小屋の脇についた登山道をいく。背中にリュックがなくても体の負担は同じに感じる。これから標高差二百メートル、岩だらけのルートを一時間あまりかけて頂上を目指すことになる。時々鎖場が現れるが、岩に手をかけて登れば難しいことはない。ただ、一つ岩山を越せば霧の中にボォーッと次が現れ、それを乗り越そうと脇を見れば片側がすぱっと切れ落ちていて、薄気味悪いことこの上ない。バットレスに落ち込む崖の縁を登っているのである。十一年前の時は晴れて視界を遮るものはなかった。ほとんど切れ目なく登山者がつながっていて、その後を追いかけるだけで楽に頂上に到達した記憶がある。しかし、今度は体が重くて、息が切れる。休みながら登るしかない。霧の中から現れた登山者が追い越して、再び霧に消えていく。その中で一人、僕の足下に目を向けるひとがいた。歳の頃は僕と同年配、大きなリュックを背負っていて、山になれているふうである。
「ああ、やりましたね。どういうわけか北岳にくると多いのですよ。」といいながら、リュックをおろして白いテープをとりだした。スポーツ選手がテーピングと称して使っているもののようだ。ルートから少し脇に寄って岩に腰掛けるようにいう。「あくまでも応急処置ですよ。」と手慣れた様子で靴に巻き付けてくれる。針金は太くてなかなかいうことを聞いてくれず、いかにもゆるゆるであった。そこを心配してくれたのだ。終わると力強く岩を踏みしめながら、さっさと霧の中に姿を隠した。
しばらく登って、やがて少し先を行っていたYが「あれが頂上じゃない?」と指すのでその方角を見ると、霧の中の高いところに島のように浮かんだ岩山がかすんでいる。くぐもった話し声のようなものが聞こえてくる。とうとう登りきったようだ。
頂上には十数人いたと思うが、もやっていてよく見えない。そばにタオルで顔を拭いているひとがいる。先ほどテープを巻いてくれたひとに違いないと思って、お礼を言ったら「いや、わたしじゃありませんよ。」という。靴のことを知っていたらしい。さて、あの人はどこへ行ったやら。
そばにいた人に頼んで、標識の前に二人で並んで写真を撮ってもらった。この看板には「3,193m」と書いたプレートがビスで止めてある。前にきたときは「3,192.4m」とあったはずだ。四年前に三角点より八十センチ高い岩盤が計測されて正確には「3,193.2m」となった。それでなくともこの山はいまだに年々高くなっているという。穂高よりもこっちが高いことを悔しがる御仁がいるそうだが、こうなったらいよいよ敵うまい。この看板の他は霧が隠して何も見えなかった。
Yは帰りのバスの時刻を心配していた。さあ、肩の小屋まで引き返そうと振り返り頂上から岩を一段降りかかったとき、Yが「よくやったね。」といって顔をくしゃくしゃにした。自信のなかった僕を無理に引っ張ってきて、二年越しの思いがかなった。僕もいろいろあったから「よかった、よかった」といって二人で肩を抱き合って少し泣いた。

下りは雨が弱くなり、ルートも通ったばかりの道だから順調だった。朝八時頃というのは登ってくるもの、降りるものどちらも多い。僕らは体があまり利かないからどんどん追い越されていく。小屋につくと、先ほど追い越していった若者がいて、腹ごしらえをしようとしている。大きなリュックなので縦走してきたのだろう。どこから?と聞くと、聖岳(3,013m)からだという。静岡県の椹島登山口からまず聖岳に登り、赤石岳(3,120m)、荒川三山(悪沢岳が最高峰で3,141m)、塩見岳(3,052m)そして間ノ岳(3,189m)に北岳という三千メートル峰をつなぐ全長約四十キロメートルのコースである。塩見岳まで一緒だった父親は、仕事の都合で先に長野県側に降りたのだそうだ。何日かかったかは聞かなかったが、歩きづめだったろう。若いとはいえ親子で健脚なものである。

午前八時半、小屋を後にした。この頃になると霧が晴れて視界が開けてきた。間もなくさっきの若者が追い越していく。くさすべりを白根小池小屋に降りるというから僕らと同じコースだ。小太郎尾根の分岐にさしかかる頃には薄日が射してきた。これからきつい下りに入る。右俣コースの沢筋を一本隔てた左の道だから傾斜は同じはずなのにこちらの方が急に感じる。中間に踊り場もなく一方的に下るだけだからかもしれない。脇を見ると、木のない右斜面に大きな百合の花が咲いている。大きすぎて少し不気味である。
この急斜面は、長めにしたストックを前に出し、つっかえ棒にして一歩一歩ブレーキをかけながら足を運んでいく。 足の置き場所がよく整備されていて、歩きにくいところはないが、登りと違って前屈みになるので膝の周りの筋肉、それに腰と背中が疲労する。俗にいう膝が笑うという状態である。これも休み休み、疲労して熱くなった筋肉を冷やしながら降りていかなければならない。急峻な下りだから慎重に足を運ぶ。真下に御池小屋が見えてくるはずだが、いつまでたっても同じ景色が続く。
同じ足の運びを続けると、筋肉が痛くなってくるので、たまに足を横にしてがに股歩きをしたり、横歩きのようなことをしながら変化を付けなければならない。そのうち、右足を岩において、左足を下におろそうとした瞬間、右の靴に巻いていた針金がほどけて上に輪っかができていたのに気づいたときは既に遅かった。おろそうとした左足が針金に引っかかり右足の上に乗ってしまった。上体がバランスを失って、そのままドゥーッと前のめりに倒れた。無意識にストックを前に差し出して体を支えようとしたような気がするが、その瞬間目をつぶってしまったようだ。どんな姿勢で倒れたか記憶が抜け落ちてない。土が露出していて、大きな岩などない場所であったことがさいわいであった。その土の上にたまたま転がっていた板状の浮き石に右肩から落ちたらしい。肩甲骨の下あたりを石のエッジにしたたか打ってそのまま一緒に斜面を滑った。骨までいったか!と思ったが、冷静に考えるとそこまでの痛みではない。左の肩も痛んでいるがこちらは打ち身程度、右手首の上あたりに擦過傷、他に首の辺りが痛むが頭や顔は無事である。しかし土ぼこりで顔半分がざらざらする。両手を伸ばし、その間に顔を挟んだ状態でとまった。精神的なショックでしばし呆然、我を忘れて倒れ込んだままだった。
Yが点検した所によると、着ていた夏用のウエアの肩の部分が切れていた。下着の方はもっと丈夫な繊維でできているから無事である。その下の皮膚が直線上に五センチばかり切れて血がにじんでいるらしい。それにしても、石が浮き石でそれに乗って滑ったというのはなんといっても幸運だった。そうでもなければと想像するとぞっとする。
針金は危ないと思ったが、テープもこの頃になるともはやぼろぼろになっていて、あてにならないので、もう一度巻き直して使うことにした。
ショックから立ち直り、再び慎重に足を運び降り始める。幸い自然にできた階段状の斜面でむずかしいことはない。大事なことは右足と左足を決して近づけないことである。しばらく降りていくと斜面の底が見えた。狭いが平らな場所に小さな水たまりのようなものが見える。もうすぐだ、そう思って心は焦るが、膝が笑っている足がなかなか前に進まない。見えるものは水たまりだけで、小屋など影も形もない。その目の前の水たまりがいっこうに近づいてくれないのだ。「見えている魚は釣れない」という言葉を思い出した。
しかし、何にでも終わりというものはある。斜面の底には草がぼうぼうと生えているのが見えて、ちょっとした湿原らしい様子がうかがえる。最後はその草を分けて進み、ようやく平らな地面に立つことができた。白根御池はただの水たまりだったが、そこまで進むとかなり広い平地が広がり、左手に立派な山小屋が建っているのが見えた。南アルプス市営である。その前庭においてあるいくつかのベンチのうちの一つを借りて座った。ちょうどお昼であった。あの斜面と三時間格闘したことになる。予定を一時間オーバーしてYは再びバスの時刻を心配し始めた。午後三時には広河原に到達していたい。
他に二十人近い中高年男女混合パーティが一組、数組の夫婦連れや若者が食事をしたり、休憩している。ここは、二股と同じ標高二千二百メートルである。あと高度差七百メートルを下ることになるのだが、このときは二時間もあればいけるだろうと楽観していた。
朝食以来まともなものは食べていないので、お湯を沸かしてカップ麺を作った。その間にコーヒーを入れ、小さなパンをのどに流し込む。向こうでにぎやかにやっている団体から聞こえてくるのは長崎弁だと気がついた。あんなに大勢で長崎から北岳までやってくるとは日本の登山熱もたいしたものと思う。僕なら九州の山に出かけようなどという気にはならない。比べるのも変な話だが。
休憩するともう動きたくない。ぐずぐずしているうちに一時間近く過ごしてしまった。水洗トイレで用を足し、身支度を整えて出発した。
しばらくは暗い森の中のほぼ平坦な道を多少のアップダウンを繰り返しながら三十分ほど進む。何人か登ってくるひととすれ違った。やがて「ここで急登終わり」と書かれた標識の前に立つと、そこから鋭く切れ落ちた急坂が始まる。下からどんどんひとが登ってくる。電車とバスを乗り継いでやってきたパーティが宿泊先の白根御池小屋に向かって登ってくる時刻なのだ。
降り始めて気がついたが、目の前の道は見えるが少し先に目をやると針葉樹の林に隠れて道が見えない。登ってくるものも初めて目に入るものは頭だけである。つまり、木を取り除いたらほとんど崖になってしまうようなところをジグザグに降りているのだ。
木の根が複雑な段差を作って足の置き場に困るようなところや大きな岩が露出して足がかりもないような場所が次々に現れ、さっき白根御池に降りてきたくさすべりよりは一段と足腰に応える険しい道である。長崎弁の一行がにぎやかに追い越していくと下から登ってきた大阪弁のパーティと何やら大声で声を掛け合っている。
足がもう限界だと思った頃に「第二のベンチ」というところに到達した。狭いベンチに座って休憩していると、下から中高年というよりは老年に近い婦人がやや軽装で登ってきた。ほとんど息が切れていないのはたいしたものである。「第一のベンチ」まではどのくらいあるかと聞いたら、それには応えないで僕の足下ばかり見つめている。「ああ、やったのね。」という。ぼろぼろのテープに針金を巻いた靴を見て「こういうのよくあるみたいね。どっか山小屋で靴を売ってたとこがあったわよ、針ノ木岳にいったときだっけ。」と独り言のようのつぶやくのである。その言葉で、歳の割にはずいぶん健脚、かなりの登山経験者であることがわかる。しかし、ものの言い方に浮世離れしたところがあってやや不気味。そう思っていたら下からどんどんひとが上がってきてたちまち「第二のベンチ」は一杯になってしまった。老婦人はこの一団の先鋒だったようだ。とにかく押し出される形で、僕らは再び降り始めた。
上から三人の中年男性が話しながら降りてくる。会社の同僚らしい。後輩が先輩に「…何しろ千メートルで七百メートルですからね。そりゃあきついですよ。」と話している。えっ!そんなにあったのか、と驚いた。地図をよく見ていなかったのが悔やまれた。つまりこの急坂は、平面(地図)上の距離が千メートルで高低差が七百メートルあるといっているのである。後で計算してわかったが、傾斜角約三十五度、斜面の距離は千二百二十メートルとなる。スキーで斜度三十度というのはほぼ崖を降りるのに近いと聞いていたが、ここはそれ以上に険しい急坂だったのだ。そんなことがわかっていれば、小太郎尾根から右俣コースに降りて、距離は長いが傾斜十五度の大樺沢を下りた方が足腰の負担も軽減できたにちがいない。休憩もそんなにいらないはずだから、時間を短縮できたかもしれないのだ。
この下山ルートがよい選択ではなかった知っても後の祭りで、逃げるわけにいかない。時間ばかりかかって、次第に登ってくるものも、下りで追い越すものもいなくなった。いったいいつになれば、大樺沢との分岐に出会えるのであろうか?標識はなかなか現れてはくれなかった。
そして、とうとう沢音が聞こえるまでに近づいた。傾斜は少し緩やかになったような気がするが、分岐の看板はまだ先らしい。変だと思いながら進むと堰が現れて大樺沢と平行して降りている。ますますおかしいと思いながら歩いているとまもなく傾斜は劇的に緩くなった。やや先をいくYの足が速くなっている。僕の方は足から力が抜けて、段差があるのに気づかなかったために足を滑らせて尻餅をつくと、そのまましばらく動けなかった。先でYが何かいっている。急いで追いかけると、着いたといっているらしい。そんなばかな!と思ったが、すぐ左手の下に黒々とした屋根の一部が見えてきた。本当に着いたのだ。 看板は見逃したらしいがそんなことはどうでもいい。ともかく終わった。午後四時をまわっていた。

昨日出発した広河原山荘の前には、下山してきた大勢の登山者がいた。ベンチの周りに集まって談笑している。少し離れて僕らも腰掛けた。疲労困憊であるが気持ちは軽い。そのうちに寒くなってきた。上半身裸になって、フリースに着替え、バス停のある対岸に向かう。吊り橋で振り返ると、朝霧雨だった頂上が晴れやかに見えている。あんなに高いところに立っていたなんて信じられない気持ちだ。やはり、あれは今ここにいる僕ではなかったのかもしれない。
乗り合いタクシーに呼び止められて、バスよりは早くたつというのでそれにした。同乗したのは若い夫婦に小学生くらいの男の子であったが、青年は僕の足を見て「ああ、それ、僕もやったことがあります。突然そうなるから困りますね。」とかなり同情するような表情であった。夜叉神峠のトンネルをくぐる前にタクシーが止まって、運転手が西の方を指差した。北岳と間の岳をつなぐ三千メートルの鞍部に夕陽が落ちるのを見られるのはこの時期だけ、ということだった。まぶしくて楽しむどころではない。
芦安に着いたのは六時過ぎ。すぐに市営の金山沢温泉に向かった。ここは比較的新しくてきれいだ。露天風呂もあって湯が熱い。客は僕らの他は誰もいない。なんという贅沢だろう。北岳でかいた汗を流しながら、なんとかここまでやれたのだから、一昨年敗退して悔しい思いが残っている両神山にもう一度挑戦してみてもいいのではないかという考えがふつふつと頭に浮かんできた。