両神山(1,723m)2008年秋
一昨年(2006年)の夏、両神山にいったが、頂上まであと一時間半という清滝小屋(1,300m)で引き返してきた。このときは七時頃から登り始めて清滝小屋についたのが十時、 かなりばててはいたがそれほど遅いペースではない。ただ、この日はいつもより体が登りに慣れてくれなくて、たまに吐き気がするなど体調が悪かった。
小屋まではあと少しだろうという地点で休憩していると、中年の男性がひとり追いついてきた。年格好は僕と同じくらいだろう。彼も立ち止まって汗を拭きながら話しかけてくる。自分は両神山が好きで、もう百回くらいは登っているという。小屋の管理人ともなじみで、今日は野菜のみやげを持ってきたといってリュックの中身を見せてくれる。ずいぶんな話し好きで、なかなかやめてくれそうもない。黙って聞いていると、僕らがぐずぐずして立ち上がらないのは、かなり体調が悪いからではないかと思い出したようだ。間もなく彼は先に行ってしまった。
僕らが清滝小屋に到着したときには、彼は小屋の外から管理人となにやら親しげに声を掛け合っていた。とりあえずベンチに座り込んだ。Yが何かの用事で小屋に入って帰ると、ここで引き返したらどうかという。この先はこれまでよりも急登になる。頂上まで二時間以上はかかるだろう。 体調が悪いのに耐えられるか? 登った場合、午後一時に頂上を出発するとして、登山口まで四時間、いや五時間くらいか?すると下山が午後六時、それから帰宅するのではあまりに遅くなるではないか、そういう理由であった。
実は、先に小屋についたあの男が、あとから登ってくる夫婦のうち亭主の方がかなりばてていて顔色も悪い、ここは一つ下山させた方がいいのではないかと小屋の管理人に話していたらしい。僕としては、ゆっくり登れば多分いけるという見通しはあったが、時間が気になった。「ゆっくり」だと結局子供らの夕飯が遅くなる。そこで、やむなく引き返すことにしたのである。
こういうことはままあることで、残念ではあるが、いつかもう一度という思いもあるからあまり後を引くこともない。思い出すと、友人と甲斐駒に行ったとき、雨にふられて双児山(2,649m)の途中から引き返したこと、Yと行った会津駒ヶ岳(2,132)で頂上直前の湿原でギブアップしたこと(後日再訪して達成)、単独で行った谷川岳(1,977m)、秩父の武甲山(1,304m)など何度も経験している。
今年は、八月に北岳に登ることができたので、俄然やる気が起きてきた。実は北岳の帰りに、やり残している両神山を再訪しようと密かに決心したのである。Yは、こういうところは案外恬淡としていて両神山などにはこだわっていなかった。北岳に対する執着に比べればあっさりしたものである。九月の連休を一日それにあててつきあうということになった。
家をでたのは午前三時過ぎ。小雨が降っている。秩父地方は曇りの予報となっていたが、行ってみなければわからない。大降りならやめようと思っていた。
前回も雲が厚くこの山の全容を見ることはできなかった。
武甲山は秩父盆地のどこからも見える。南の端にいきなり1,300mの高さで立ち上がっているからだ。この山の北側半分は石灰岩でできているために明治期からセメントの材料として掘られてきた。削り取られて灰色になった頂上は無惨ともいえるが、秩父の盟主といわれるだけの偉容は未だ保っている。
一方、両神山は奥秩父といっても群馬県境に近い最深奥部に位置し、麓から見るのは容易ではないらしい。実は何度か秩父へ行っているが一度も目にしたことがない。 地元で二三人にどの辺りに行けば見えるか聞いてみたこともあった。遠くを指差してあのあたりまで?などといわれるが、大概要領が得なかった。それほど山が深いからなのだろう。あるいは武甲山ほどの親しみを持っていないということかもしれない。いずれにしても、いろいろな角度から撮った写真や立体地図を見ても、一体全体がどんな風に見えるのか見当がつけにくい山である。
深田久弥の「日本百名山」によると、
「それは秩父の前山のうしろに岩乗な岩の砦のさまで立っている。おおよその山は、三角形であったり屋根型であったりしても、左右に稜線を引いて山の体裁を作っているものだが、両神山は異風である。それはギザギザした頂稜の一線を引いているが、左右はブッ切れている。あたかも巨大な四角い岩のブロックが空中に突き立っているような、一種怪異なさまを呈している。古くから名山として尊崇されているのも、この威圧的な山容からであろう。それはどんな山岳重畳の中にあっても、一目ですぐそれと分かる強烈な個性を持っている。」
手持ちの写真で見る限り、確かに峨々たる稜線に違いないが「左右はブッ切れている」ようには見えない。一度「巨大な四角い岩のブロックが空中に突き立っている」という様子を確かめたいと思うけれど、そばの山にでも登って、天気に恵まれなければかなわないだろう。これから登るあるいは登った山をこの目で見ることができなかったのは両神山をおいて他にない。奇妙なことではあるが、この山を選んだのは秩父という東京からの近さと修験者の山らしい適当な厳しさがあるという理由で、山の形にまで気はいかなかった。(あとで調べてみると、何のことはない、秩父市街の高いところから望むとそのように見えるらしいとわかった。)
深田久弥は、「秩父の町から納宮までバス、そこから楢尾沢峠を越えて、日向大谷にある両神山の社務所に泊まった。」と書いている。交通の便が悪くてなかなか登る機会がなかったが、バスが通って東京から一泊で行けるようになったのででかけたということであった。その納宮というのは秩父盆地を東西に貫く国道299号線沿いにある。国道はそのまま西に向かい、志賀坂峠をトンネルで越えて群馬県に入る。現在ではこの国道の南、尾根を一つ隔てた薄川に沿って県道ができ、直接日向大谷に入れるようになった。地図を見ると、確かに納宮から徐々に高くなり、峠から急坂を日向大谷に向かって下りる山道が通っている。深田久弥が登ったときはこの道しかなかったのであろう。
秩父の町を通過する地点で白々と夜が明けた。こぬか雨が霧にかわり、盆地の北、小鹿野の町から登山口に向かう県道279号線に入る頃には、前を覆っていた霧が、そこかしこで白い水蒸気の塊に変わり空中に消えていく気配になった。空はまだどんよりと低い。
県道は小さな集落を縫うようにして長々と続いていた。その道も高度を上げると同時に次第に狭くなり、やがて車一台がやっと通れるほどの山道になって、退避スペースが次々に現れる。右側から山が迫り、木の葉が道の上を覆って暗い。しばらく行くと不意に空が開けて道が広くなる。左は大きく張り出した駐車場、右はコンクリートで固めた高い土止めが続く。その上方三十メートルくらいのところに建物の屋根が見えている。道は駐車場の向こうで右に折れて登り返し、建物の前で行き止まりとなる。この建物、民宿両神山荘は登山者しか泊まらないから山小屋といってもいい。深田久弥は「両神山の社務所に泊まった」と書いているが、地図で確認すると民宿の奥に神社があり、その手前が社務所になっている。とすれば、深田がここに来た頃はこの山小屋はまだない。無人の社務所を宿にする他なかったのだ。
山小屋の前の駐車場は泊まり客用なので、いったん荷物を降ろして車は下の駐車場におくことにした。僕らの他は一台もない。小屋の前のトイレのベンチに座って二日前に買ったばかりの登山靴に足を入れる。堅い感触だが地面をしっかりとつかんでいるような気がする。Yの靴も北岳から帰って点検するとソールがはげそうだったので、この際トレッキング用から本格的なスリーシーズン用に変えた。 身支度を整えて、出発。体調もいい。気分も上々。
登山道は、山小屋のうしろに迫ってくる山塊の斜面にへばりつくように左の森の中に向かっている。入り口に登山届けのポストがあるので、そこに書類を投入して暗い木立の中に入る。 午前六時、雨は上がったが曇っている。
二年前より少し早い時刻か。あのときは小屋の主人ともう一人登山客が連れ立って僕らと一緒に出発した。彼らは清滝小屋に用があると言って少し先を行く。白い中型犬が足下にまとわりついていた。どこまで行くのかと見ていると、時々僕らの方に戻ってきて一緒に歩いたりする。しばらくの間そうして行ったり来たりしながら結局は清滝小屋までついていくようであった。つい先日の読売新聞第二社会面に「『登山案内犬』ポチ、日本百名山の両神山で大活躍」という記事が載っているのを見て驚いた。あれは主人についていったのではなくて、むしろ僕らを案内していたのである。少し変わった犬だと思ったが、気に入った登山客だと頂上まで案内するというから、僕の場合は敬遠されたのかもしれない。
この日は、人の気配はない。針葉樹の林に入ると靴底を濡らす程度の流れを横切り、すぐ右に小振りの鳥居が現れ、奥に小さな祠が見える。そこから先は山の中腹に作られた幅三尺ほどの登山道を行く。右から杉山が迫り、左は鋭く落ちて底が見えない。その木立の遥か下方からは水量の多そうな沢音が登ってくる。足を踏み外せばむろん転がり落ちてただではすまない高さである。
日向大谷は標高が約650m、1.8km先の会所という分岐まで高度がほとんど変わらない。最初はむしろ下っているのではないかと思うくらいである。アップダウンの繰り返しで、攀じ登る岩が現れたり木の根が複雑に露出して歩きにくいところもあるが、おおむねよくある遊歩道のおもむきである。
「……さすがに古くから信仰登山の山だけあって、途中には碑や石像などがいくつも立っており、由緒ある名前が随所についていた。」と深田久弥が書いている通り、時々足下にかなり風化した石碑や道標らしきものも現れる。
三十分ほどで会所に着いたが、これは標準の時間。とりあえず順調である。会所は頂上に至るいくつもの尾根筋の一つである産泰尾根の付け根にあたる。日向大谷から進んできた登山道はこの尾根に突き当たって、まっすぐには進まず谷筋を選んで二手に分かれる。会所から右にいけば七滝沢という渓流を逆登り、やがて産泰尾根の上に出る。薄川沿いに登るルートは清滝小屋の上方で尾根に登りその道と合流する。一昨年のときは、七滝沢は荒れているという情報を得ていたから当然避けた。ところがあのとき僕らに追いついた十人ばかりの中高年パーティが、迷うこともなくその道を行ったので、あえてつらい思いをするのかと感心した。
会所からいったん急坂を下るとすぐに渓流が見える。その沢と合流する地点まで下りきったところで左に振り返ると、川岸に張り出すように整地された場所がありテーブルとベンチがおかれている。ここで休憩。濡れたベンチが乾き始めている。いったん休むとつい時間を忘れてしまう。
ここから清滝小屋までは約2.5kmとコース上距離が最も長い。薄川沿いに標高差600mを登ることになる。ベンチで十分ほど休んで再び歩き出す。沢沿いに進むと、ほどなく鬱蒼とした森に阻まれ、細い流れにかかった三メートルほどの木の橋を渡る。二本の丸太の間に板を張った白木の立派な橋だが、濡れて少し傾いでいるから慎重になる。渡りきると右手から迫る山の斜面を一気に登っていく。
このとき渡った沢は薄川だったと思い込んでいた。それまでは左の遥か下に薄川の沢音を聞きながら歩いてきた。その沢がもし薄川だったら対岸に渡ったのだから、今度は薄川を右に見て山は左手から迫ってくるはずだった。ところが、道は右手の斜面を駆け上がっていく。登っていくときにはこの矛盾に全く気がついていなかった。つまり、渡った沢は薄川とばかり思っていたのだが、そうではなかったのだ。どの沢を渡ったかなどは、普段なら何の問題にもならない些末なことなのだが、この勘違いがあとでパニックを呼ぶことになる。
道は、山の斜面を緩やかに上がっていく。沢音は左の遥か下に聞こえる。やがて100mほど高度を稼いだと思われるところで薄川に出会い、大きな岩にペンキで赤く書かれた矢印に従って対岸へ徒渉する。滑らないように岩を選んで、しかも買ったばかりの靴を濡らさないように慎重に渡る。ここから100mくらい進むごとにあと三回徒渉を繰り返して、川の右側に渡ると、今度は林の中の急登が始まる。このあたりが、清滝小屋への中間地点か?既に標準の時間に三十分ほど遅れている。
沢をうしろに林の中をジグザグに登っていくと登山道の脇に「八海山」と書かれた立派な柱が現れる。標柱の足下には小さな石像が祀ってあるけれど、そっちの教養はまるでないから何かはわからない。前に来たときにはここで休憩したような気もするが、由来についてはそれほど気にならなかった。「八海山」と言えば越後三山の一つとしてよく知られた山(最高峰の入道岳1,778m)で、僕も関越道を通るたびに見とれてハンドルを誤りそうになる山だが、それは関係ありそうもない。ここは修験道の山だから密教呪術に由来するものか、あるいは極楽浄土の中心、須弥山を取り巻く八山八海に関係するものか?あたりを見ても日向大谷から3.1km、頂上まで2.6kmと書かれた標識だけで、他に手がかりになるようなものは何もない。山の中に「山」とは不思議な光景である。標識には清滝小屋まで0.8kmともあって、少し元気になった。
やや緩やかになった斜面を登っていくと再び沢の音が聞こえ出した。雑木の林が右から迫り、左は沢に切れ落ちている。広葉樹の葉が黄色くなりかかって、標高千メートルを越えるここでは秋が深まりつつあった。その道がそこだけ少し濡れている場所がある。脇に「弘法之井戸」と書かれた小さな標柱があった。その柱のこじんまりとした風情に似合う細い樋から清水が流れ出している。しゃがんで手袋を取り、片手ですくって口に含む。甘露。
デジャブである。前に来たときもこうしてしゃがんだような気がする。少し違うのは、あのときは体調が悪かったせいで、かなりくたびれていた。だから顔に冷たい水をかけて気を取り直そうとしたと思う。しかし、今はもうすぐに小屋だとわかっているからすぐに立ち上がった。白藤の滝へという矢印のある道標を見送り、整備された道を登っていくと上方に屋根が見える。清滝小屋に到着した。午前十時、奇しくも一昨年と同じ時刻である。
小屋は二階建てログハウスのようなしゃれた建物で、左が宿泊施設、右が管理棟である。真ん中の出入り口に張り紙があって、この日は休みと書いていた。宿泊の棟の方は非難小屋として使ってもかまわないとあった。前庭に屋根のかかったテーブルと椅子のセットをおいた場所があり、とりあえずそこに腰掛けた。向かいのテーブルを四五人の学生が囲んで食事の準備をしていた。僕らは昼までに頂上に着いて、そこで食事にしようと思っていたから、水を補給しただけで、そそくさと小屋をあとにした。
小屋のうしろから急登が始まる。頂上まで1.8km、標高差約400mを登るのである。体が慣れてきたせいか、苦しいが順調な登りである。急斜面とはいえ、黒土で岩が少なく歩きやすい。ほどなく七滝沢から来る道と合流し、産泰尾根の上に出た。ここで、晴れていれば木立の向こうに樹木に隠れた頂上が見えるはずだった。
尾根道は次第に痩せてくる。ごつごつした岩の上を歩くことが多くなった。そしてとうとう鎖場に出会う。ここは痩せ尾根にむき出しになった大岩の上を攀じ登って越えていくという道なのだ。いかにも行者の荒行をそのまま残したという風情で、両脇は樹木で見えないが、切れ落ちていることは地形を見ればわかる。一歩目はどうにか岩に取り付いたが、それから先は手がかりも足がかりもない。身の丈の三倍はありそうな高さの大岩である。張り付くようにしてわずかな手がかりを探し足をかけ、左手でつかんだ鎖をたぐり体を持ち上げる。これまでも鎖場はずいぶん経験した。垂直に近い岩場も登ったことがある。しかし、これほど難儀な鎖場は初めてである。鎖と両手両足のうちの二つを固定する三点確保の原則を守ろうと思ってもこれが思うように行かず、両手で鎖にぶら下がるような有様である。それでも若ければ体を支えられるだろうが、横に振られて落ちそうになる。Yがうまく登れるか心配だったが、今はそれどころではない。普段使ったことのない筋肉を総動員してどうにか乗り越えられた。幸いなことに続いてYも登ってくる。
モノの本には、鎖場がいくつか現れるとあるだけで、これほどとは想像していなかった。明らかに他の山と比べても格段に困難と思った。この山の登山ルートはどれ一つとっても頂上付近にさしかかると鎖場があるらしい。特に、ちょうど反対側の八丁尾根を登ってくる道は、西岳東岳の二つの急峻な岩峰を乗り越えるあたりから頂上まで鎖場の連続だという。埼玉県でも滑落事故が最も多い山として知られているのは宜なるかなである。
さて最初の鎖場を通過すると、まもなく同じような大岩が現れ、これも修験者のごとき態でとりつき、どうにか攀じ登る。そうして、しばらく岩がゴロゴロしたやせ尾根を登っていくと、やがて大きな鳥居が現れる。その向こうに木造の建物、神社なのだが雨戸で四方を囲って拝殿も何も見えない。一対の狛犬の間を通り境内に入ると樹齢400年くらいの檜の大木が生えている。道は大木と神社を右に見て奥に進むが、すぐ隣にもう一つ小振りの建物が建っている。これもまた神社らしい。何故、二つ並んでいるのかはわからない。
僕らは、とりあえず大木と道を挟んで反対側にしつらえてあるテーブルと椅子で休憩を取った。午前11時半であった。この先時間がかかったとしても四五十分で頂上だ。ちょうどお昼、食事をどうしようかと思った。頂上は狭いと聞いていたからだ。そこで、ここまで戻ってから昼食にしようと決め、リュックの中のペットボトル三本を檜の根元に隠して出発した。
神社からは、暗い樹木の中をいったん下りるようにして進む。足下の土が崩れて歩きにくい。かなり下りたと思ったところで登り返すと、下りてきたものが「あと一息」と声をかけてくれる。道は尾根筋のすぐ下を巻くようにしてついているが、ところどころロープが張ってあり尾根には出られないようになっている。ところが間もなくその尾根のてっぺんを立派な歩きやすい比較的平坦な道が通っていることに気がついた。してみると今僕らが登っているのは、俄に思いついたような、計画性もなければ整備もされていないガタガタの道だ。どうやらこの道は、後からつけたものらしい。元々存在する立派な道をわざわざ通行止めにしている。理不尽なことだが、山の道のことだから文句のいいようもない。
さて、どうやら頂上は近いらしい。いよいよ尾根は狭くなり岩場の登りが続くと思っていたら、再び鎖場が現れる。一枚岩の大きな岩盤に取り付いて悪戦苦闘しながら攀じ登ると、次から次に同じような鎖場が登場する。ようやくその難所を乗り越えると上方から話し声が聞こえてくる。岩場を登りきると両側が切れ落ちた狭いところにテーブルとベンチがあり、若い者が二人休んでいた。そこから大きな岩が折り重なっているところを登っていくと、あっけないような幕切れであった。頂上に着いた。岩を積み上げてあるような狭い頂上である。真ん中に祠があって、それを囲むように三角点や展望を示す方向盤、標柱などがおかれている。二十人ばかりの老若男女がいた。展望はない。とりあえず、両神山の標柱を挟んで写真を撮ってもらう。十二時三十分であった。
そばにいた中年の男性が、こっちに下りて行こうか迷っているといって八丁尾根の方をさした。すると隣の若者が地図を取り出して、このルートだと示している。僕は、八丁尾根はかなりきついと聞いているといった。するともう一つルートがあったはずという。どうやらこの人はどうしても別の道を下りたいらしい。若者がそれなら白井差に下りる道だろうと指差した。ただし、その道は通れないのではないかというと中年単独行氏はウームと困った顔をしていた。僕らはそこまで聞いて、十二時四十分、頂上に別れを告げた。
白井差というのは産泰尾根の薄川を挟んで反対側の大きな尾根を下りた谷筋にある登山口である。日向大谷は両神神社の里宮があってそこを起点とするこのルートは昔からの表参道だが、白井差から登るのは距離がやや短く、昇竜の滝などの景勝地もあって、古くから人気の登山道だったという。ところが詳細はよく知らないが、この道は廃道になったらしい。というのも驚いたことに、両神山は頂上を含むこの登山道一帯が私有地だったのだ。それが昭和25年、国立公園(大幅な制限を受ける)に組み込まれることになって、地主が相続税免除を条件に承諾したのだが、どうも国が約束を破ったらしい。また、いつどんな事故があったのか知らないが訴訟にまでなったことがあったらしく、それならというので地主が道を閉ざしてしまった。私有地につき立ち入り無用というわけだ。
これらはすべてWebで得た情報だが、すでにトラブルはすべて解決したらしい。今は登山口に住む地主が新たに自力で登山道をつくったので登れるようになっている。ただし、予約届け出制で頂上往復、ストック禁止、犬禁止、危険行為禁止などの条件を課せられ、無事に帰還すると一人千円の協力金を払うことになっている。このうち『ストック禁止』さえなければ、僕らも白井差に向かっていたのに、と思わないでもない。どんなルートか二万五千分の一の地図で見ようとしてもでていない。あくまでも私道というということなのだろうが、道はあるのだから表記方法はともかく記載すべきではないか?
それにしても、さすが秩父困民党の土地柄である。政府だの県庁の役人を敵に回して一人で奮戦し、山登りのことで訴えられると受けて立つ。明治の自由民権運動を戦った気骨が今に残ると感心する。とはいえ、なんだかややこしい話である。
その込み入った事情が、頂上付近の立派な旧道とひどい新道が交差する姿に表れていると推測されるのだが、ロープで行く手を阻み倒木で邪魔をするというのはどうにも不自然で、理不尽である。人間の最も俗なところがこんなところに持ち込まれている。これも、元はと言えば木っ端役人の権力志向のなせるところかと思えば腹が立つ。というわけで、僕はロープを跨いでどんどん歩きやすい旧道に入った。Yは律儀に新道を歩いている。何とその姿は、常に僕の横を平行して移動しているのである。このばかばかしさは一体なんだ。役人に見せてやりたいが、どうせ「法」というのはそんなものだと言われるのが落ちか?
もう一つ腹が立ったのは、帰りの鎖場だった。登りの岩場では無我夢中で鎖場を攀じ登ったが、むしろ下りは取りつく島もないと言った態で時間ばかりかかった。Yは手がかりがないと言って滑り台に乗るような前向きの体勢で下りようとする。危険きわまりない。なんとかやめさせたが、途中岩に指を打ってけがをした。翌日紫色に腫上がったのであわてて病院に行ったら指の骨が欠けてどこかに飛んでいってしまったらしい、といっても指の中だろうが。ともかくこの程度ですんだからよかったものの、あの有様ではどんなけがをしても不思議ではない。
他の山ではこういう場所では、普通梯子がかかっている。ここはかけられないような地形でもない。ほんの三メートルほどの梯子で難なく越えられる岩だ。例えば北岳の八本歯のコルではもっと長い梯子が連続して出てくる。それに大概の山の鎖場は、手足だけで攀じ登ろうと思えばできなくはない。鎖はあくまでも補助的なものにすぎないのである。ここでは鎖しか頼るものがない。
修験道の山だからそれなりの厳しさを保っているなどというのならとんでもない勘違いである。この山は百名山のひとつである。初心者から経験者、若年も中高年もやってくるきわめてポピュラーな山だ。梯子を四五本かけるだけで、けがの危険を大幅に減じられるのにやろうともしない。管轄する行政機関に強く要請する。直ちに梯子をかけろ!道路特定財源で自分らの遊び道具を買うくらいなら、こっちに金を使ってもらいたい。
こうして大いに時間がかかったが、再び神社に戻ってきた。早速、隠していたペットボトルを取り出し、お湯を沸かして食事にした。 恒例の果物にパンとスープにコーヒー。その間にも頂上から何組も下りてきて目の前を通過していく。こっちは不思議に急ごうという気にならなかった。頂上まで行けたことで気分がうきうきしていたこともあった。 神社の建物の裏に回ってみたり、狛犬が妙な形だと思って写真に収めたりした。妙だというのは、顔が狐みたいに長くて、尖って犬らしくないことだ。あとで調べたら、これは狼なのだそうだ。込み入った由来があるらしい。
ぐずぐずしているうちに午後二時になった。神社を出発してまもなく鎖場を通過する。これにも手間取った。林の急斜面を下りていくが清滝小屋の屋根はなかなか見えてこない。結局、小屋まで小一時間かかってしまった。前庭に数人みえたがすぐに小屋をあとにする。弘法之井戸を通過するときにはわずかに日が射していた。
日向大谷までおよそ4km、ひたすら下りるしかない。 八海山の標識を横目で見ながらほとんど休憩なしに、とりあえず最初の徒渉個所に向かう。沢音が近づいてきた。そして道は河原に続き、大きな岩に矢印が見える。対岸に渡り沢を高く巻いて砂と岩まじりの道をしばらく行くと再び沢まで下りて徒渉する。もう一度対岸に渡る頃には日が陰ってきて、矢印が見えにくくなっていた。さらに渡り返すときには矢印を見失ってしまった。気のせいか急速に暗くなったような気がする。しかし、見上げるとまだ四時半頃の空だ。おそらく、目が悪くなったせいだろう。この春に仕事でパソコンばかり見てきたから、目の感度ががくんと衰えた。少し歩き回ってようやく矢印が見つかった。これが最後の徒渉で、この先薄川を右に見てしばらく行けば会所に着くはずだと思ってやや安堵した。沢音は右手遥か下から上がってくる。
しばらくその産泰尾根の中腹に刻まれた道を緩やかに下る。ここは同じような景色が会所まで1kmほどだらだらと続く。いずれベンチの場所に出るだろう。しかし、林の中に差し込む明かりが弱くなり、次第に日暮れの時間が近づいていた。
そろそろベンチかと思われる頃、突然道がなくなった。足下の岩の先で道がこつ然と消えている。おかしい。どこで間違えたのか。頭の中で逆にルートをたどってみたが、思い当たるところはない。果たして徒渉場所を間違えたか?俄に不安が怒濤のように襲ってきた。
Yがあそこじゃない?と下の方を指した。三十メートルほど下に白木の橋がかかっている。しかし、橋はまるで梯子のように異常に傾いていた。あんな向こうに攀じ登るような橋は見た覚えがない。しかも、もう一度沢を渡ると薄川の向こう側に出てしまう。帰るには薄川を右に見るルートでなければならない。頭がパニックになった。
Yが後ろで、あった!という。岩の上で探していた僕のうしろを指差している。振り返るとV字型に折り返して沢に下る道がついている。とりあえず半信半疑で下りていった。すると、橋は水平に近い角度でかかっている。なんのことはない、高いところから見た目の錯覚だった。しかし、既に周りの景色が見えなくなるほど暗くなっていて、見覚えのある風景かどうか確信できなくてまだ納得したわけではかった。
実は、ここで渡った沢は薄川ではなかった。薄川は僕らが最後に徒渉したあと登山道から右の方に次第に離れていった。そして、道がここにやってくる遥か以前に、ずっと右の方に流れ下っていったのである。では、この沢はなにか?
産泰尾根の向こう側の沢沿いに登るルートを七滝沢コースといって、僕らが選んだ道とは会所で別れるといったが、この最後に徒渉した沢は、その滝沢(七滝沢)だったのである。滝沢はここから少し流れ下って薄川に合流する。僕らはここでその滝沢を渡り、さらにしばらくいって右からやってくる薄川の沢音をはるか下に聞きながら下ることになるのである。
そのことにはまだ気づいていない。沢から少し登って、ようやく見たことのある道だと確信し、胸を撫で下ろした。ほどなくベンチが現れた。
ここまで緩やかな下りといっても、ブレーキをかけながらの歩行だからかなり膝に負担がかかっている。崖を落ちるような下りならとっくに膝が笑っているが、ここは傾斜が緩いから助かった。休みなく下りてきて、緊張から解かれたばかりだったのでベンチで休憩することにした。肌着は汗を発散するタイプだが、北岳で破けた上着の代わりに着た木綿のシャツは触るとぐっしょり濡れて冷たい。気温がそれほど低くなかったからよかった。喉がからからだった。水を飲むのも忘れるくらい急いで下りてきたのに気がついた。時間が気になる。五時半を少し回ったところだ。小屋から二時間半もかかってしまった。薄暗くなってきた。日が暮れるまでと登山口に着くまでと両方ともに、あと三十分だ。
まだ夕暮れの明かりは残っていたが、出発前にヘッドライトをつけることにした。僕のはLEDランプで比較的明るいが、Yのは電球式で光が赤い。僕が前を行くことにした。午後五時四十分、ベンチの場所から一気に駆け上がると会所の分岐である。標識に日向大谷まで1.8kmとあった。反対側に『山道』とあるのは多分七滝沢の方を指しているのか?わかってはいたが、そんなにあるのかとやや落胆の思いであった。ここからはアップダウンが続く。登りになるとかえってスピードが出るくらいだ。ストック二本は下り用に長くしてある。それを駕篭かきのように左右に振り出してエイホーとかけ声をかけながら歩いた。会所からいくらも行かないうちに、日が暮れてしまった。真っ暗な中をヘッドライトが照らし出す道をいく。林の影だけが目の前にボゥっと浮かんでその下に灰色の道がある。右は切れ落ちて漆黒の闇だ。月明かりもない真っ暗な夜である。
ヘッドライトは意外なほど明るい。Yのライトはなんだか弱々しかったので、僕が前を歩いて、道を照らした。ところどころ木の根が複雑に段差を作っていたり、岩が突き出しているところなどが現れると、僕のライトで照らし出して慎重に足を運んだ。そうして、おおむね順調に距離を稼いでいく。登山地図によると、この間の下りの所要時間は25分である。(登りは30分)六時過ぎには着くはずだ。
ほぼ半分くらいまで来たと思われるところで足が止まった。左側が岩壁、右の崖下から太い幹の木がのびている。足下の岩から下がすっぱりと切れ落ちている。下は真っ暗で何も見えない、えっ!こんな場所があったっけ?一瞬、道を間違えていたのかと思って戦慄した。引き返すか?いや、どこにいるのかわからないまま動いたらかえって危険だ。では野営か?と悲嘆と絶望、無力感が頭を駆け巡った。(若い頃はこういうときこそやる気が出たものだったが、俺も衰えたものだ、とは後からの言い分)
Yに道がなくなった、というと「そんなばかな」という。僕の脇から大木の横のあたりに回り込んできて、岩の下を照らしている。こっちは、こんなところで滑落事故でも起こしたらどうしようと思案しているのに、落ち着いたものだ。しゃがんで岩の下の方を覗き込んでいたYが「あった!」という。何が?「こんなところに鎖があるじゃない」えっ、今朝の登りで、この鎖場を越えたという記憶は完全に抜け落ちていた。
あらためてライトを当ててみると、確かに鎖とロープが一本下がっていた。しかし、鎖があるくらいだから岩の下はかなり落ちているはずだ。それが確認できない。それにしても、そこから続く先の道が何故見えないのか?冷静になって前方にライトを当ててみると、見えないのも道理だった。道はこの岩の下で10mばかり、ガクっと下がるとその先で左に曲がり一旦見えなくなる。次に見えるのは、もっと下の方だった。左に行った道が下りながら右に折り返し、ずっと向こうのかなり下に見えていた。道は思ったよりもはるか下方に下っていたのだ。
ともかく鎖場を下りなければならない。ようやく足がかりを見つけてそろそろと下りる。かなりの高さである。しかも岩はむきだしのまま崖下に切れ込んでいる。足を滑らせながらもなんとか下りた。次にライトで照らしてYが下りてくるのを待つ。記憶がないのはどうしたことだ、などと思いながらもとりあえずホッとした。
人は一つの対象に意識を向けたときは多分鮮明に覚えているのだが、そうでないときは全体の印象、形象を記憶しているものだ。だから、この場合のように部分だけ切り離して取り出しても記憶の全体が構成されないのだろう。やむを得ず夜になってしまったが、実に危険な体験だった。今でも思い出すと身震いする思いだ。
この後は駈けるようにして進んだ。植林したと思われる針葉樹の斜面を横切っていく。いよいよ真っ暗になった。ライトにあたる木々だけが闇に浮かぶ。いけどもいけどもこの行程はなかなか終わってくれない。 息がはずんで自然に喉から声が出るのは魔除けのつもり。やがて、周囲の植生の感じが少し変化したような気がした。林の中に広葉樹あるいは灌木のようなものが混じりだしたと思ったのだ。近い!闇がいっそう黒々としだした。ほどなく下の方に何やら小さな明かりが見えてきた。どうやら着いたらしい。鳥居と祠がどこからかもれてくる明かりに照らされてボゥっと浮かんで見える。細い水の流れを渡った。そして、暗い森の中から日向大谷の街灯の中に飛び出した。
小雨が降っていた。ほんの少し顔にかかるほどの雨だった。
午後六時二十分、約12km累計高低差2,200mを十二時間かけてとうとう踏破した。朝身支度を整えたベンチに腰掛けてしばし呆然としていた。
続く
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