『常念岳』(2,867m)に登る

1,安曇野


二十年ほど前、どんないきさつだったかすっかり忘れてしまったが、映画のシナリオを頼まれたことがあった。
確か信州安曇野にアミューズメントパークのようなものを作る計画が持ち上がって、そこで上映する映像を制作するというようなことだったかと思う。その頃、広告のための取材原稿などを書く仕事をしていたので、シノプシスくらいは書けるだろうとその話にかかわっていた友人が誘ってくれたのだ。
シナリオライターでもない僕が巻き込まれたのは、才能の問題ではなく、たとえ途中でこの話がつぶれてもギャラは発生しないという暗黙の了解からである。こっちも勤め人はとっくに辞めているし、時間は自由になったからつきあうことにしたのであった。

安曇野を主題にするという以外、これといって条件はなかった。なにしろ、遠大な構想(ほとんど忘れてしまった)は聞かされたものの、どんな「アミューズメント」になるのか具体的なことは分からなかった。とりあえず、映画監督が撮りたいと思ったものに合わせてシナリオを書くという主体性のないまま、ロケハンをするのに同行して何度か安曇野に足を運んだ。
監督は主として美しい映像を撮ることを考えていて、構成に注文をつける気配はなかったから、何か提案しなければとシナリオハンティングのつもりであちこち見て回った。
安曇野一帯を俯瞰するために犀川を渡って池田町の高台を走り、また穂高に戻って美術館や記念館や忠魂碑や遺跡などを見学した。街道沿いになんと鄙には稀な古書店(さすがは信州)を見つけていくつか資料を購入した。広大なワサビ田も見どころは多かった。その側には黒沢明が『夢』を撮影した時に作った三連の水車小屋がそのまま残されている。他にも絵になるところはいくつもあったが、しかし、それだけなら観光映画になってしまう。何か人が織りなす物語の中に、おのずから安曇野の風景が浮かび上がる映像詩のような映画になれば訪れる人にとって印象深いものになる、そう思ったのは、碌山美術館を訪れた時だった。?
石積みの小さな教会のような建物の中に、萩原守衛(碌山)の残した彫刻とデッサンが展示してあり、狭い庭にもなにか作品がおいてあったような気がする。僕は日本の近代彫刻の代表作とも言える作品『女』をいつか写真で見たことはあったが、それが新宿中村屋の相馬良(黒光)と深くかかわっていたことを知らなかった。二人の話はドラマ化されたこともあったそうで、監督もそれは承知のようだったが、おそらく安曇野の風景を描こうというこの映画と直接関係することとは思っていなかった。

明治三十年春、相馬愛蔵と良は東京牛込の教会で結婚式を挙げると愛蔵の故郷穂高に戻ってくる。愛蔵は代々庄屋をつとめた相馬家の跡継ぎである。東京専門学校(後の早稲田大学)在学中に内村鑑三らのキリスト教に強い影響を受け、故郷でも近所の若者を集めて東穂高禁酒会なるものを主宰している。良はもともと仙台藩士の娘であるが、さまざまな苦境を乗り越えて、フェリス女学校から島崎藤村や北村透谷のいる東京女学校で学んだ、当時の田舎には珍しいインテリ女性であった。その禁酒会に通って来る十代の若者たちの中に絵が上手な男の子がいた。この萩原守衛は、東京からやってきた相馬家の美貌の嫁を遠くからあこがれをもって仰ぎ見ていた。
あるとき、彼が万水(よろずい)川を背に田の畔に腰を下ろしてまだ雪を抱いている春の常念岳をスケッチしていると、後ろから『こんにちわ』と声をかけるものがいる。振り向くとえび茶のパラソルを差した相馬良であった。萩原守衛は、突然の出来事に狼狽し胸が高鳴り、頬が赤くなるのを感じた。
それが二人の出会いであった。

手がかりをつかんだ僕は、事務所の机の正面に安曇野の五万分の一の地図とその横に常念岳を含む北アルプス登山地図を貼った。それから資料集めをしているうちに、小説は参考にならないと思ったが一通り当たっておこうと、臼井吉見の『安曇野』(筑摩書房、全五巻)を手にした。
結婚した相馬愛蔵と良が上田の停車場に降り立ち、そこから保福寺峠を馬で越えて松本盆地に入るところから始まる大河小説で、作者自身がそこで生まれ育ったという安曇野の情景が生き生きと描かれている。
愛蔵は友人の井口喜源治と共に禁酒会を一種の私塾のような教育活動に発展させ、参加した若者は英語や国際情勢を学び社会制度についてあつい議論を交わした。
開巻早々、日清戦争の戦死者を弔う長い葬列が白い旗をなびかせてあぜ道を行くのを、東京専門学校を終えて故郷へ帰ってきたばかりの木下尚江が見送るという場面がある。初めての外国との戦争に勝利し、徴兵した戦争の死者を手厚く葬るという明治新政府の自信が表れている。つまりこの小説は、日本が本格的に西欧化に踏み出した時代の一地方における青春群像を追いながら、昭和の戦争そして戦後にかけての激動の時代に自身の人生を重ね合わせ、日本の近代化とは何であったかを問うたものである。僕はその面白さに目的を忘れて夢中で読みふけった。
しかし、まさかこんな大作を作るわけにはいかない。むろん依頼されているのは劇映画などではなくて、安曇野とはどんなところかを紹介する映像である。さりながら、何らかの方法で。例えば人の気配がする、あるいはナレーションかテロップを流す、いづれにしても百年前に新しい時代を迎えて自分たちのどんな未来を作るかを語り合ったその「話し声」がこの地から聞こえてくるような映像にしなければ、安曇野を描いたことにはならないと思った。

その頃、僕は人に誘われてぼちぼち丹沢辺りの山に日帰りで出かけてはいたが、三千メートルもの山に登ることなど思いも及ばなかった。あの日、安曇野を一望できる高台にたって、山すその耕地が途切れるあたりからいきなり天を衝く高さに立ち上がって黒々と続く屏風のような山並みを見ると、畏れのようなものが沸いてきて、そこに人が登ることなど考えもしなかった。重疊として連なる山の名前を同定することもできなかったが、しかし常念だけはよくわかった。頂上から左右同形に弧を描いておりてくる美しい稜線が空を切り取って他の山々とはくっきりとわけられている。
萩原守衛は画家を目ざして欧米に学んだが、外国にいていつも思い出すのは常念であったといっている。また深田久弥は、臼井吉見のエッセイにある彼の小学校時代の校長がいつも教室の窓から外を差して「常念を見よ」といっていたことを引いて「松本平から見た常念岳を知っている人にはその気持ちが分かるだろう」と書いている。(『日本百名山』)
安曇野の人々にとって常念岳は格別の山なのである。

まもなく、映像を作る話は頓挫してしまった。アミューズメントパークの計画がなくなったのだ。風景が人をはぐくみ、人が風景の中を過去から未来へ生きていく、そんな映像ができたら安曇野を訪れる人たちの旅情がいっそう深くなるのではないか。あれが相馬愛蔵の家、ここが相馬黒光と萩原碌山が出会った場所などとめぐり歩く人たちも出てくるのではないかと思ったりもした。しかし、中止になったのは内心安堵したことでもあった。
一体、安曇野の豊かな自然の中にそんなにぎやかな娯楽施設が必要だろうか?確かに観光客は格段に増えるだろう。この地方に落ちるお金もかなりのものになるはずだ。経済的に豊かにはなるだろうが、失うものも多かったのではないかと思う。安曇野の人たちは賢明だった。

僕はこの話を忘れることにした。集めた資料も今ではちりじりになった。ただ一枚、あの時机の前に貼った北アルプス登山地図だけがどういうわけか手元に残っていた。しかも、今日までその地図にあるどの山の頂上も一度も踏んだことはなかったのだ。まっさらな地図をたまに見ることはあったが、そこへ行こうという気にはならなかった。
理由は、まず東京からは遠いことであった。長い間、原則日帰り登山を続けたが、北アルプスでそれはおそらく無理だった。 それに、あれは山のベテランが行くところと思って臆するところがあった。岩峰が多くて危険。ザイルの結び方も知らない素人である。足を踏み外したらおそらく一巻の終わり。あこがれはあったが本気で行こうとは思っていなかった。
十二年前、初めてYを誘って北岳(3,193m)を登った時も下山の途中で日が暮れて道を失いビバークしたのだが、もともと日帰りのつもりだった。
仙丈ヶ岳(3,033m)のときは、どうしても北沢峠で 一泊しなければ帰れなかったので、二人用のテントと寝袋を背負って登った。また、鳳凰山の地蔵が岳(2,764m)では、頂上直下の鳳凰小屋(2,400m)にテントを張った。 本音を言えば、なにしろ山小屋へ泊るのがひたすらいやだったのだ。
初めて泊ったのは、甲斐駒ケ岳の下山時に雨にあったときである。頂上で少し降り始めて、駒津峰(2,752m)から仙水峠(2,269m)に下りてきた時は本降りになっていた。テントを担いでいたが、仙水小屋(2,130m)の前で人がくつろいでいるのを見ると途端に心が萎えてしまった。どしゃぶりの雨の中で、テントを張って食事を作ることが頭に浮かんだからだ。すでに午後五時を回っており、北沢峠につく頃にはもう暗くなり始めているだろう。この時が、初めての山小屋体験である。夕食に刺し身とスイカがついていたのには驚いた。畳二畳に三人強という具合で混みあっているわけでもなかったが、案の定物音が気になってなかなか寝つけなかった。
その後は次第にテントと寝袋が重くなって、泊まりが必要な山には行かなくなった。体力も衰えて、高い山は敬遠していたのだが、去年北岳再訪を果たしたらまだいけるという気がしてきた。この時のことは前に書いたが、時間がかかりすぎて肩の小屋に泊らなければ到底登れなかった。二十年も山へ行っていて小屋泊は二回目である。このときはさほど混んでいないこともあったが、案外平気であった。上で泊ることを前提にするならいろいろ考えられると思って、去年から折りに触れて次の山行きを検討し始めた。
関東周辺の山はあらかた登ってしまった。南アルプス南部の山は登るにも道中が長すぎる。中央アルプス空木岳もいいがきついらしい。中学生の時に登った磐梯山に行って見るのもいいか、いやそれなら安達太良山だろうなどと東北地方も考慮した。
こうしていよいよ北アルプスが候補に上がってきたのであった。行くなら中央道を走って安曇野側から登れるのがいいと思う。そこで例の登山地図を取り出して眺めてみたら、もっとも分かりやすい登山口は二つあった。安曇野から一の沢を遡行する常念岳、中房温泉から登る燕岳(2,763m)である。後者は北アルプス三大急登の一つ合戦尾根をかけ上がる健脚向けコースであまり自信がなかった。前者も、標高差約千六百メートルは広河原から登る北岳に匹敵する高い山である。とはいえやはり、北アルプスを最初に登る山は常念だろうと思ったのは、最初に書いた安曇野を駆けめぐった思い出があったからだ。燕岳の奇岩が林立する花崗岩の白ざれた頂上も魅力的だったが、あとまわしにしよう。ただ、中房温泉(1,426m)にはどんなところか行ってみたいと思った。この名を目にすると思い出すことがあるからだ。

2,中房温泉

数年前、泉康子の「ドキュメント山岳遭難捜索、いまだ下山せず!」(宝島社)を読んだ。偶然本屋で見つけたのだが、ドキュメンタリーでありながら一編の推理小説を読むような面白さであった。
昭和61年12月28日、槍ケ岳を目ざして縦走に出かけた「のらくろ岳友会」の三人のパーティが1月4日の予備日を過ぎても下山せず、遭難が懸念された。彼らは槍ケ岳の上で昭和62年元旦のご来光を仰ごうという数年来の目的を果たそうとしていた。その予定は、 次のようなものであった。
12月28日、大糸線有明駅から宮城までタクシーで入り、中房温泉を経て合戦尾根に取り付き、尾根の中間地点にある合戦小屋(2,380m)前で幕営。
翌29日には合戦小屋から燕山荘(2,680m)に登り、縦走路を南に大天井岳(2,922m)を目ざし、頂上直下の大天荘で幕営。
30日は大天井岳を登り返し頂上から喜作新道を西にたどって「ヒュッテ西岳」(2,680m)前に幕営。
翌31日は西岳(2,758m)から東鎌尾根(槍ケ岳から伸びる)にとりつき槍ケ岳に登り、槍の冬期小屋で幕営。
明けて1日、槍から南へ(穂高連峰の主稜線上にある)大喰岳(3,101m)そして南岳(3,033m)と通り、そこから主稜線を離れて横尾尾根を梓川まで下り横尾で幕営。
翌2日、梓川沿いに上高地を経て沢渡へ下山する。

こう書かれても北アルプスに不案内な人には何が何だか分からないかもしれない。北アルプスのこのあたりの山域を分かりやすく言うと、穂高岳(3,190m)から槍が岳(3,180m)につながる山脈は長野と岐阜をわける飛騨山脈の主脈であるが、上高地に流れ下る梓川を挟んで長野県側にもう一つの山脈が向かい合って走っている。それが常念山脈である。主峰は無論常念岳であるが、南から北へ蝶ケ岳(2,664m)、常念、横通岳(2,767m)、東大天井岳(2,814m)、大天井岳(最高峰)、燕岳、北燕岳(2,756)、東沢岳(2,497m)、餓鬼岳(2,647m)と稜線をたどる。この山脈と飛騨山脈の槍ケ岳をつないでいるのが、大天井岳から南西に延びている喜作新道である。喜作新道からは西岳(2,758m)に至り、槍から伸びている四つの尾根の一つ、東鎌尾根を通って槍ケ岳に登るのである。
彼らがたどろうとしているルートは、表銀座コースといって中房温泉ー燕山荘から槍ケ岳方面を目ざすもっともポピュラーな縦走路である。

三人の内二人は日産自動車、一人は本田技研の若い社員である。1月5日、ただちに「のらくろ岳友会」の仲間は捜索隊を組んで下山ルートの上高地に入ると、冬期間も開いている木村小屋に陣取った。小屋の主人は「今年の天候はくるくる変わった。三十日は晴れたがその夜から元旦まで大荒れの天気で、ベテランでも行動には迷ったかもしれない。」冬山の経験は十分あったと聞いて、「よし、まだ生きている可能性は十分ある」と捜索隊にむかって力強くいった。
木村小屋と共にその捜索の前線基地になったのが彼らの出発点である中房温泉だった。長野県警のヘリに加えて本田技研が自社の所有する双発のヘリコプターを飛ばして新雪が積もった縦走ルートをくまなく捜索する。
1月6日午前十時頃、河童橋の方から小柄な下山者が一人現れた。彼の証言によると、1月3日午前十時頃、自分が槍を目指して大喰岳(おおばみだけ)を下り始めたとき三人のパーティにあった。彼らは東鎌尾根から槍ヶ岳をやってきたと言って、大喰岳を登っていった。風雪がひどく三人の風貌については覚えていない、ということであった。このパーティが『のらくろ岳友会」の三人だったのか?
しかしその後は何の手がかりも得られずに数日がむなしく過ぎ、彼らの遭難は明らかとなった。捜索隊のメンバーたちはまもなく現地の拠点を一旦解散するが、それから遺体回収に向けて執念の捜索が始まる。
中房温泉から槍ヶ岳を目指したパーティ、逆に上高地側から槍に登って中房温泉に下山する登山届けを提出したパーティを調べ上げ、全国に飛んで証言を集める。それによると、この山域は日本海から東進してきた低気圧が居座り、彼らが出発した日からすでに気温マイナス30度、強風が吹き荒れ視界がきかない中をラッセルしながら、やっとの思いで進む状態であった。大天井岳から喜作新道に入るか否か躊躇しながら、大天荘で停滞していたパーティがいくつかあった。その先のルートは、岩に張り付いた雪が氷になっている険悪な岩峰が続くのだ。
天候の変わり目を読んで運よく槍に到達したパーティが四隊、中房へ引き返したのが七隊、常念にエスケープしたのが六パーティということがわかった。彼らの情報を突き合わせると、のらくろの三人は喜作新道へは足を踏み入れていないと推量された。ということは、彼らは燕山荘から常念岳に至る稜線上のどこかで遭難し、遺体は雪に埋もれている。
三月になって、「のらくろ岳友会」の有志が再び中房温泉に集まり、捜索を開始した。山はまだ冬山の装いである。彼らが急いだのは雪が解けて、沢に流されると岩と水にもまれてまともな姿では出てこないことが分かっていたからだ。・・・・・・
泉康子の簡潔で乾いた文体が、冬山の緊迫した様子を描き出し、その構成は刑事顔負けともいえる情報収集と推理を重ねて間然するところがない。非常に面白いドキュメンタリーであった。後半の捜索拠点となった中房温泉へ行ってみたいと思ったのは、それがあったからである。

3.一の沢

常念に登ることにして、調べたらさすがに人気のある山で、イラストマップやルートの要所要所の解説と写真が出てきて地図を作るのに苦労はまったくなかった。登山口は二つあった。まず、常念と蝶ケ岳の間から流れ落ちる本沢ぞいにある三股から前常念経由で登るルート、これは最初からかなりの急登になる。蝶ケ岳から常念山脈を縦走する起点で人気もあるというが、僕らにはたいへんそうだ。次に、常念と北隣にある横通岳の鞍部から流れる一の沢に沿って登る道。登山口から稜線の常念乗越まで約6Kmという長い道のりだが、その間の標高差が1,200m、平均斜度約11度は比較的楽である。特に最近は、からだが慣れないうちに急登になると体調が悪くなるのでそれが心配だった。一の沢林道から常念乗越までは4時間40分、そこから標高差400mの頂上往復が2時間半というのが標準時間である。(「山と渓谷社」)暗いうちに登山口に着けば、日帰りも出来そうだと思ったが、両神山のときのように下山途中で日が暮れたらえらいことになる。一の沢を遡行して常念乗越に到達したあとは、どうするか成り行き任せということにしようと考えた。

8月7日午前二時半に家を出る。途中小淵沢のあたりから降り出し、まもなく前が見えないくらいの土砂降りになってしまった。諏訪湖サービスエリアに逃げ込んで暫時休憩。再び走り出して程なく雨があがり、豊科インターを出る頃には空が白々としてきた。あとはカーナビまかせで山道を進む。
家並が途切れるあたりでようやく明るくなって周囲が見渡せるようになった。駐車場があると聞いていたが、それが見つからないままどんどん前へ行く。やがて大勢の登山者がたむろし、間にタクシーが数台停っている場所に出た。写真で見覚えの有る建物があった。そこがヒエ平の登山口とわかったが、駐車禁止である。かなり戻って駐車場を探したけれど、見つからないので仕方なく路肩の広く開いているところへ車を置いた。
?身支度をして再び登山口へ。大勢の登山者がたまっている。何台もタクシーとすれ違ったからそれを利用してここまできたのだろう。トイレを済ませ、登山補導所に登山届けを出して林道に足を踏み入れたのはちょうど午前6時であった。
最初は、ほとんど平坦で歩きやすい道である。左に一の沢の激しい水音を聴きながら、うっそうとした広葉樹の林の中を歩く。曇り空だが、空は明るい。程なく右側に人の背丈より少し高いくらいの鳥居があらわれる。山の神を祭っている小さな社で、脇に樹齢四五百年の栃の大木が立っていた。ここまで25分かかっていたが、ルートマップによると10分とある。十数人の団体一組に道を譲ったとは言え、それほどゆっくりきたわけでもない。どこか変だ。変といえば、高度計がちょうど百メートル低く表示されている。アジャストの方法を忘れてしまったからそのままいくしかしようがない。
実は、この山の神からが本格的な山道になる。とりあえず1.5km先の王滝ベンチを目ざすが、そこまでは標高差200m、平均斜度7.5程度のものである。緩やかな登りなので、次第にからだが慣れてきて、苦しさは感じない。登りのリズムをつかむと汗がシャツに染みだして、しきりに水を飲むようになる。頭を空っぽにしてひたすら歩いた。
右の斜面から下りてくる沢に短い丸太橋が架かっているところにでた、そこをわたるとすぐに道を挟んで二つのベンチがおいてある。王滝ベンチに着いたようだ。うっそうとし?た広葉樹の葉が天を覆い、足下には水たまりがいくつも出来ている。湿気が充満していて三本の丸太で作ったベンチは朽ちかけ、コケが生えていた。リュックを下ろして休憩、おにぎりを食べたが半分でいっぱいになった。ここまで、2.1kmを一時間半もかかっている。
考えてみれば、一年間ろくに運動もせず急にからだを動かしているのである。あちこちの筋肉と相談しながら無理のないように登るのだから時間がかかるのはしかたがない。自分では快調のつもりでも、実はのろのろ登っている。どうもそういう年になってしまったみたいだ。Yはもっと早く行けるのだが、歩調をあわせてくれている。
王滝からは烏帽子沢をめざす。距離700m程ほどなのに、小一時間かかってようやくたどり着いた。ここはちょうど中間地点で、常念小屋まで2.9kmと標識にある。登山口からは500mほど登ってきた。烏帽子沢は涸れ沢といっていいくらい水が少ない。しかし雨になったら、渡してある丸太の橋が役に立ちそうだ。
地図には烏帽子沢から500mも行けば笠原橋とあるが、わざわざ橋というくらいだから、さぞ頑丈に作ったものだろうと思っていた。一の沢から少し高くまいた道を行くと、周りは岳樺の林に潅木の茂みが頭上を覆って暗い。急な斜面をうつむきかげんに上っていると不意に明るいところにでて驚いた。右から流れ落ちる川幅の大きな涸れた沢である。かなり上まで一直線に延びていて、今にも石が転がり落ちてくるのでないかという高度感がある。丸太を何本か並べているところをたどって通過するが、これが笠原橋かと思うとなんだか拍子抜けした。
ところが、そこを通過してすぐに行く手を阻まむ大きな岩に対岸に向かう矢印がある。一の沢にかかった橋は、五六メートルはある比較的長い橋で手すりも何もない。さてはこれが笠原橋か? 通り過ぎたところは「笠原沢出会い」だったらしい。
対岸にわたって、しばらく沢水で靴底を洗うような道を行って、再び徒渉して斜面を高巻くように登っていく。胸突き八丁に至るまでは、登ってきた斜度と変わらないのでペースは同じだった。このあたりになると、電車でやってきた団体の登山者が僕らに追いついて来る。それが後ろにつながるたびに、何度か道を譲った。皆一様に中高年のグループで、半分は女性である。あのスピードでは、よほど山慣れた人たちなのだろう。後ろに迫られるとせかされているようで、つい立ち止まってしまう。これが時間を要する原因だとYは責めるが、僕にはいい休憩になっている。せかされてペースを乱されたら、必ずどこかに負担がかかる。
道が一旦沢まで下って、登り返すところに胸突き八丁の標識があった。ペースが遅いのと休憩が多いのが重なって、ここまで倍近い時間がかかっていた。標高1,900m、頂上あたりに雲がかかっているものの、常念の山体が見えてきた。時々日差しが強くなる。腕の皮膚が赤くなり始めていたが、上空の雲がとれる気配はなかった。
胸突き八丁は、崖に刻まれた細い道である。はしごやロープが何度も出てくる上に、人がすれ違うのもままならない狭いところがいくつもある。転落事故が多発するこのコース中最大の難所だ。しかも、「最後の水場」まで標高差約300m、これまでの倍の勾配を一気に登っていく。
足下を見ると五、六十メートル下に一の沢が流れ下っている。足を踏み外したらけがではすまない高さで、緊張感が走る。この間にも続々と登山者が現れ、追い越していった。幸いだったのは、下りてくるものが少なく危険なすれ違いがあまりなかったことだ。しかし一方で、初めて出くわしたきつい勾配に息が切れ、しばしば立ち止まってしまう。こういう場合は無心で登ることだ。雑念が浮かぶとそれが疲労を倍加させる。
やがて沢音が近づいくると、不意に空が開け一の沢の河原にでる。河原といってもごろごろした石が積み重なっているだけで、 源流に近いここでは水量はだいぶ少なくなっている。とは言え、この高さでこれほどまでの水量があるとは意外であった。千曲川の源流近く(甲武信岳)では、岩の上をなめるような水量しかなかったが、ここでは石の下を水音も高くしぶきをあげて流れ落ちていた。「最後の水場」に到達した。
胸突き八丁を登りきった安心からか大勢が石の上に腰を下ろしていた。遥か下にゆっくりと動いている人影が小さく見える。ここまで約1,000mの高度差を登ってきたことになる。残り200mだ。僕らも、最後の一踏ん張りのために休憩した。恒例の果物の入れ物をとりだしてほうばる。前日Yが買い出しにいって、一口大に切っておいてくれたもの。スイカ、ぶどう、桃、メロン、梨、オレンジといったところだ。水分と甘味補給だが、気分がさわやかになるのも効用のひとつである。
対岸に渡る手前に樋が一本引かれていて、そこから落ちる水が、道中最後の水であった。空になったペットボトルを満たして出発する。
今回は、かなり詳しい地図を作ったので気分的にずいぶん助かった。二万五千分の一の地図を拡大して一の沢部分を切り取り、イラストレーターA4版のファイルに貼り付けると、通過点の要所と高度、距離、時間、それに注意事項を書き込んだ。プリントアウトしてジッパー付きのビニール袋にいれ、二つ折りにしてウエストポーチに突っ込んであるからいつでも取り出せる。次の目標と大体の地形がわかるので、一歩一歩着実に進んでいる気がするのだ。自分が今どこにいるか知っていれば、それ以上の安心はない。
最後の水場から常念小屋へはあと800mである。ここも斜度20度を超える急勾配で、道はジグザグに登っている。程なく第一のベンチが道の脇に現れる。細い丸太を三本並べただけで、Yが言わなければ気付かずにいたかもしれない。第二のベンチ、第三のベンチと等間隔で現れ、最後のベンチからは小屋まで300mである。僕にとってはここが一番きつかった。ひざとふくらはぎの筋肉がかなり疲労して、痛みを感じていた。しかし、あとほんの少しで稜線にでる。どのくらいがまんしたら?そのとき、300mなら歩幅で数えることが出来る、と気がついた。一歩を50cmとして百歩で50m。それが二回で100m。百歩づつ数えていく。するとあと何メートルかがわかる。
そうして数えながら登っていくと、頭の中の300mに達しないうちに左の斜面に植物が無くなり、常念の頂上に続く斜面が全容を現した。二人の老人が砂地に座っているのが、潅木の間から見える。そこから五、六歩歩いたところでなにもない広々としたところに飛び出した。午後0時50分、常念乗越に到達。6時間50分は、少し不思議な気がする、途中では完全に二倍の時間がかかっていたのだ。

4.常念乗越と常念小屋

ベージュの丸石がしかれた広大な広場の真ん中に、三方をさす方向指示板が少し傾いてぽつんと立っている。左は常念頂上に続く広い斜面で、ジグザグに登っていく登山者が小さく見える。遥か上方、曇り空に突き出している岩峰はまだ八合目で、真の頂上はその奥に隠れていると聞いていた。右手は横通岳だけに続く稜線で這松の緑が濃い。目で追っていくといくつかピークがあったが、大天井岳まで見えるかどうか上方には薄い雲がかかって確認できなかった。
正面に常念小屋の赤い屋根が少しだけ見える。この小屋は、常念乗越のピークよりも向こう側に少し下ったところに立てられているのだ。それは、ここが風の通り道だからである。三千メートルを少し欠く高さで連なる常念山脈を、西側の槍ケ岳からみると、常念頂上から400m下り横通岳に350mほど登り返す鞍部だけが半円形に切れ落ちている。風は、年中ビル風のようにこの低い通り道に集まってくるのだ。冬の季節風のすさまじさは想像を超えるものがある。西側の雪はほとんどが吹き飛ばされ、東側の一の沢などは十メートルを越える積雪になるという。風は、常念乗越にある一切のものを吹き飛ばして広々とした空間を作った。
そこから少し下った小屋の周りとテント場はシラビソなどの緑に囲まれている。左側の手前に二三本の岳樺の木があったが、なんとこれは風になびくように完全に横になっている。奇妙な光景であるが、それでも生きようとする姿は感動的でさえある。今日は風もなく、向こう側の谷から上には厚い雲があって、そこにどんな景色があるのか想像もつかなかった。
小屋の入り口は階段の下にある。足を下ろそうとすると痛くて曲げられない。腰が弱ってふらふらするので、手前におかれているテーブルと一緒になったベンチに座り込んで動けなくなった。隣では、早くも缶ビールを飲んでいる中年男三人がくつろいでいる。とりあえず僕らは最後の水場で汲んできた水を沸かし、コーヒーをいれた。ハムとチーズにレタスでサンドイッチを作り、目玉焼きにソーセージという昼食を終える頃、にわかに日が影ってぽつぽつと降ってきた。頂上を目ざすのはもう明日にしよう。
階段をそろそろと下りて小屋の前に立つと入り口の上に「90周年」の看板がでている。先代、山田利一によって建てられたのが大正八年(1919年)、燕山荘と共に北アルプスでもっとも古い小屋のひとつである。深田久弥は、「三年おくれて私はその小屋に泊った。」と書いている。「小屋には二晩泊ったのでその様子は今も記憶にある。広いただの一部屋で、その隅の方で小屋番が炊事をしていた。」
それが今では収容人数三百人、ピーク時は四百人が押し掛けるという発展ぶりである。僕らが申し込んだ時は、午後二時頃だったからそれほど混み合ってはいなかった。二階に上がると廊下を挟んで、小部屋がいくつも並んでいる。25番という部屋には入れということだったので、部屋の前にある靴箱のまわりに荷物を置いて三尺あまりの引き戸を開けると六畳間であった。Yは定員九人だといわれたらしい。敷布団と寝袋がいくつか畳んで置いてある。正面の二重サッシの窓からはまばらに針葉樹が見えるだけで、深いガスが覆っていた。僕らは出入りのことを考えて、手前の壁際に敷布団を二枚敷いて、入り口に足を向けるように寝床を作った。ふと、窓の外に目をやるとサッシのおかげで音はしなかったが、土砂降りの雨になっていた。
夕飯は6時半からということだったので、一寝入りしようと横になる。疲れもあったのでウトウトしていたが、三時を過ぎたら騒々しくなってきた。グループ登山のご一行様が到着する時間帯である。
そのうちに僕らに続く第二番目の客が入ってきた。中年の夫婦で二人とも痩身、細君の方は背が高い。部屋を見渡して「あなた、どうしようか?どっちを頭にする?」とかしきりに迷った揚げ句、僕らの横に敷布団を引くと平行に寝床を作った。。何か妙な了見を起こしてポリフォームパズルのような敷き方をしたら困ると思っていたが、理性的な判断をしてくれて安堵した。細君の声ははっきりしているが、亭主の方はぼそぼそとおとなしい。そのうちに二人ともどこかに出ていってしまった。
それからまもなく第三番目の客、男女一組が現れた。男性の方は、年のころ四十才台後半、背は低いが太いがっしりとした胴体の上に、岩のような大きな禿頭がのっている。色黒の顔に太い眉とぎょろ目、はっきりした顔立ちで陰惨ではないが残念なことに愛敬に欠ける。女性の方は三十前後?細身で色白、背は男と同じくらいでからだは半分である。雰囲気からどうやら夫婦でないことはわかる。小声で寝床をどうするか相談していたが、すぐに決まった。余っている空間は奥の壁際しかないから僕らと平行に作るしかない。
かくてこの六畳間は男女三組が、畳み四枚分相当の壁際に枕を並べて寝ることになった。
寝床を作るとすぐに「私、着替える」と女が言い出した。「○○さんはどうするの?」とか何とかいっている。男はくぐもった声でもごもご言っているが聞こえない。一体この二人の関係はどうなっているのだろう。
男は、困惑しているようだったが、そのうちにごそごそ衣擦れの音がするからそっと覗くと、二人供立ち上がって、男が風呂敷のようなもので女の首から下を覆っている。中で下着を着替えしているらしい。してみると、リュックに山小屋用の着替えを詰め込んで運んできたものだろう。汗まみれのからだに新しい下着を付けてどうしようというのか。 着の身着のままで横になっている僕はそれが常識かと思っていたが、近ごろの山小屋は寝巻き持参に変わったらしい。当節、むさくるしい山男など流行らないのだろう。そのうちに「風呂があったらもっといいのに」などと言い出しかねない様子である。出て行こうとするのを横目で見たら、部屋着のようなものを着ている。ホテルにでも来たつもりなのか?
二人が出ていっている間に、第四番目の客がやってきた。六十才台の夫婦で、亭主は大柄の赤ら顔、細君は地味な顔立ちで背が低い。先客が壁際を占拠しているのを見て、途端に亭主は不機嫌になった。入り口に仁王立ちになって、部屋中をねめ回しながら腕を組み動かない。細君が「どう敷いたらいい?」と聞いても「ああ、うーむ」と生返事。なにしろ入り口から奥まで幅二尺ほどの細長い空間しか残っていないのだから、どう考えても二人は縦になって寝るしかない。細君が余っている空間に二枚の布団を敷くとちょうどぴったりおさまった。「これでいいでしょう?」というと、黙って見ていた亭主が「ふん」と鼻を鳴らして不満そうである。
細君が奥の方に陣取ったのを見て取ると、亭主がいきなり入り口の方に頭を置いてあおむけになった。まだ夜には早い。部屋の連中はなんだかんだやることがあるから盛んに出入りしている。その出入り口のど真ん中に、赤ら顔のとても小さいとは言えない頭がでんとあるのははなはだ迷惑である。細君が「あなた、頭をこっちにしたら」と小声で言うが、寝たふりをして動こうとしない。
これは嫌みなのだ。自分が今日この山小屋で、必ずしも快適とは言えない環境に置かれたのは、先客であるお前達のせいである。しょうがないから我慢してやるが、かわりに顔と頭で出入り口を塞いでやるから少しは気を使え!という怒りのメッセージなのである。彼は、出入りするものの裾が巻き起こす風や埃をかぶるとか、他の客の足が自分の顔を踏んづけるリスクよりも怒りの表現の方をとったのだ。何と云う憤怒。何と云う蛮勇。僕としてはここは一つ、夜中にトイレに立つ折りにでも踏みつけてやらねばなるまいと思って、内心ほくそ笑んでいた。

三番目の客の若い女が、時々サッシ窓についた露を指で拭いて外の雨を確かめているのは目に入っていた。四番目の亭主が軽いいびきを立てて寝始めたと思った頃である。若い女が、突然窓をがらりと開けて「何、あれ?」といっている。太い男の方はあいにく不在。雨は上がっていた。ひょっとしたらと飛び起きて窓に駆け寄った。水蒸気がもやもやとあちこちで一塊になって消えていく。そのもやもやの向こうに黒々とした三角形が浮かび上がっている。「槍だ!」と思わず叫んでしまった。虚をついて大きい。若い女が「ええ?あれ、槍ケ岳ですか?」と驚いている。確かにこれほど大きく見えるとは思っていなかったのだろう。?
常念乗越から見る槍の写真はもっと遠くにもっと小さく写っている。いうまでもなく、山脈の全貌を見せようとして焦点距離の短いレンズで撮影しているからだ。大概の山岳写真は、実際にその場に行って見ると傾斜にしても大きさや存在感にしてもずいぶん違う印象に見えるものだが、そのあたりに平面として風景を切り取る写真の限界あるいは難しさがあるのだろう。
槍の向こうの空にはおぼろな夕日があって、次第に?明るくなっていく気配である。晴れる!と直感して、僕はYを誘って外へ出た。
石はすっかり乾いていて雨の痕跡はどこにもなかった。谷に固まっていた雲がどんどん消えていく。なんと、あれだけ痛んだひざも腰もまったく自由に動かせるではないか。普段と同じ、この回復力には実に驚いた。
横通岳の方に少し登るとかなり展望が得られる。
槍ケ岳から左に稜線をたどると、南岳の辺りに?カールが見え、そこからややあって、いわゆる大キレットのくぼみから荒々しく立ち上がる北穂高がある。涸沢カールを挟んで奥穂までは見えるが、常念の裾で遮られて穂高の全容を見ることは出来なかった。大キレットの間からは、遥か遠くに笠ケ岳の優美な姿が独立峰のように見えている。
しばらく歩き回って景色を楽しんでいるうちに夕食の時間が近づいてきた。
部屋には戻らずに直接食堂に入った。五十人ほどがテーブルについている。小屋の若い衆から口上があって90周年記念のお酒が猪口に一杯、振る舞われた。分厚く切った煮豚が三枚、それが主菜の食事で見かけに似あわず十分満足できた。
さっさと寝た方がいいと思って部屋に戻ったら、なんと入り口に足がある。むろん四番目の亭主の足だ。怒りが収まったのか、閉口したのかともかく宗旨替えしてくれたのは有り難かった。
寝袋に潜り込んだが、暑くて寝られない。いくら8月でも山の夜だからこんなに暑いわけがない。暖房の効き過ぎだろう。と思ってがまんしていたら、第三番目の若い女が外へ出ようと立った。引き戸が開かない。何かが引っかかったらしい。ひょっとしたら僕らのストックかもしれないとピンと来た。責任を感じて飛び起きると、うるさいのは承知で引き戸を外しにかかった。案の定ストックがつっかえ棒になっている。Yも起きだして、外れかかった戸のすき間から手を伸ばしてストックを取り除いた。二人がかりで責任を果たしてほっとした。一件落着だが、こっちはもう寝る気は無い。からだを冷やそうと部屋を出て、玄関から外の様子をのぞくと、ガスが入口まで漂っている。山の夜の景色は格別のものだが、うーむ残念。実に残念だった。
食堂の前にテーブルと長イスが並んだ休憩所のようなところがあって、二三人がたむろしてビールなどを飲んでいる。その外にはテント泊の人が利用できる水道、テーブルなどがあって、喫煙者が何人かいるようだった。テレビがついているのでなんとはなしに見ていると、そのうちにどんどん人がいなくなって、僕だけになった。側の本棚に写真集やら、常念に関する本があるのに気付いて手に取ったが、明かりが弱くて長く読んでいられない。九時を回るとテレビも消された。いよいよ寝るしかなくなった。
部屋に戻ると、四番目の亭主の寝袋がはだけていて、パンツが丸見えである。やれやれ、いやなものを見せられた。あとで聞いたらYもあきれたと云って笑っていた。標高2,400mの山の上にいると云う緊張感がまるでない。僕らは、山小屋泊りはこれで三度目に過ぎないからどんなルールになっているのかよくは知らないが、パンツ一丁で寝るのはどんなものか?

5.頂上

寝所に入ったらまもなく寝入ったらしいが、突然大きな話し声で起こされた。向かいの部屋の連中がどうやら出発の支度をしている。午前三時であった。そうかその手があった、と思った。ご来光のことである。寝ぼけた頭が急速にはっきりしてくる。Yも起きていた。「これから登ろう」というと、すぐに同意した。朝食の八時まで間に合えば大丈夫ということだった。
荷物は小屋において頂上を往復することにしていたので、Yが小さなバックパックを用意していた。僕は、ペットボトル一本だけ持って登るから気が楽である。玄関にでてみると気温はそれほど低くないが、少し風があるので、用心のためにゴアテックスの雨具の上だけを羽織ることにした。フリースを持ってでるほどのことはない。
この七月北海道の山で起きた遭難事故だが、聞くところによると、気温が低く激しい風雨の中を長時間歩いたらしい。ほんとかどうか信じられないことに、レインコートはビニール製の粗末なものだったという。僕らは、夏山でもフリースが必要なほどの寒さを経験しているから、ずいぶん用心深くなっている。
午前三時半真っ暗な中、曇り空の下をヘッドランプの明かりでルートを探しながら出発した。ごろごろした岩の中につけられたジグザグの道を登っていく。見上げると先行している人たちの明かりがきらきら瞬いている。ガスはないが雲が低く、時々湿った風が頬にあたった。 これでは、ご来光は期待できないだろう。
足場はガレているとはいえ踏み跡を追えば難儀なところはない。しかし、標高差400m斜度は約24度と一の沢の胸突き八丁から上部に匹敵する急勾配である。持ち上げるものは自分のからだだけだが、それが思うように動かない。時々休んで下を見るとランプの光が続々と登ってくる。小屋の赤い屋根が小さくなって、かなりの高度感である。
200m程登った辺りで空が白々としてきた。ここまでのぼると常念乗越から見える見かけ上のピークがかなり近くなってくる。とりあえず、あそこまでと思うが遅々として進まない。何組にも追い越されて、そこへたどり着くと、大きな岩に八合目の文字が書かれていた。標高2,750m地点、残り100mを登る。ここまで来て初めて頂上を含む常念岳の稜線が明らかになる。頂上は、正面やや右の大岩が突起のように積み重なったところで、道はそこから左へ回り込むようについている。勾配がやや緩やかになったので、スピードを上げる。(つもりになっただけ?)
午前6時、岩の間を抜けて頂上に到達した。晴れていれば正面に穂高連峰、そして槍に続く山並みがあったはずだ。南側の細い稜線を下降して蝶ケ岳へ向かう道が途中で雲に隠れている。東のやや下方には這松がまるで芝生でも敷いたようにみえる前常念岳(2,661m)の広い頂があって、その向こうは急な谷に切れ落ちたように黒々と消えている。あの先に三股の登山口があるのだろう。
記念写真を撮って、早々に頂上を引き上げた。意外に時間がかかったから朝食にありつくためには急がなければならない。しかし、行動食は昨日のおにぎりの残りとあめ玉のようなものだったから、急速に体力が消耗して来ていた。寝不足もあったのだろう、200m程下りたところで吐き気が始まった。次第に勾配が緩くなるので、何とかごまかしながら午前八時に十分ほど前、ようやく小屋にたどりついた。
朝食は僕らだけだった。しかし、食欲がまったくない。食べたら吐くのではないかと心配した。頭がもうろうとしているのは、急に起きたせいに違いない。しかし、これから一の沢の約6kmを下山しなければならない。この調子では途中でおかしくなる。そう思って、みそ汁から少しづつ食べ始めると気分は劇的に変わった。身体は正直なものである。鮎の甘露煮は少し残ったのでYにお願いしたが、ご飯は完食できた。
しかし、まだ眠気がとれないので、ほんの少し休もうと25番の部屋にいって見ると、若い男が掃除をしているところだった。ちょっとのあいだ横になりたいと云ったら掃除中と取りつく島もない。向かいの部屋は誰もいないので、そっちにしようと思ったが「具合が悪いなら診療所へ行ってください」と断固拒否する態度である。玄関を出て右に行くと夏の間だけ信州大学医学部が臨時の診療所を開いている。医者にかかるほどの状態でないことは、見たら分かりそうなものだが、この手の若い男は生まれつき物分かりが悪い。誰に迷惑をかけると言うのか。片隅で横になるだけのことを拒絶するもっともな理由を相手が欲している、ということに気付かない。つまり空気が読めない。こういう手合は、押し問答でもしようものなら突然切れるタイプである。ばからしいから無駄な抵抗はやめた。
テレビのあるところに戻って、幅30cm程もないベンチにかろうじて仰向けになった。そのままじっとしていると、身体も頭も微睡んだ状態になる。陽が射しているから、雲がとれているかもしれないなどと思いながらウトウトしていたら、梓川の谷の方からヘリコプターの爆音が近づいてきた。小屋の真上でしばらくホバリングしているので、飛び出して見てみたいと思いながら、身体が動かない。そのうちに安曇野の方面へ遠ざかっていった。ややしばらくあって、再びヘリがやってきた。その大音響にも身体は反応しなかった。
そうして三十分も横になっていたら、すっかり回復した。身支度をしていよいよ帰路につく。頭上は晴れていたが、谷には雲がいっぱいで何も見えない。残念だが山の天気はままならないものだ。

6.下山

午前十時少し前に、常念乗越から一の沢を目ざしてシラビソの緑の中に身を乗り入れた。
胸突き八丁まで降りてくると、続々と団体が登ってくる。すれ違うのがやっとの狭い道で交錯するのには閉口した。朝一番でのぼり始めるとちょうど今ごろここに達するので、運が悪かった。ようやく胸突き八丁を抜け出すとあとは勾配が緩やかになる。
笠原橋でお昼になったので、橋の手前の小さな沢が流れ込んでいる平坦なところを選んで、昼食にした。コーヒーとチーズ、カップ麺だけの簡単な食事である。あとからやってきた中高年男女四五人のグループが、橋の向こう側に陣取っておにぎりを食べはじめた。僕らが盛大?にお湯を沸かしてカップ麺なぞを食べているので、しきりにこっちを見ていた。食事は温かいに限る。
日差しが強い。小一時間休んで再び出発。その時手袋がないのに気付いた。薄い革の手袋でずいぶん昔から使ってきたものだが、探しても見つからない。大岩の上に置いた気もするが、どこに忘れたものやら。
橋を渡ってすぐに「笠原沢出会い」の丸石が堆積した涸れ沢を越える。ここに大勢の大学生らしい若者が腰を下ろして休んでいた。女性もちらほら交じっている。大きなやかんを持っている若者に聞いたら、常念乗越でキャンプするものと小屋に泊るものが半々だという。それにしてもやかんを持って山登りとは面白い。あれをぶら下げて縦走するのだろうか。
そこから中間地点の烏帽子沢まではすぐである。そろそろ膝にきていたのはいつものことだが、今度はかなり腰が痛い。笠原橋でも腰に負担がきていることはわかっていた。烏帽子沢を越えた辺りで、ようやく気がついた。ストックの長さが短いのだ。下りの場合は長めに調節する。足の位置よりも下にストックの先がいくので当たり前のことなのだが、これが短いと前のめりになって腰が曲がる。腰に負担がくるのは当然のことであった。ストックを思いっきり長くしてみたら、背筋が伸びて腰が楽になった。
それでも、どんどん追い越された。常念小屋からタクシーの予約をいれる人たちもいるので、約束した時間に間に合わせようと急いでいることもある。中にはまるで走っているような速さで下っていく若いものもいた。中高年女性でも速い人がいる。単独行で山慣れた人だろう。この辺では傾斜も緩いので、むしろ僕らの方が遅すぎるのである。
王滝ベンチで休憩。午後二時を回ったところだ。登山口まで2.1kmである。陽が陰ってきて、道はやや暗くなった。所々ぬかるんだ道を緩やかに下っていく。ここで、例の歩幅を数えて距離を測る方法をやってみることにした。数えている間は無心でいられるから焦りも感じない。300m、500m、1kmと数えて、最初に戻る。途中踏み跡を間違えて薮の中に入り込んで困っていたら、他の登山者の頭が下を通りすぎていくので助かった。この時手袋のない手のひらを傷つけてしまう。
1kmと数えてまもなく意外にも「山の神」が現れた。実際の距離はもっとあったらしい。あとは残り500m、道はほとんど平坦になった。
午後四時少し前、登山口に到着。こうして常念岳登山、北アルプス初訪問は終わった。

下山後、かねて予定の公共の温泉施設「ほりでーゆ〜四季の郷」に向かった。