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「だるまさんがころんだ」

初演(2004年)が評判を呼んだというのは聞いていたが、地雷の話だとは知らなかった。地雷で手足を吹き飛ばされたものを「だるま」といっているらしいが、あまり趣味のいい喩えとは思えない。
「だるまさんがころんだ」というのはきっぱり十音で数を数えるにはちょうどいい、ということで子供たちの遊びになっている。鬼が向こうを向いて「だるまさんがころんだ」と十数えているすきに鬼の方に近づくが、すこしでも動いているところを見とがめられるとアウトで、鬼と手をつなげなくてはならない。これをくりかえして、鬼から数珠つなぎになっている連中のそばにできるだけ近づこうとする。そのあげく、うまく手の鎖を断ち切ることができればそこから先につながっているものは再び自由を得て、四方に散ることになる。僕らの年代くらいでは、このように書くのももどかしくなるほど誰でも知っている遊びである。ついでにいえば、これとおなじように近所の子供が集まってするゲームには、缶蹴り、手つなぎ鬼、馬乗りなどがあって、夕方暗くなるまで遊んだものだ。(なつかしいなあ)
この「だるまさんがころんだ」と地雷で手足をなくした「だるま」状態が結びつくとは思っても見ないことであった。この距離、「地雷」と「子供の遊戯」の間を埋めていくのが、いくつかの寸劇で、この劇ではバラバラの短いエピソードを連ねて一つの概念に収斂させていくという坂手洋二の得意とする作劇手法を採用している。これは前に見た「屋根裏」と同じ構造である(劇評)。僕はその劇評を次のように締めくくった。
「・・・このように書きながら、かつての神田カルチェラタンの女闘士(木幡和枝=芸大教授のこと)の胸がざわめいたことは容易に想像が出来る。それが時代ではないかといわれれば否定は出来ないが、ではその先は?という問いには、とりあえず立ちすくむしかないのが僕らの『時代』でもある。
このようにして坂手洋二もまた苛立っている。
ナレーターは客席の前に立って独り言のようにつぶやく。「かつてポーランドで何百万人も虐殺されたユダヤ人が、いまパレスチナで大勢を殺している。」
引きこもる若者にとってなんの関心もないことである。その言葉が、目の前の狭い空間に届くことはない。しかし、坂手はあえてこのような台詞を書かざるを得ないと考えている。
坂手は屋根裏にこの社会全体を押し込めてこれが我々の時代だと見せようとした。それには成功したと思えるのだが、ではどのように告発するかという点で迷いがあった。
終盤の冗長さはこの手探りがこうじたものである。
もとより正解など無い。
それはそれでかまわないと思うが、振り上げた拳を頭上にかざしながら、幕が下りたという感じがした。」
これでわかるように坂手洋二は時代と格闘している。正確に言えば、実際は「格闘している」ように見えると言った方がいいかもしれない。その出発が、山崎哲の「転移21」にあったという背景を置いてみれば、坂手の関心が奈辺にあるかはだいたいわかると言っていい。ただ、山崎哲が「事件」とは社会の病巣が発する異常な表現とみて、徹頭徹尾その病因(社会悪)を追求しようとするのに対して、坂手はそんな顕微鏡でのぞくような方法で対象を捉えようとはしない。主題を常に国境(「チェックポイント黒点島」)やゲリラ(「上演されなかった三人姉妹」)国際テロ(「WTC」)公害問題(「民衆の敵」=イプセン作)など大きな社会問題にとっていることからわかるように、自分の役割は演劇を持って社会に参加することだと思っている。かつてジャン=ポール・サルトルが措定した問題「飢えた子供の前で文学は有効か?」という問いに演劇の立場から真摯に回答しようとしているのだ。今日の若手の演劇活動家にしてはリベラル左派(人を色分けするのは気が引けるがわかりやすく言えば)という珍しく貴重な存在ということができる。
問題は、(また比較で恐縮だが)山崎哲が「事件」を社会のせいにして犯人を擁護しているとか個人的な状況を社会全体に拡大解釈するとかの反論や批判をものともせず、「事件」を演劇にすることを通して社会のあり方を問うことで一貫しているのに対して、坂手は、しばしば立場がぶれることである。ぶれないまでも迷ったあげくに迷ったまま投げ出すことである。
「屋根裏」は僕らを取り巻く状況をよく捉えていた。関連のない短いエピソードの一つ一つがやがて一つのイメージに収斂して、その光芒が放つ「俺たちの時代はこういうものではなかったか?」という問いかけが胸に迫ってきた。
地雷の「だるま」から「だるまさんがころんだ」に至る坂手洋二のイメージの連鎖はいったいどこに収斂していくのか?そしてそれは成功したのであろうか?
地雷を踏むものがいれば、それを作るものがいる。日本の地雷製造会社に勤める実直なサラリーマンである彼(鴨川てんし)は一家の主でありよき父である。自分が作った爆弾で足を吹き飛ばされるものがいようとそんなことには思いが及ばない。その父を娘は尊敬している。小さな悩みはあっても幸福な家族である。
いつのまにか地雷原に踏み込んでしまった二人の自衛隊員は、あれこれ踏まない理屈をこねながらそこを越えようとする。越えられるかそれとも運悪く踏んでしまって一巻の終わり、かと思えばそれではすまない。地雷は膝から下を吹き飛ばすくらいの威力で、命まで奪うものではないからだ。ゲームのような逃避行が延々と続く。
突然尺八の音とともにやくざの一家が登場する。敵対する組の攻撃をかわす最大の武器は殴り込みができないように地雷で住処を囲うことだと気づいた親分、組長(川中健次郎)は子分どもに急いで地雷を手に入れてくるように命令を下す。子分どもはどこで地雷が手に入るかわからず、途方にくれながらもともかく探すたびに出る。
その旅の途中で出会ったいい女(宮島千栄)にちょっかいをかけると、何やらうまくいきそうな気配。ところが、この女、服を脱がそうとするとなんと腕は機械仕掛け、足は義足、身体のあちこちが金属とプラスティックでできている。最近膝から下がマシンガンという女が出てくる映画の予告編を見たが、同じような発想か?実は、地雷撤去に命をかけるうち、死に対峙する高揚感に中毒してしまったらしい満身創痍のボランティアであった。
当然と言えば当然だが、死の商人すなわち地雷を商売とする男たち(ED VASSALLO、杉山英之)も登場する。箱に入った商品を荷分けする姿には武器を売っているという気配は全くない。ただの行商人が必要なところに商品を供給しているという乾いた風景があるばかりである。
地雷が大好物といった巨大トカゲが出てくる。全米国大統領クリントンが登場したり、NYセントラルパークに仕掛けられた地雷の話が出てくる。
他にもエピソードはあったと思うが、坂手が繰り出す挿話はなんだか同じことの繰り返しのようなイメージに見えた。しかも辻褄を合わせるために饒舌になるから、よけいに長く感じられて最後はやや閉口気味であった。(この点では「屋根裏」と同じ)
そして、最後は出演者全員で「だるまさんがころんだ」ごっこになるのだが、いったいこれは何の喩えなのか?
地雷で手足をもがれた状態が「だるま」だからその語呂合わせのつもり?それとも地雷の話をルル語ってきて、作者自身がどうしたらいいかお手上げ状態だからちょっとした冗談のつもり?こういう話の後を締めくくるにしては、今の言葉で言えば、最悪にダサイやりかたであった。坂手の感覚にはしばしばこういうセンスのなさが感じられるが、「だるまさんがころんだ」はその典型とも言うべきものになった。
地雷をシリアスなものとして芝居にしたら面白くもないものになるのは理解できる。いっそ笑い飛ばしてやろうというのもわかる。しかし、「地雷」を生み出して悲劇を繰り返す人間の愚かしさを告発するつもりがあるなら、こういうはぐらかしはやめにしたほうがいい。
この最後がなければ、きらりと光るエピソードがいくつか含まれていて、複数の新聞評通りの評価をしてもいいと考えたが、このとってつけたような筋悪(囲碁用語で「置かれた石の形が悪い」)のエピローグで台無しになってしまった。複数の新聞評とはパンフレットに取り上げてある宣伝文句に書かれたものである。
いわく。「社会性と娯楽性を両立させた快作」(読売)「アクチュアルなメッセージを、坂手は鋭い笑いとともに示す」(毎日)「坂手と燐光群の新しい収穫」(朝日)「同時代の事件を芝居に取り込むのは「いま、ここ」を描く演劇の宿命」(日経)
読売の「娯楽性」はその言葉の意味を取り違えている。ここに「笑い」はあるがその笑いはこわばっている。そこには「娯楽性」というべきくつろいだ気分は露程もない。地雷という緊張感が一貫して流れているところで、観客にはその余裕がないことを考えてみるべきである。毎日の「鋭い笑い」がそのニュアンスをうまく表現している。
僕としては、暴力団の組長が屋敷を地雷で囲んだら敵も容易に攻めてこないと考えて、子分どもに地雷を探してこいと命じるエピソードは、発想がユニークで面白いと思った。女のサイボーグの話も、あの状況では意表をついていて少々驚いた。地雷を製造する会社の社員がそれがどう使われるか一顧だにしないというのも不気味な話である。
それぞれ面白いと思う挿話はあったが、いったい坂手はこの劇を何に収斂させようとしたのか?それは未だに謎である。
この芝居のパンフレットには「関連事項用語集」と題した記事が掲載されている。All about Mines とも言うべき解説が事細かに載っている。それを読むとなんだか既にどこかでお目にかかったような記事なのである。思い出したのは、ジョディ・ウイリアムズ女史のことである。
彼女はオタワ条約(対人地雷全面禁止条約)成立の立役者で1997年のノーベル平和賞受賞者(所属するNPOも対象)である。この前年オタワで国際会議が行われたあたりから、対人地雷のことはしばしば話題になった。女性のリーダーシップのもとに国際条約が結ばれようとしていることでも注目されTVも新聞も取り上げた。被害の実態もドキュメンタリー映像が何度も流されるなど広く知られるようになっていた。十年ほど前のことであるが、このとき得た知識の大半がそのパンフレットの記事にあった。
現在では120以上の国がこの条約を批准していると聞いているが、問題は中国、ロシア、米国などの大国はじめ40カ国ほどが締結していないということである。ただし、以前の野放しという状況からははるかに改善されている。日本も最初は渋っていたが、自衛隊が所有していた在庫分は処分され、訓練用にわずかの数が残っているのみである、反面、条約締結国ではない地域紛争や民族紛争におけるゲリラ戦で使用されるなど制御不能な状況になっていることも、条約の有効性にとっては問題である。
つまり限られた地域の非正規軍(ゲリラ)が一個4〜5ドルで買える武器を使用したがるのは自然の成り行きで、それを監視するのはむずかしい。しかも製造している大国が存在するというのではどうにも歯がゆい状態だというのである。
さて、こういう状況の中で「地雷」とはなにかと言えば、それは既に「イメージ」ではなくて「リアリティ」だということである。政治的解決に踏み出した現実の課題なのだ。日経の評に「同時代の事件を芝居に取り込むのは「いま、ここ」を描く演劇の宿命」とあるが、その意味ではこの劇は確かに演劇が社会参加をするということの好例であろう。
では坂手洋二は、この「地雷問題」をどうしたいと思っているのか?全面禁止などは夢みたいな話だと揶揄しているのか?つまり人間は愚かな生き物だと絶望して見せているのか?それとも中国やロシア米国に条約締結を迫って製造全面禁止にしたいのか?
何度も言うが今日的な「地雷問題」とはどんな「イメージ」も吹き飛ばすほどの「チョー現実的」な問題なのである。

それを「だるまさんがころんだ」などという遊びでごましてしまった。なぜ「地雷」に関する大国の思惑を告発するという方向へ向かわなかったのか。こんなに明瞭に問題の在処が見えているというのに。
山崎哲は、誰がなんと言おうと、人間というものは社会の中にいて社会と相互関係を持って生きていると考えているから、ある人間のある状況は他の人間を取り囲んでいる状況と関連しているのだと確信している。だから一つの事件を仔細に眺め、この社会に普遍的な課題を発見したときにそれを物語る。その位置からは動かない。
これに反して、坂手洋二は、自分の確固たる立ち位置をまだ確保していない。だから「屋根裏」のような、社会をある「イメージ」に収斂させようとする劇は一定の成功を生むが、「リアル」な社会問題を扱うときにはとたんに態度に落ち着きがなくなる。ああいえば、こういわれるのではないか?あっちを立てればこっちに嫌われる、などと心配している風がみえる。どこに立つべきかわからないのは、結局世界認識の甘さに原因がある。
もうひとついえば、イプセンの「民衆の敵」、こんどのドイツ自然主義のハウプトマン作「ローゼ・ベルント」など百年前の社会派劇をとりあげて現代に対する問題提起とするなどという感覚は実に「筋悪」な選択である。こんなもののどこに「リアリティ」があるものか。ベルリンの壁の撤去、ソ連の崩壊とは、それらの時代が「止揚」されたという意味なのである。「止揚」とはもはや地続きではないということである。次元が違うということである。そんなものを持ち出してももはやどんな「リアリティ」もなければ魅力もない。こんなもをまじめにやるなんてむしろ滑稽に見える。こういう歴史感覚の「鈍さ」も坂手の欠点であると指摘しておこう。

 

 

 

題名:

だるまさんがころんだ

観劇日:

2008/03/21

劇場:

笹塚ファクトリー

主催:

燐光群

期間:

2008年2月20日〜3月31日

作:

坂手洋二

演出:

坂手洋二

美術:

じょん万次郎

照明:

竹林功 

衣装:

大野典子

音楽・音響:

島猛

出演者:

中山マリ 川中健次郎 猪熊恒和 大西孝洋 鴨川てんし 宮島千栄 江口敦子 樋尾麻衣子 向井孝成 秋葉ヨリエ 杉山英之 小金井篤 阿諏訪麻子 安仁屋美峰 伊勢谷能宣 嚴樫佑介 西川大輔 吉成淳一 武山尚史 鈴木陽介 ED VASSALLO 

 

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