題名:

春、忍び難きを

観劇日:

05/5/13

劇場:

俳優座劇場

主催:

 俳優座    

期間:

2005年5月5日〜5月16日

作:

斎藤憐

演出:

佐藤信

美術:

佐藤信     

照明:

黒尾芳昭    

衣装:

若生 昌

音楽・音響:

田村悳

出演者:

松野健一 河原崎次郎 森一 武正忠明 渡辺聡 関口晴雄 齋藤淳 脇田康弘 川口敦子 早野ゆかり 井上薫 小飯塚貴世江 美苗
 


「春、忍び難きを」

終戦直後、信州松本在の地主一家の話である。
進駐軍の農地改革によって、何百年も続いた地主と小作農の関係が変わった。革命的と言っていいが、農業の地位が今のようになっては革命だとは誰も言わない。土地の所有を巡ってこのようなドラスティックな変容を遂げたのは日本ぐらいのものだ。他の国は、とりわけアジアはこれが出来ないからいまでも困っている。
地主は先祖が拓いた、或いは買った土地を二束三文で小作農にやるのは口惜しい。その話が主軸には違いないが、斉藤憐はこの時代におきていたあらゆる出来事を歴史学者の様な手つきで拾い上げ、登場人物それぞれに配置して「権力というもの」を告発しようとする。
学者のようだと皮肉ったのは、取り上げた話がいかにも類型的で総花的であり、今さら教科書みたいな戦後史をみせられても一緒になって怒る気にならないということだ。
望月多聞(松野健一)は、里山辺村の庄屋で戦時中は村長をしていた。次第に明らかになるが、戦時中は本土決戦を覚悟した帝国陸軍の要請でこの地に地下軍需工場建設を容認、多数の朝鮮人、中国人労働者を「強制的に連行」して従事させた。劣悪な環境のため朝鮮人7人が土手の上のバラックで病死した。この時日本人の給料が16円で彼らは7円しか貰っていない、とよく調べてある。
三男、三郎(脇田康弘)が戦地から帰還する。応召する前は左翼思想にかぶれて当局から目をつけられていたが、帰ってみると百姓などやめて東京で一旗揚げようという魂胆に変っている。ソビエト軍がソ満国境を越えると自分たち関東軍は特別列車を仕立ててさっさと帰ってきたが、民間人を置き去りするとはひどいことをしたものだ、と三郎のせりふに権力批判を込める。
次男、二郎は南方からまだ帰ってこない。結婚して5日目に入営したが、その妻よし江(井上薫)が同居して、姑のサヨ(川口敦子)多聞の姉、出戻りのトメ(美苗)とともに家事や田畑の世話をしている。トメは子どもが出来なかったために婚家をだされた。斉藤憐のフェミニズムが顔をのぞかせている。
葛西芳孝(森一)は多聞の長女、清子の夫で大学教授である。「国のために命を捧げるのが学生の本分」という思想を公言して煽ったことで公職追放にあい、中央から隠れて妻の実家に居候を決め込んでいる。
長男太郎(武正忠明)は「朝鮮半島の地図に黒く印がつけられるくらい広大な山林」を所有する会社の経営者で、京城に千坪余の屋敷を構え二十人の女中に囲まれて暮らしていた。その全てをおいて、子どもと妻佐和子(早野ゆかり)の一家で引き上げてくる。家督は既に次男が継ぐと決めてあり、太郎に百姓をやる気はさらさら無いからトラブルはないが、こうなっては親の財産分与をあてにする以外に無い。
多聞の村長時代、役場の兵事係だった上条誠作(河原崎次郎)が時々出入りしている。小作農の二木房吉(渡辺聡)が昭和初年から三度も戦地に招集されたのは、上条のせいだと責めるが、あれは陸軍が決めること自分は赤紙を発行して届けるだけの役割だったという。房吉は農耕馬を飼っていて、馬喰としての才もあったため馬とともに戦地に赴いた。一家の働き手と動力を失って田畑は荒れ、家はますます貧しくなったと嘆く。
「青紙」というものがあったのは知らなかった。馬を徴用する令状である。金は払った。ただし相場の半額程度だったらしい。百五十万枚発行されて一頭も帰還しなかったと斉藤憐は怒っている。
この話には後日譚があって、上条の前で多聞が房吉に真実を明かす。「いくら陸軍でも、お前が馬を持っていて、扱いになれていることなど知るはずが無えだ。」房吉は愕然とする。こう言うことがはっきりといわれたことはなかったと記憶する。あの当時、赤紙は村役場の兵事係のさじ加減だったと知られたら、ただではすまされなかったろう。
望月の家には若い無口な作男、朴潤久(斉藤淳)がいる。近郊の鉄道工事にやって来ていた朝鮮人の子どもで、孤児になったのをかわいそうだとサヨが引き取って育てた。植民地問題が影を落としている。
サヨは戦時中満州に花嫁を紹介し送り込む事業に協力していた。しかし、まもなく終戦とともに夫と離れ離れになって引き上げてきた娘も少なくない。その中にすえ(小飯塚貴世江)がいた。すえは美ケ原の開拓地に入植する。開墾にふさわしい土地が与えられるはずもない。標高千二百メートルの水も乏しい荒れ地では農業は難しい。すえは何かとサヨのもとへ相談にやって来ていた。
僕の生まれた町でも引き揚げ者の開拓地は河岸段丘の上の台地で開墾しても陸稲を作るのが精一杯だった。肥たごは天秤にして二つを担ぐものだが、一個を二人でようやく運んだ教師上がりの夫婦がいたという。腰がふらついて、肥たごが溢れそうなその姿がおかしかったと子どもの頃だれかに聞いた記憶がある。
満蒙開拓団と花嫁、引き揚げ者の痩せた辺鄙な土地への入植、国策であった。
二郎がいよいよ戻らないとなって、葬式を出すことになる。骨も何もない。妻のよし江はこれを機に実家に戻るというが、三郎と「直して」家を継がせるという思惑から多聞もサヨも残れという。三郎もその気があった。すでによし江が誘って体の関係もあった。戦死した兄嫁と弟の結婚など、今ならとんでもない人権無視といわれそうだが、こんなことに文句を言うものはいなかった。(斉藤憐は、ヒドイ話でしょう?といいたげだが。)
三郎はしばらく百姓仕事をやっていたが、ヤミで儲けることを覚えてから農家を継ぐのはばかばかしいと思いはじめる。ついに、決心して身支度を整え、密かに家を出ようとよし江を誘うが、躊躇しているところを母親に見とがめられる。よし江は「おらがいなくて、この秋の麦は誰が蒔くだ。」といって一緒に行くことを拒んだ。三郎は独りで東京に出ていく。
ある日、挙動の怪しい男が家の様子を窺っている。聞けば戦場で二郎と一緒だったという。この幸田(関口晴雄)と名のる少尉は、二郎の最後の様子を伝えに来たというのである。葛西芳孝元教授を認めると最敬礼して「自分は先生の思想に共鳴、学徒出陣にあたり国のために命を捧げるのが学生の本分と覚悟し、心の安寧を得て戦地に赴きました。」と礼を言う。葛西にしてみれば今さら思い出したくない傷に触れられて困惑するばかりである。幸田はもっと話を聞かせて欲しいという家族の誘いに食い物の心配もいらないとすっかり居候を決め込んでしまう。幸田はよし江を手伝ってよく働いた。
そんなときひょっこり三郎が東京からやってくる。化学肥料を農家に売りに来たのだ。しきりに幸田の存在を気にしているが、商売の方が大事らしい。化学肥料だの農薬だのを農民に押し付けたことが斉藤憐には気に入らないようだ。
このころ戦争未亡人のところへ戦友と名のって近づき、悪いことをするものがいた。
多聞たちがよし江に幸田を婿として妻合わせるのもひとつの方法だと思いはじめていた矢先、役場の上条が飛び込んできて、二郎の戦死した場所は違うと告げる。とんでもない詐欺師だという声をきいて幸田は消えてしまう。
太郎一家は東京に勤め口を見つけて去っており、もはや家を継ぐものはいなくなった。
逆上した多聞は、このうえは自分の子を生ませる他無いとよし江に襲いかかるが、ここで脳溢血の発作が起きる。
婦人参政権が布かれて最初の選挙、サヨは文字の練習をしている。貧農の出であるサヨは字が書けない。サヨのようやく書いた仮名文字タカクラテルは日本共産党の女性候補者の名だった。・・・やれやれである。
終幕、男達は誰もいなくなり、サヨは「また戦争、起こらないかなあ。」と長嘆息する。無論、空襲など知らない農村の光景に重ねなければ理解できない台詞である。
たしかに男共は百姓を捨てて、みんな都会へ出ていってしまった。戦時中の外国人「拉致」強制労働があったとすれば明治憲法下だろうが有罪に違いない。学徒兵を煽った今思えばとんでもない曲学阿世の教育者もいた。満州に開拓団をおくって、花嫁を斡旋したのも事実である。ブラジル移民にも同じことをした。植民地で広大な山林を私有して大きな商いをしたものもいただろう。
斉藤憐は、「世紀末のカーニバル」(04年2月)で、80年前に始まったブラジル移民は日本国の「棄民」だったといった。その延長で言えば、この劇のエピソードのひとつひとつは国が犯した間違いとして告発されなければならない。告発するのはかまわないが、あれから既に60年が過ぎている。「棄民」だって棄てられて80年、今やブラジル経済に無くてはならない地位を築いて80万人の日系人が暮らしている。戦後60年も短い歳月とは言えない。
今ある親殺し子殺し、DV、引きこもり、年少者の殺人、食料自給率の低さ等々の問題の原点が「・・・堪え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」のあの時代、「天皇が戦争責任をとらなかった」ことにあると言い張るのはいくら何でも無理だろう。とりわけ農村を痛めつけたことに、日本が工業化社会を作ったことに原因があるという議論には言葉を失う。
こう言う狭量で頑固なおじさんがいわゆる「環境屋」になったり勘違いの「人権屋」に組みしたがるのだ。
ならば、別の選択肢や有効なモデルを示せといって、探してみても婦人参政権のところで日本共産党の「タカクラテル」なるものが見つかるだけで、これではやれやれと苦笑するしかない。
少し品のない言い方だが、斉藤憐もヤキがまわってきたなあ。
「ミレナ」(02年/10月)もつきあった演出の佐藤信もこれでよしとしているなら「黒テント」の名が泣いている。
評論家の大笹吉雄が劇評で書いているのもそういうことだろう。
「これまでにも俳優座に作品を提供したことのある斉藤はともかく、アンチ新劇を唱えていた運動に深く関わっていた佐藤が一枚かんだのには、時の流れを感ずる。あれはなんだったのかという思いがよぎらないでもないが・・・」(朝日新聞夕刊5/11)
とはいえ大笹は褒めている。「・・・ことに斉藤の戯曲が緊張感のうちにもユーモアをたたえた秀作である。」
ただ「ここから伝わってくるのは、農業を切り捨てた我が国の選択とその結果に対する異議申し立てだが、歴史問題を一因とする近隣国の反日デモを見る昨今、ことに近代史に疎いといわれる若い世代に一見を勧める。」と妙な褒め方である。これでは歴史の教科書にはなるぞ、といっているだけだ。その「異議申し立て」の有効性を論ずるのが劇評ではないのかね。ようするに大笹はうまく逃げたのである。
「秀作」と言われるが、同じテーマを井上ひさしの芝居でいやというほど見てきた僕のようなものにとっては、いくら斉藤憐の自伝的な話しとは言え、エピソードの取り上げ方、描き方が「いかにも」という感じがして、今どきの言葉で言えば「くさい」。役者が出てきて様子を見ただけで何が言いたいか先が読めるというものだ。
大笹が言わないから、僕が代わりに論評しよう。
斉藤の言いたい「異議申し立て」はとっくに時効が切れている。
日本は戦後農業政策を誤ったかもしれないし、所得倍増も間違った政策だったかもしれないが、そういう議論の射程は長く見積もっても80年代までだ。
今ある問題は、あの時代に起因すると強弁したところでなんの解決にもならない。
あえていえば、現在日本の社会でおきている様々の事件や社会問題は、日本固有のものではない。少し視点を引いてながめると先進諸国に共通する社会病理に根ざしているように見えてくる。つまり、社会システムとしての資本主義が制御不能の段階に達したために、「想定」していなかった問題が噴出してきたと見るべきである。
農業について言えば、確かに食糧帝国主義の様なことは理論上ありうる。井上ひさしが「日本の米を守ろう」「美しい水田の風景を子孫に残そう」と叫んだとき、吉本隆明は「あの馬鹿者が」と吐き捨てるようにいったらしいが、食糧生産のグローバル化、分業化はもはや避けられない。日本の米を守るならむしろ、ブランド米は世界でも高く売れると「発見」したように、マーケティング戦略を考えるべきだ。(例えば「ボジョレヌーボー」はボルドーなど質の高いブランドに対抗するために産地が仕組んだ戦略である。)
斉藤憐にはぜひこう言う視点で日本の農業を考え直してほしいものだ。
もっとも、今となってはあの望月家も後継者に悩んだように、専業農家は1%程度にまで落ち込んだ。こう言う現実を前にすると斉藤さんのいっていることがいかにもせんないことに見えてくる。やれやれだ。
二郎の嫁よし江をやった井上薫が適役と思った。きらきらと輝く眼が印象に残った。始めから同じ調子なのにどんどん大きくなっていく川口敦子の存在感はさすが。松野健一、森一はややトゥマッチ。佐藤信が何故途中何度も仮面を付けた民族舞踊を挿入したのか理解に苦しんだ。
こう言うことをやるから、大笹吉雄は「秀作」というが、僕なら「しゅう」の字に他の文字をあてたくなる。
   

       (5/19/05)


 


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