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「片づけたい女たち」

初演の時(2004年1月)とはまったく印象が変った。本はいじっていないしスタッフに入れ替えもないと思うが、演出が変っただけで実にすっきりとした。書いた本人が演出すると、思い入れの強いところや心配なところに余計な力がはいって、かえってバランスが悪くなることはあるものらしい。木野花演出は他に見た記憶はないが、あらためてその力量に感心した。(学生時代、同じキャンパスを歩いていたはずだが、僕らの劇団には目もくれなかったらしい。)
幕が開くと、客席から「おぅ」と言う驚きの声が上がる。いくつかの衣類の山、雑誌新聞、ゴミ袋、食器や飲み物の容器などが所狭しとあふれ返っている。カウンター式のキッチンが少しこじゃれた感じのするマンションの一室だが、ガラス戸越しに見えるベランダにもゴミ袋がうずたかく積まれていて、まるで物置の状態である。人のいる気配はない。
そこにドアホンがなって、二人の女がはいってくる。オチョビ(松金よね子)とバツミ(田岡美也子)。この部屋の主、ツンコ(岡本麗)とは高校時代のバスケット部の仲間である。この二人は、ツンコを誘って忘年会をやろうとやってきたのだ。ところがツンコの姿はない。部屋の様子に圧倒されて、これは近頃明らかにされた精神障害の一種に違いないなどと話している。
今は忘れかけているかもしれないが、初演当時はこれが話題になっていた。その時の僕の劇評から引いて紹介しよう。
 「サリ・ソルデンという人が書いた『片づけられない女たち』という本が全米でベストセラーになった。自分の部屋を片づけることができず、ゴミの中に埋もれるようにして暮らす女性について、その原因が本人のだらしない性格にあるのではなく、神経系の障害である可能性を示唆するという内容のようだ。この障害はADD(注意欠陥障害)と呼ばれるもので、子どもの頃から兆候があっても、大人になるまで気づかないことが少なくないという。この障害は、さらに、散らかす、なくす、忘れるといった特有の症状をもっていて、それらが社会的に期待される女性像とのギャップが大きいために、特に女性において目立つという特徴をもっている。」(comment/kataduke.html)
とは言ってもこの芝居がその精神障害をテーマにしようというわけではない。
互いに五十歳を過ぎて、残りの人生のことを考えなくてはならない歳になった。そのためにはここらで来し方を振り返り、人生を整理しておく必要がある、つまり一時的に『片づけたい』と思っている、そういう女たちの話なのだ。
バツミの夫はかなり年かさの宝石商で、子供はいない。商売に陰りも出てきたので今のうちにプチ整形でもして、もう一花咲かせようなどと考えている。オチョビは高校を卒業してまもなく「場末の」食堂に嫁いで一生懸命働いてきたが、近頃では嫁に立場を脅かされるどころか邪魔にされて、いっそ楽隠居でもと考えながらそれも業腹と思っている。一方、ツンコは、会社勤めが長く、最近昇進を巡って気苦労があったばかりらしい。私生活でも独身を通してきたが、先頃同棲していた年下の男がこのマンションをでていったばかりである。
劇は、ツンコが奥の部屋から起き出てきて、二人が片づけを手伝いながら交わされる会話で進行する。
初演の時の印象では、あまりに無秩序に散らかっているために片づけるといってもどう手を付けたらいいか分からないといった様子に見えた。しかし、今度の演出ではどのようにしてこの雑多なゴミの山が出来たのか、その過程を前に遡ることが出来るような気がするほど「山」が論理的に出来ていた。だから、オチョビとバツミが「ここはペットボトル、この箱には雑誌、この袋は燃えるゴミ・・・」とやっていくと実際に片づきはじめるような気がするので、見ている方はなんだか安心出来るのである。
もっとも変ったと感じた点といえば、高校時代の話をするところだ。バスケット部での出来事は三人の関係の言わば原点であり、もっとも濃密な時間を共有した思い出深い過去である。跳び箱の裏でひそひそ話をしたことや顧問教師のセクハラまがいの行為、同期生が最近なくなったことなどが話題に上る。ここが、全体にあっさりとして流れていく感じなのだ。永井演出は、ここをことさらのように強調して、三人の女性が、高校時代に立ち返って、あたかもあの日にいるような場面を作り出す勢いで描いた。どんな劇でも、「思い出」を現在の時制で語る場合は、いかにリアリティを表現するか緊張を強いられる。劇にあっては、現在という嘘の上にその現在からさらに嘘である過去を本当のように語ることになるからだ。とりわけ永井はそれを自分で書いた。どのようにしたら本当にあった話らしく見せられるか?おのずから力がはいるのである。するとそこだけ妙に目立って不自然に強調された感じになる。僕らは三十年以上前の出来事を当時の仲間と実際にどう語るだろうか?いやそういう問題でもない。前後の関係や全体のバランスからどう描くかが演出の感覚と手腕に関わるのだが、ここを木野花は絶妙なさりげなさで片づけてしまった。そのために過去は過去として、むしろこの劇のテーマである彼女たちが置かれている現在の方が強調されて見えるという結果になったということである。
さらに、最後のミステリアスな電話の場面も少しあっさりしていたのではないかと思う。ただし、こちらのほうは判断が分かれるかもしれない。
ツンコは自分の昇進を巡って少し後ろめたいものを感じている。前の女性課長は上司の言わばいじめにあってやめている。ツンコにはそれを庇わなかった負い目があった。そして一ヶ月ほど前に「あなたが何をしているか分かっている」と言うメモ書きがドアに挟まれるということがあった。ツンコはてっきりやめた女性課長がやってきたものと思って、たびたびかかってくる電話が恐怖で容易に出られないでいる。最後は「なあんだ」といってガックリ来るような落ちがあるのだが、ここもツンコのいう「いきさつ」を強調しておいて、落とす方が面白みは増すところかも知れない。ところが、この話も、劇の外の出来事である。さすがに永井愛の本はよく書かれていると思うが、やりすぎるとツンコの恐怖が始めから「考え過ぎ」と分かってしまう。ここを木野花はあまり山を高くしないで、極く普通のことのようにやり過ごした。こうすることによって、五十歳を越えた独身のキャリアウーマンの寄る辺無い姿、ちょっとしたきっかけで生まれる僅かな恐れ、片づけたいと思っても整理のつかないこだわりなどがむしろ浮かび上がってくる。木野花はそう判断したのではなかろうか。
このように、初演の時とはかなり違った印象に見えたのだが、総じて言えば、この再演のほうがはるかに整理されて、テーマがすっきりと頭にはいる。つまり、初演の時にとっ散らかっていたものが片づいている。永井愛の本もしっかりと生かされていると思った。
話の流れやこの劇の感想は、初演の時の劇評を読み返したが、大要はなにも修正することはないと思ったので、興味のある方は参照して欲しい。ただ一つ再演するなら検討して欲しいと書いていたので、そこのところには言及しておかねばならないだろう。僕は次のように書いている。
「この芝居はツンコの家を舞台にしているから彼女を中心に展開するのは当然のことである。ところが、グループる・ぱるは3人で一組だから、そのバランスはとっておきたいというのが永井愛の工夫だったであろう。ツンコには目の前の現実と会社の人事を巡る具体的な問題があるが、その分オチョビとバツミの人生の見せ方が難しくなる。食堂のおかみはともかく宝飾商の妻というあいまいな存在でよかったかどうか少し疑問が残るところだ。五十代を迎えて人生の折り返し地点に立った三人三様を見せようとしたら、これまでも客演を頼んできたように、あと何人か補強する必要があったかもしれない。しかし、この芝居は登場人物をグループる・ぱるの三人だけと決めてかかっていたようで、それならば、再演を通じてもう少し充実させ、バランスさせるべきであろう。」
この点でも木野花演出は気配りがあった。本は変えずに宝石商の妻も、食堂のおかみもくっきりと輪郭が出るように造作をはっきりさせた。これで、登場人物が増えたらかえってバランスが崩れそうである。初演の時の僕の杞憂は撤回することにする。
この劇が再演で実際、永井愛の傑作戯曲の一つになったと思うのは、そのよいところを引き出した木野花の力があったからだといっても過言ではない。

 

 

題名:

片づけたい女たち

観劇日:

07/11/2

劇場:

シアタートラム

主催:

グループ る・ばる 

期間:

2007年10月27日〜11月4日

作:

永井 愛 

演出:

木野 花 

美術:

大田創 

照明:

中川隆一 

衣装:

竹原典子 

音楽・音響:

原島正治

出演者:

松金よね子 岡本麗 田岡美也子

 

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