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「人間合格」

1992年の初演は見ていないが、98年の再演と03年の再々演を見ている。(03年の劇評) 演出もその他のスタッフも同じ、出演者は違っているが、誰が演じようと役柄が変わるような芝居ではない。それなのにそれぞれ違った印象に感じるのは、いうまでもなくこちらの気持ちのありようが変わっているからだ。
98年の時(渡辺いっけい、辻萬長、清水明彦、近石真介、中村たつ、あめくみちこ)は、記憶も薄れているが、どろどろした人間関係を描いていなくてよかったと思ったはずだ。再々演の時(大高洋夫、 梨本謙次郎、松田洋治、すまけい、梅沢昌代、旗島伸子)は、学生時代に過ごしたというだけでなくもっと複雑な事情でナーバスになっていた弘前が気になって、あれこれ思い出しながら見ていた。エピローグで夜半、若い勤労者が数人、おでんの屋台にやって来る。突っ伏して寝ているマントをまとった人物の後ろ姿に屋台のおやじのせりふが重なり、やがて川の流れる水音が高くなって、舞台は闇に溶け込んでいく。「あなたは十分生きた。一生懸命人間らしく生きたではないか。」という井上ひさしの声が聞こえてくるようであった。果たして、幕が下りると開幕の時には「人間失格」と書かれていたタイトル文字の「失」の部分が「合」の文字に差し替えられていた。
今度の場合は、少し事情が違って、大宰の評伝劇としてこれでいいのだろうかという思いが浮かんだ。前回見たときは余計な人間関係には触れないで人情喜劇のような仕上がりで安心したと思ったが、それとは正反対の印象だったというわけである。
というのも、今年の確か一月ごろだったと思うが、偶然加藤典洋の「大宰と井伏、二つの戦後」(2007年、講談社)という比較的短い(といっても200ページ)エセーを読んで、大宰に対する興味が再び頭をもたげたということによる。
加藤典洋は90年代初めに「敗戦後論」を書いて論壇にデビューすると、彼の日本の戦後をどう認識するかという議論に右派からもリベラル左派からも批判が集まって幅広い論争を巻き起こしている。アジアの大東亜戦争における死者に対して「謝罪」する「日本人」の主体が見えないという見解に対して右派が、また、憲法は日本人が選択し直すべきという見解に対して左派が異を唱えたのである。
僕はこの論争があったことをうかつにも数年前に知り、同世代である加藤の考えが、結論はともかく論の建て方に新規性があると感じて興味を持った。そこで、アマゾンに関連書籍を注文して遅まきながら跡をたどってみたのだが、戦時中の時局への抵抗と言う点で石橋湛山など少数のものが体制内にいながら毅然として思うところを発言したことを評価し、逆に反体制を表明して獄につながれたものは発言の機会すら奪われて何の役にも立たなかったと批判をするところなど、そのようなプラグマティックな見方はこれまでにあまり聞かれなかったことで、言われてみればなるほどと思えるところでもあった。しかし、このような「戦後とは何か」という議論も「失われた十年」を通過し、論争から十五年以上たったいまとなっては、古色蒼然の感がないわけではない。何よりも議論の遠景となっているアジアの景色が一変しているからだ。ここは詳細を説明する場ではないから関連する事だけ述べるが、この論文は、戦前と戦後がその間に価値の転換などなかった、まるで地続きであるかのような精神状態でいられた作家は太宰治以外に見当たらないということを重要なモチーフに語られている。当然大宰の作品のいくつかに言及している。
このことは、「津軽」を読んだときに僕自身も感じたことであるが、加藤のような戦後論に引用できる類いのこととは考えなかった。この作品は、太宰の生まれ故郷津軽について、とりわけ年老いて実家に帰っているかつての乳母を竜飛岬の村に訪ねる紀行文である。僕はこの何の飾りっけもない、自然な語り口の文章が太宰の中では最も好ましいといまでも感じている。作家の素直な気持ちが現れていて読後の清涼感は他に類を見ない。しばらくして、この作品が昭和十九年の作と知って僕は少なからず驚いた。そこには敗色が濃くなっていく戦争も、息苦しくなっていく世相も「世間」というものが何一つ感じられなかった。本州の北端の寒村に当時どんな形で戦争が影を落としていたかを考慮に入れても、である。僕はむしろ、だから太宰はだめなんだと、そのとき感じたように思う。
既にそれよりも以前、少年の頃代表作のいくつかは読んだが、作家の生き方を知るにつけ太宰治は女々しい奴ときめつけて、あとは避けてきた。女学校の文芸部などというところには必ず何人かの熱狂的なファンがいて、まるで信心でもしているような態度も気にくわなかった。いまでもそういう気持ちにはなれないが、桜桃忌がにぎわうことを理解出来ないわけでもない。
太宰の死後その墓の前で自死した「オリンポスの果実」の田中英光は極端としても、僕の周辺でも太宰ファンはいた。
中高と一緒だった越後暁彦はどちらかと言えば社会評論を得意としていたが、入学したばかりの年の横浜国大新聞の懸賞論文に応募して入選なしの佳作として掲載された論文の主題が漱石であった。この越後が翌年かわいい女の子を連れて弘前の日本画家の住む家の二階を改造した僕のアパートを訪れた。夏休みで主がいなくなるこの部屋を拠点に、ふたりで太宰の足跡を訪ねるということであった。当時の僕のすみかの向かいには、大正時代にたった旧制弘前高等学校理科の二階建て木造校舎があった。木立の中を右に行くとやはり木造一部れんが造りの文科の校舎があって、そこはまぎれもなく若き日の太宰治こと津島修治が三年間学んだ建物である。太宰を訪ねる旅の拠点としては絶好の場所であった。ちなみにこの木造校舎は教養部を終えた学部の学生のための教室と教授の居室になっていた。文学科六十人が国文、英文、独文、国史、東洋史学、西洋史学、哲学などと細かく分かれるので、専攻するものが四五人しかいない哲学はこの校舎の十坪はありそうな教授の居室で授業を行った。時代物のリノリウムの油臭いにおいがただよっている薄暗い廊下を通って授業に通った。他に、独立した瓦屋根の建物が隣接しており、これは昔の映画にでも出てきそうな典型的な木造の階段教室であった。大学を封鎖して誰も来ないのをいいことに、この階段教室を占拠して僕らは劇場にしてしまった。手すりをのこぎりで切ったり、天井に穴をあけたり勝手し放題に改造して劇を上演した。
ともかく越後は、太宰治の気配を感じながら金木だの竜飛だの青森だのと一週間ほどの津軽の旅を終えて帰ったようだ。今から思うと、多分に一緒に来た女の子に影響されたのではないかと思うが、確かめるすべもない。越後は、三十代半ばにして突然この世を去った。(畏友越後暁彦のことをいつか書き留めておきたいと思っていたが、思いがけなくこれでかなった。読者には迷惑だったかもしれない。飛ばし読みしてくれてよかった、といっても遅いか。)
太宰の読み手としては全く失格者である僕がなぜ太宰かと言えば、加藤らの論争に興味を持ったところで、その論につられて太宰とつきあうはめになったというのがほんとうのところである。そして「敗戦後論」からしばらくたったこの年初に加藤の新刊「大宰と井伏」を手に取ることになったというわけである。
この本は、「敗戦後論」の加藤の立場が作家の側にいたのに、いまはそれを客観視できるようになったという心境で書かれたものである。これは微妙な差といわざるを得ないのだが、加藤は久しぶりに「人間失格」を読み直して、「一つの問題が解かれないままに残っている、という感じを受けた」と書き出している。問題は二つの言い方が可能だという。一つはこの時なぜ心中という形であれ、大宰は死ぬことになったのだろうということである。もう一つは「人間失格」を読むと「何かぎりぎりのところで正直に語られている」という読後感を持つのだが、それが書いた直後の大宰の自殺に何か関係があるのか、あるとすればどんなことなのだろうかという問題である。
この加藤の問題提起自身が若干ひねこびていてわかりにくいのだが、結局「敗戦後論」の基盤の上に立って、再論を試みるという趣のものであった。井伏と並べたところはおそらくというか明らかにというか猪瀬直樹の「ピカレスク太宰治伝」(2000年小学館)を意識したのであろう。
猪瀬がこれを書いた動機についてはよく知らないが、大宰が、心中した山崎富枝の部屋の屑篭から出てきた「みんないやしい、欲張りばかり。井伏さんは悪い人です」という奇妙なメモ書きを知って芽生えた「太宰治とは何者か」という興味を追求したのではないかと思われる。猪瀬はこの前に、三島由紀夫伝も書いているから、あるいは小説というものを作品と作家自身を切り離しえないものとして丸ごと批評しようと試みたものかもしれない。加藤の論文はそこからの引用ももちろん多い。そこで僕は、長く読むのをためらっていた猪瀬直樹のこの大冊も読むはめになったのだが、そういう事情で、この芝居を観る二ヶ月ほど前から頭の中が太宰治の小説というよりはドキュメンタリーで一杯だったのである。
このところ(2008年6月)読売新聞は「没後60年、大宰新風景」という特集記事を連載している。記事の一つは猪瀬に取材して、あるエピソードを紹介している。大宰を兄貴分として慕っていた壇一雄と一緒に熱海に遊んだことがあった。このとき宿のツケを払えなくて、大宰は壇を人質において金策に東京に戻った。待てど暮せど大宰は帰ってこない。借金取りと壇一雄が鬼の形相で東京に乗り込むと、大宰は井伏鱒二の家にいて、二人で将棋を指していた。このとき大宰は「待つ身がつらいかね、待たせる身がつらいかね」とつぶやいたというのである。「この開き直りはなかなか出来ない。こんな友達がいたら本当にいやだね」と猪瀬はいう。こういう逆説的なことを平然と口にする悪漢ぶりがむしろ大宰の本当の姿ではないかと見ているのである。
読売の特集は、没後60年の祥月命日にあたるということでこの六月に行っているものだろうが、この猪瀬のような見方を紹介するのはやはり時の流れであろう。「ピカレスク」というタイトルは冗談でも皮肉でもない。猪瀬は太宰治をそのものズバリと見ているのである。ここでは、太宰の一生を克明に追跡している。とりわけ、太宰を取り巻く女性、一つの自殺未遂と三つの心中未遂事件、そして最後の心中と何とも壮絶な女性関係が遠慮会釈もない筆致で暴かれる。興味のある方は読んでいただくしかない。
前おきが長くなったが、このような次第で、劇を見る前に太宰の年譜が一通り頭の中にあったために評伝劇としてこれでいいのかと思った次第であった。
この劇は昭和五年、津島修治( 岡本健一)二十二歳のときから始まる。弘前高等学校を卒業して東京帝国大学文学部仏文科に進学した春、高田馬場駅近くの下宿屋「常盤館」で同宿になるのが山形高等学校から帝大経済学部に入った佐藤浩蔵( 山西 惇)と麻布中学出身早稲田大学文学部の山田定一(甲本雅裕)である。三人は当時の学生の流行とも言うべきプロレタリア思想にかぶれていて、芝居っけのある山田が言い出したものか風呂敷を広げて幕とした「ふろしき劇場」なるプロパガンダ劇をあちこち上演して歩いていた。「人々に食べ物と仕事と自由を!」とか「貧しき人々よ、団結を!」というわけである。
弘前高等学校は、太宰が入った年には既に卒業していたが、田中清玄という筋金入りの左翼運動家がいことがあって(後に右翼に転向)校内は依然としてその影響下にあった。太宰も同人誌を通じてそのシンパサイザーの立場を表明しようとするが、大地主の倅と言う自身の矛盾した立場に常に悩まされ続けることになる。帝大に入ったばかりのこのときにもその延長上(共産党に勧誘された)でけったいな左翼運動をやっていたということなのである。
第二場の「クロネコ行動隊」は、同じ年の秋、いよいよ日本共産党の細胞の構成員として運動を本格的にはじめる様子が描かれる。そして第三場、「本所向島の貧民街長屋」(昭和七年春)では、当時はやった「「人民の海へ」「労働者の中へ」などのスローガンに見られるような、より実践的な運動へとのめり込んでいくことになる。「立て飢えたるものよ、今ぞ日は近し・・・」と長屋のかみさんたちが歌う場面は滑稽だが圧巻である。
劇ではこうだが実際のところはこんな生真面目な労働運動家などではなかった。大学に入学したこの「ふろしき劇場」の頃に、弘前高等学校に入学した年、青森の花街に通ううちに知り合った芸妓、小山初代が上京、結婚する(入籍はせず)ことになるのだが、そのため実家とは義絶の仲になってしまう。小山初代が結婚の準備のためいったん青森に帰った後、おそらく勘当されたことが原因で、銀座のバーの女給田部シメ子と鎌倉七里ガ浜で心中未遂事件を起こしている。(田部は死亡)翌年には小山初代と同居を始め、共産党へは劇で描かれるほどではないにしても危険を顧みない協力をしていた。つまり、この三つの場では、小山初代の存在は完全に消し去られている。
第四場は「東京武蔵野病院第二病棟」(昭和十一年)である。唐突に時代が飛んでしまって、とまどうところである。作家は、薬(パピナールなど)中毒になって治療のために隔離病棟にいる。ここに官憲に追われている佐藤浩蔵が現れて、それをかくまおうとてんやわんやの大騒ぎになるという話だが、なぜ隔離されてしまったのかいきさつについて劇は何も語らない。
しかし、実際の太宰はここが精神病院であることを知って、少なからずショックを受けていたらしい。妻初代が面会に訪れても門前払い。初代は毎日通ったが一度も会えずじまいだった。それどころか、この時、最も精神的に不安定になっていた初代が病院から追い払われた帰りに訪ねた家で、義弟と姦通するという事件があって、これに気づいた太宰の心を深く傷つけることになる。
第五場は「かぞえうた」(昭和十七年)。三鷹下連雀にある修治の家を実家の番頭中北芳吉( 辻 萬長)が訪ねている。世の中はまさに軍国主義一色。中北は国のためになるような小説コを書いてくれよと、修治を励ますのに苦笑で答える。しかし、樋口一葉、 肺結核、 二十五。正岡子規、肺結核、三十六。長塚節、喉頭結核、三十七。と数え、自分の死期が迫っていることを暗示する。
このころ、小山初代とは既に離婚し、昭和十四年に井伏鱒二のすすめで見合いした石原美知子と結婚、十六年には長女園子が生まれている。おそらく太宰治の生涯で最も穏やかで充実していた時期ではないかと思われる。
そして第六場の「仙台の青木屋旅館調理場」はこの芝居のハイライトともいえる場面である。今や旅館の板前に身をやつした佐藤浩蔵が、調理場で宿の女将さん( 馬渕英俚可)や女中のふみ(田根楽子)と話しているところへ太宰治と中北芳吉、それに舞台役者で座長になっている山田定一が連れ立って入ってくる。小腹がすいたから調理場でいいから何か食わせてくれというのである。偶然とはいえ、飛び上がらんばかりに驚いたのが佐藤浩蔵。官憲に追われる身で、宿の女将さんに正体がばれたら、ここを逃げ出さなくてはいけない。名乗り出たくても名乗れない。大きなマスクで顔を隠しなんとかその場を切り抜けようとあがく佐藤。井上ひさしが最も得意とするぼけと突っ込みの喜劇である。
この年、先に書いた「津軽」が書かれている。さらに言えば、後に一児をもうける太田静子に出会っている。
第七場「津軽金木の金木劇場楽座」は、終戦後疎開していた金木での出来事である。実家を継いでいた兄は農地改革で大部分の土地を失い、もはや津軽の大地主とはいえない状態であったが、戦後新憲法のもとで初めて行われる衆議院議員に立候補して選挙運動の真っ最中である。ここに昔のよしみで、山田定一一座を呼んで、選挙民を招待しようという計画である。「津軽選挙」とは別名買収合戦とまで言われた金の飛び交う選挙で、中北はその音頭取りである。あれだけ戦に勝たねばと言っていた中北はころっとかわって、これからは民主主義だと何食わぬ顔で言う。このあきれるばかりの身のかわりように修治は言うべき言葉もない。呼ばれた山田定一劇団も昔日の勢いはなく内部にはどうやら寒い風が吹いている。
こうして並べてみると、井上ひさしは、意地でも女の話題に触れまいとしているように思えてくる。強調されているのは、戦前の左翼運動に関わった太宰の姿と中北芳吉に代表されるような日本人の変わり身の早さである。あえて言えば、学生時代の友情が戦後まで持続したという心温まる物語である。しかし、これにはモデルになるような話はどこにもない。津島修治は少なくともそういう人間関係を持たない。むしろあれだけべったりとつきあっていた井伏鱒二が登場しないのも変な話である。
僕は、井上ひさしが太宰の女とのドロドロした人間関係について触れまいとしたことは大正解であったと前回公演の劇評に書いた。語ったところで面白い話にはならないと思うから、それはそれで否定する気はないが、果たして太宰治を語る物語としてこれでいいのかという疑問は残る。
ひょっとしたら太宰治という小説家を目の前においてどう料理しようかと思案しているうちに、書いたとたんに血が噴き出してくるようなやわな肌合いを感じて、そこはなるべく避けて虚実混ぜながらむしろ彼の小説の手法を写し取ることに腐心したのではなかったか。その結果、中途半端な左翼運動とそれを弾圧する軍国主義、終戦後の日本人の節操のない変身ぶりという井上自らのいつものパターンを踏襲することになってしまったのではないかと勘ぐるのでは、げすといわれるかしら。
でも、エピローグで「明るい働く青少年」が現れて、若き日の太宰の運動が無駄ではなかったことを告げる場面を用意し、夜中の屋台の椅子でつっぷしている男の背中に語りかける独白に鎮魂の心を込めたのは、劇の中の太宰ではなくてむしろ太宰の生涯に対してであり、それが井上ひさしの太宰評だった。この屋台の親父の台詞は言外に「実は私はあなたを理解してますよ。女のことだってみんな私は知っています。だけど、あなたを語るにはこんな物語にする他ないじゃありませんか」と込められているような気がするのだが、そう思えば「これでいいのか」という疑問を帳消しにしてもいいような気になってくる。水音が高くなってやがて闇に消えていくこの舞台の最後の瞬間に、「太宰治」という作家の本質にある「叙情性」を称揚したのだと解釈するのでは、この劇評はどこか矛盾しているといわれるかもしれない。

 

 

 

 

題名:

人間合格

観劇日:

2008/02/15

劇場:

紀伊国屋サザンシアター伊国 

主催:

こまつ座

期間:

2008年2月10日〜3月16日

作:

井上ひさし 

演出:

鵜山仁 

美術:

石井強司

照明:

服部基 

衣装:

中村洋一

音楽・音響:

宇野誠一郎・深川定次

出演者:

岡本健一  山西 惇  甲本雅裕    辻 萬長  田根楽子  馬渕英俚可

 

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