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「屋上庭園」「動員挿話」
05年の秋に上演したこの作品をスタッフもキャスティングもそのままにして再演するものである。岸田国士の名は演劇賞で知られている程度で没後戯曲はあまり取り上げられていなかった(と思う)。当時は栗山民也芸術監督であったが、作品の紹介文によるとこれを次のような理由で取り上げたとということである。
「(新国立劇場小劇場の)小空間をとおして、演劇の持つ言葉の力と、俳優の存在を間近で体感できる企画『THE LOFT〜小空間からの提案』。今回は近現代に誕生した多くの戯曲の中から今の、さらに次の世代へと残すべきものを厳選し、新しい視点からその可能性を追求します。文学座の創始者のひとりでもあり、その名を演劇賞にも残す、岸田國士(1890−1954)は大正・昭和期に活躍し、現代人の生活感情に密接な演劇を求め続けました。その名作の中から短編2作品をとりあげます。」
「屋上庭園」はせいぜい四十分程度の短編で一つの興行としては成り立たない。そこで一時間ちょっとの「動員挿話」と合わせてちょうど良い長さにしたという訳だ。時期的にも二つの戯曲は昭和の初めに相次いで発表されたものである。
「演劇の持つ言葉の力」あるいは「俳優の存在を間近に体感できる」という点でも「現代人の生活感情に密接な演劇」と言う点でもこの選択は正しかったと思う。
何しろ二つの戯曲、どちらも明快である。俳優が型にはまった演技を見せるのではなく、俳優の身体がその中に存在する感情をごく自然に表出する。逆から見れば言葉と仕草で俳優が演じる役の感情が見える。そこに観客は参加しやすい。
前回の劇評で僕は次のように書いている。(前回劇評)「屋上庭園」について。
「宮田慶子が演劇学校の先生に見せるように丁寧に心配りしながら磨きあげた。書かれたせりふの内容をどのように解釈し、声と身体でどのように表現するか、まるで教科書でも見ているような正確さであった。」
これほどあからさまに「わかる」芝居であるが、ややもすると演劇的な面白みに欠けると指摘したが、それは描かれた登場人物の性格と取り巻く状況が戯曲(に書かれたもの)以上には出ていないという意味である。もともとこれだけ短い人生スケッチのようなものでは無理かもしれないが、そこはかえって演出家の手練手管の見せ場で、今少し工夫がほしかったと思った次第である。
「動員挿話」については次のように書いた。
「演出の深津篤史はこれを反戦劇に仕立てようとした。昭和二年にこの芝居を反戦劇と解釈して上演したらどうなっていただろう。大正デモクラシーの余韻は残っていただろうが、満州事変まであと4,5年のきな臭い時代である。知れたものではない。
舞台奥に大きな黒板のような壁を上手から下手にかけてつるしおいた装置である。下手に馬がいる。明かりが入ると一人の男が壁に向かっている。チョークで旗を書いているのだ。日の丸を丁寧に書いては次の旗にとりかかる。これは従卒の太田(太田宏)でこの家の主、宇治少佐(山路和弘)の部下である。壁のほぼ全体に日の丸を書いて太田は立ち去る。この日の丸は、やがて少佐夫人鈴子(神野三鈴)によって一つ一つ消されていく。こういう場面が初演当時あったはずがない、と僕は思う。深津の工夫に違いない。」
初演当時(昭和二年)の批評を読むとこれを反戦劇と思ったものがいた形跡はない。かえって、馬丁友吉(小林隆)の出征をかたくなに拒んだ女房数代(七瀬なつみ)の行動は一種のパラノイア、性格破綻であるとかなり憎々しげに書かれている。数代が当時は珍しかった女学校出であることから、批評の矛先は女の教育は考えものだという方向に向けられそこに行き着いてしまった感がある。そこから先は、岸田国士がどう考えていたか知る由もなかったから言及しなかった。
しかし、それでは作者はフェミニズムに対抗して女権は抑圧されてもいいと考えていることになるが、果たしてそうなのか?そんなはずはないと考えるのが常識というものだ。僕はただ単に「こういう極端な考え方も世の中にある、それが人間というものではないか」という意味にすぎなかったのではなかったかと思った。そこに反戦という「イデオロギー」が介在する余地はない。
ところが、反戦劇と解釈することがそれはそれで受けたらしい。その証拠にこの公演は、読売演劇大賞優秀作品、優秀演出家賞(深津篤史)や主演女優賞(七瀬なつみ)をいくつかとっている。かなり評価が高かったのだ。
僕は、この二回目の公演については、スタッフも俳優も変えていないこともあって、前回の劇評に付け加えるべきものは何もないと思っている。
しかし、これが(読売演劇大賞)優秀作品ということには強い違和感を覚えた。演出家や俳優は誰が受賞しようと個人賞のことだから異を唱えるものではない。ただ作品賞についてはそうはいかないと思うのだ。作品という限りまず戯曲が問われるはずである。この劇がなぜ「作品賞」であったのか?八十年も前に書かれた劇がなぜ今作品賞なのか、はなはだ疑問である。
このふたつの戯曲、それぞれを見ていこうと思う。まず「屋上庭園』であるが、どう解釈しようとここには主題らしきものが見えない。貧乏な文士志望の男と成功した金持ちの旧友がデパートの屋上で出会って金の無心をする。誇りを傷つけられたと思った男が金を返す話である。こんなことは日常的なありふれた風景で取り立てて何かの意味があるとは思えない。当時からして文士にまともな収入のあるものなどいない=役に立たないという意味でやくざ、とか言う説明はまるでない。そこにフォーカスしたものではない。消費の象徴のような百貨店の屋上というのも社会批評というよりは登場人物の格差を表すための道具立てにすぎない。ここにあるのは、ただ細やかな心理描写とそれを表出する丁寧に磨き込まれた言葉である。
主題もないのになぜ劇は成立したのかといえば、昭和二年の岸田国士にはこういう戯曲を書く必要性があったからだ。あえて言えば、この戯曲を世に問うことが彼にとっての主題だった。このことは後で説明することにしよう。
もう一つの「動員挿話」にははっきり言って反戦という主題どころかその気配すら感じられない。こういう解釈は無理矢理後で演出家が部分的に強調してみせた結果である。数代にしても少佐夫人鈴子にしても戦場に親しいものを送り出すものの気持ちとして戦争がなければいいというのは理解できる。ヒューマニズムという観点から言ってごく自然の感情である。しかしだからといって、例えば従卒の太田が描いた日の丸を丁寧に消していく鈴子の態度は一見国家を否定しているよう(イデオロギー)に見えるのだが、こんなことが職業軍人の妻として許されるはずもないし、ありもしない。ヒューマニズムなどというものは反戦にとって無力なものであり、あえていえば反戦はイデオロギーでなければならない。(現在の日本の演劇人はここのところを考え違いしている。ヒューマニズムは反戦思想ではない。反戦とは「ある立場」を選択する行動である。)軍人出身の岸田国士にイデオロギーとしての反戦を意識する必然性はどこにもないのである。
では岸田はこの劇で何を書こうとしたのであろう。
実は、同時期に書かれた上の「屋上庭園」にも通底しているのだが、当時の時代背景を下敷きにしてみるとそれが見えてくると僕は考えている。
この「動員挿話」の中心に見えるのは、極端にしたフランス流個人主義である。数代の態度は当時の批評家にとって性格破綻者と思われるくらい気違いじみている。八十年後の現代に生きる僕らの目には、滑稽、というか強調され戯画化された個人主義と映る。
昭和初年の岸田国士には「近代的個我=自己同一性」という概念がこの世に存在することを啓蒙する必要があった。なによりも国家と鋭く対峙することもあり得るのが近代的な個我だということを示したかった。近代劇が日本において成立するためには何よりもそれが俳優にとっても観客にとっても理解されなければならないと考えていたのである。その気概がこういう戯曲を書かせたのだといってもよい。
「屋上庭園」初演(大正十五年)当時の劇評に次のように書かれていたことを前回引用したが、あらためて採録する。「沢田(正二郎)の失敗者(並木のこと)は、恐ろしくテンポの速いせりふと、目まぐるしい動きが、何だか陽気な人間に見せてしまって、僻みとその底の寂し味を出せなかった憾みがある・・・」この言葉から万事大仰にやる新国劇の手法が伝わってくるようだが、この公演を実は岸田国士が見て感想を書いている。
岸田は自分の戯曲を他の劇団が演るのに批判がましいことを言うのは差し控えるべきだと考えているが、「演劇の当事者は勿論、その研究者、さらに一般観衆すらも在来の芝居に対して新しく起つてくる運動に自覚的な眼を向けなければならないのですから」広い視野に立って、「私は忌憚なく今度の沢田氏の舞台を見ての感想を述べませう。」と前置きして次のように書いている。
「今度新国劇で私の作である「屋上庭園」を上演したいといふ希望を伝へてきました。そこで私は先づ自分の立場を考へた。第一に私は、新しい演劇が、いろいろな意味で在来の演劇から区別されるためには、そこに新しいものを付け加へる以上に古いものを捨てなければならないといふ主張をもつてゐる。それがために常に俳優の演技に、根本的な革新を要求してゐる訳ですが、それならばさういふ俳優をもつてする新しい演劇はいつ生るべきかといふ問題に対して常に不安をもつてゐました。それで私は、新しい演劇の第一歩は、俳優の演技の基礎教育にあると信じて、自分の演劇における実際的努力も、勢ひその方に向けるつもりでゐました。さういふ訳ですから、未熟ではあるが自分の作品を既成劇団の手にゆだねるといふことは苦痛だつたのです。いかなる理由があるにしても、さういふ苦痛を忍んで上演を許したのは、何よりもたゞ一つのことを期待したからで、その一つのことゝは、甚だ嗚滸がましい言ひ草ではあるが、新劇といふものがそれほど退屈なものでないといふこと、更に新劇といふものの中には、日本の既成劇団が今まで持つてゐなかつたものを舞台の上にしめし得るものだといふことを、今まで新劇といふものに親しみのない観衆に知らせる機会を少しでも多くしたいからです。」
日本の既成演劇にたいして、新劇はいままでにない面白さを持っていると認められるには、「俳優の演技に、根本的な革新」が必要で、その第一歩は俳優の演技の基礎教育にあると信じている、ということなのだ。さらに続けて
「で、実際この目的を達する為には謂ゆる新劇の劇団では、ある大事なものを欠いでゐるのです。この大事なものとは、俳優が俳優として見物の心を掴む演技上の秘訣であります。」新国劇だけでなく既成の新劇(築地も相手にしているらしいとみてとれる)がその演技術において欠けているものがあると指摘していることは重要である。
そして新国劇に対しては「私は今日、新国劇の舞台を見て第一に感じたことは、この劇団が、いかに動きつゝある観衆の趣味に対して、痛ましい程神経質な眼を光らせつゝあるかといふことで、この眼の色は、慥かに観衆にある同情心を起させる。がこの同情心こそは、やがて見物をして芸術と絶縁せしむるものだといふ懸念を禁じられません。」
なぜかということを以下に続けて言う。
「第二に、作者が稽古に立会はない場合に、いかにその作品が舞台上で変形されるかといふことは、今更初めて感じたことではないが、その変形が、演出者の芸術的意識によらない場合にどういふ結果を生むかといふことであります。作品の精神を掴むといふやうなことは、実際容易なことではないので、かういふことは今、私が力瘤を入れて云つてみても仕方がないことだが、始終作品の精神を誤り伝へはしないかといふつゝましい演出者の努力は、少くとも作者に非常な好感を与へるものに違ひない。この点で新国劇は、やや作者の存在を忘れてゐる憾みがある。これはもし沢田氏自身から、直接意見を徴せられた場合には、明らかに言ふことを避けたい問題であらうと思ひます。抽象的なことは、こゝで言ふことを避けるとして、一度あの作品を活字によつて読まれた方ならば、沢田氏がいかに作者の苦心をした、台詞に対して、必ずしも鈍感だとは言ひませんが、甚しく無頓着であるかを認められるでせう。
第三は、あの芝居を見て面白いといふ人は無論あるでせう、そしてそれは、確かに沢田氏以下演技者の天稟の魅力、乃至は今日まで鍛へ上げた腕前の賜であるに違ひありません。しかし、あの芝居を見て詰まらないといふ人達のうちには、新国劇の将来最も依頼すべき人達がゐることを注意してほしい。謂ゆる芝居語には通じないのですが、一般に受けるといふやうな事柄は、少数のオンネート・オンム(honne^te homme=17世紀の教養人、 中村註)、モリエールの謂ゆる「立派な人」を除いた大多数に迎合するといふことならば、更に目をひろくしてこのオンネート・オンムを含んだ観衆全体に訴へ得る魅力を、この劇団に望むのは、私ばかりではないと信じます。」
多少奥歯にものの挟まった言い方にも見えるが、岸田国士が考えている「新劇」というものを沢田正二郎は全く理解していないではないか、という不満をかなり率直に、辛辣に言っているのだ。
これより少し前(大正十三年)に書かれたエッセー「築地小劇場の旗挙」を読むと
「日本にはじめて純芸術的劇場が建てられ、その当事者が、何よりもまづ未来に目的を置いて、根本的な演劇革新運動を起したといふことは、実に愉快である。」と書き出しているが、論旨は批判にある。
「僕は、築地小劇場の仕事に少し親みがもてなくなつた。満腔の同情を感じながら、どうしても退屈を禁じ得ない。これは悲しむべきことだ。つまり演出者の意図はたとへ承認すべきものであつても、その意図の実現に必要欠くべからざる材料の選択、準備、整理を怠つてゐる。僕は敢て怠つてゐると言ふ。なぜなら、それが根本的の問題であることを、知らない筈はないからである。それも、見てゐてくれと云はれゝば仕方がないが、家を建てゝから柱を削るやうなことを何故するのだらう。早く家が建てたい、建てなければならないなら、そして、柱を削つてゐる暇が無いなら、なぜ、丸太なり、荒削りなりの柱に応はしい家を建てなかつたかと云ふ疑問が起る。はつきり云へば、素人の俳優が演じても、それほど見つともなくないやうな、つまり、演り易い脚本を選んでなぜ上演しなかつたかと云ふのである。」
劇場を建てることが目的になって、その中身は全く整っていないではないかといっている。「あの程度の俳優があの種類の脚本を演じることは無謀である。あゝ云ふ種類の外国劇を現今のやうな蕪雑な日本語で演じることは頗る危険である。」とまでいうのである。今日この頃これだけけんか腰に論を吹っかけるものがいたら演劇の世界ももっと面白くなっているに違いないが、残念ながら、現代のオンネートオンムたちは「自分の考え」などもっていないから、与えられたものを受け入れるだけで、世界はすこぶる退屈なものになっている。
このエッセーの全編を紹介する余裕はないから興味のある方は全集にあたってみていただきたい。
論旨は、俳優の演技術が未熟であること、翻訳劇には日本語の言葉の問題があることを指摘し、その基礎を固める方が先決だろうと言うところにある。つまり、岸田国士には旧劇に対して「新劇」とはどういうものであるべきかというビジョンがある程度見えていて、そこを基盤に新国劇も築地小劇場も批判しているのである。
したがって当時の岸田国士には自分の考えている「新劇」とはどういうものか、身を以て示す必要があった。「屋上庭園」劇評の中にある「俳優が俳優として見物の心を掴む演技上の秘訣」とはどういうものか?築地に対する批判の中の「あゝ云ふ種類の外国劇を現今のやうな蕪雑な日本語で演じること」が無謀で危険ならば、どういう言葉で書かれた劇が「新劇」であるべきか?その具体的な形を見せる必要があったのである。
こうした背景のもとで、「屋上庭園」も「動員挿話」も書かれていることを思えば、物語性や物語の合理性(「動員挿話」=パラノイア的自己主張)が多少犠牲になっていることが納得いくのである。早い話が、「屋上庭園」などは見終わったあと、それでどうしたの?という気にさせる作品ではないか。
この後築地小劇場は主として翻訳劇を上演しながら社会主義的な傾向を帯びていき、岸田国士たちは別の道筋をいくことになるのだが(岸田は大政翼賛会の文化部長になる)、昭和初年のこの戯曲が書かれた時代は、大御所に対して不遜だと言われようがこういわざるを得ない、今から見ても「習作」の時代なのである。はっきりいって、俳優訓練の教科書見たようなものである。
そういう作品を新国立劇場が(名作と言ったのは血迷ったせいだ)とりあげたのは理由があってのことだからいいが、、読売演劇大賞優秀作品賞とは困ったものだ。選んだ先生方がどんな顔ぶれかは知らないが、不見識も甚だしい。いったい他に作品賞を授与するにふさわしい芝居はなかったのかね。こういうことだから新しいものが出てこないのだ。今日の演劇の革新を促すために猛省を求めたい。