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「父と暮らせば」

初演は94年、すまけい・梅沢昌代であった。これは見ていない。
その後、98年に前田吟・春風ひとみ、99年に沖恂一郎・斉藤とも子、04年には辻萬長・西尾まり、で見た。(劇評)今回が四度目になる。この間、黒木和雄がとった映画(04年)も見ている。
既に何回か劇評を書いたと思っていたが、前回04年(平成十六年)のが最初で最後だった。ずいぶんいろいろなことを考えたと思っていたから、探してみたが他にはない。三回分の集大成のつもりで書いたものだったと思う。
今度は、構成がすっかり頭にはいっているので、この場面の次はあれが出て、次はどうなってと筋を追う余裕があった。
最初見たときは、三年前に原爆でなくなった父親竹造(辻萬長)が何故いま現れたのかすぐにはわからなかった。 それは、娘の美津江が夕立にあって雷の光る中を帰宅すると、そこに「おとったん」がいたことにちっとも驚かなかったからである。 家に入って、ぬれた髪を拭きながら雷に身を縮めていると、押し入れから竹造がこっちに来いと声をかける。開幕の場面である。「おとったん、やっぱあ、居ってですか。」とごく自然に、父がそこにいるのが当たり前のように美津江は振る舞ったのである。
これは、父親が生きているような錯覚を起こさせる井上ひさしの工夫であったが、間もなく種明かしがされる。
父親がそこに出たのは、娘美津江(栗田桃子)に恋心が生まれたことがきっかけだというのである。その人を恋しいと思う心から胴体が生まれ、ため息から手足ができ、そのときめきから心臓ができたのである。父親は娘の心にぽっと暖かい灯がともるのを感じてこの世に現れたのであった。
もしも、図書館の司書として勤める美津江の前に、広島文理科大の若い教師、木下さんが現れなかったら、そして美津江の心に彼に対する好意が生まれ、恋の予感が兆すこともなかったら、竹造はこの世に出てくることもなく、この芝居もなかったわけだ。
それにしても、わざわざ竹造がこの世に現れたのは何をしようとしてなのか?恋の成就の応援のためというのはその通りかもしれない。娘の幸せな結婚を願うのは父親として自然の感情である。しかしそれだけなら世話好きのおばさんとか同じ世代の友人でもことは足りる。知り合いの恋愛に、妙に張り切る連中はいつの世でもいるものだ。
しかし、それが父親でなければならない理由はなにか?竹造が真に望んでいるものは何か?という謎が実はこの劇の牽引車になっている。
美津江は、あの朝出かけようと玄関先を出た。竹造が夏空の高いところをB29が一機飛んでいるのを眺めている。すると飛行機は何か銀色に光るものを落とした。「また、謀略ビラじゃろか」と父親がつぶやく。それに気を取られて、美津江は投函しようと思って手に持っていた親友昭子への手紙を落とした。拾おうと石灯籠の下にしゃがんだとき「世間(しょけん)全体が青白くなる」のを感じた。原爆が炸裂したのである。
親友昭子の消息を西観音町の家に尋ねると、岡山水島に生徒を連れて勤労奉仕をしていた昭子が、運悪く前の日ひょっこり帰ってきていた。母親が探し当てたときは既に赤十字支部の玄関の土間に並べられていたという。防空壕に臥せっていた母親もかなり重い傷を負っていた。よくきてくれたと手を取って喜んでいたと思ったら突然表情が変わって「何でうちの娘だったんだ。なんであんたが生き残って、うちの娘は死んでしまったのか」と嘆いた。間もなくこの母親もなくなったというから、瀕死の状態の中、かなり錯乱していたのだろう。しかし、美津江にとってその言葉は重く心にのしかかった。他にも大勢の同級生が悲惨な姿でなくなっていたのを知るにつけ、美津江は自分だけ助かったことに後ろめたさを感じている。
そこへ木下さんが現れた。お互いに惹かれあっていることは知っている。しかし、自分だけ幸せになっていいものだろうかという疑問が絶えず美津江の心を苛んでいるために、木下の好意に素直に応えることができない。
そこで、亡き父親の登場というわけである。竹造はそれはとんでもない心得違いだという。よりよく生きることが、原爆の死者たちに対する残されたものの責務ではないか。それには木下の求愛を受けるべきだ、それが父親の望みでもある、と説得するのである。
ところが、美津江は申し訳ないと思っているのは誰あろう「おとったん」に対してだというのである。これは劇もだいぶ進んで終幕近くに現れる場面。
あの朝、美津江は偶然石灯籠の陰に隠れたために助かったが、竹造は銀色に光るものが炸裂するのをまともに見てしまった。真ん中はまぶしい白でまわりが黄色と赤の気味の悪い色だったという。全身が何千度という熱線にさらされ、むき出しの顔は一瞬にして火ぶくれになった。と同時に秒速350メートルの爆風が家をなぎ倒し、親子は崩れてきた梁や柱や屋根の残骸の下敷きになった。美津江はどうにかはい出したが、竹造は木材に挟まれて身動きできない。必死で助け出そうとするが、火の手が勢いをまして迫ってくる。竹造は自分はもう助からない、お前は早く逃げろという。
美津江の心の底には、肉親を、父親を見捨ててしまったことへのわだかまりがあった。自分を許せないと思っていた。その思いが岩のように居座って動かない。それが木下さんの求愛に素直に応える気持ちになれない原因だった。
竹造がこの世に現れたのは、その岩を取り除くためであった。あのとき、自分のことはもう助からないと納得ずくだった。お前には自分の分まで生きてくれと願った。だからお前は「わしによって生かされている」。あんなむごい別れが何万もあったことを覚えてもらうためにお前は「わしによって生かされている」というのである。これが父親でなければならない第一の理由であった。
もう一つの理由は、このあと父親の説得をじっと聞いている美津江に向かって、もしもそれがわからなかったら、誰か他にわかるものを出せと叫ぶところにある。「誰か他に」とは「わしの孫じゃが、ひ孫じゃが。」という意味である。少し唐突に感じられるところだが、竹造の本音がここに現れている。竹造というよりは原爆による死者の魂が叫んでいるといってもよい。
竹造は自分の理不尽な死に対抗するには、子孫の繁栄をもってするしかないといっている。人間を根絶やしにしようとするものに対してはそれ以上に生むことである。焼き払われた森でも必ずどこかで命が芽生え、やがて草木に覆われうっそうとした森によみがえる。竹造の願いは自分たちの死を無駄にしないためにも、焼け焦げた大地に再び種を植え覆い尽くすほどに植物を繁茂させなければならないというものであった。すなわち核兵器によって人間の未来が閉ざされてはならない。それに打ち勝つために美津江は自分の気持ちに素直に従うべきだ。それがよりよく生きるということではないかと竹造はいいたいのである。
井上ひさしは、この劇を書こうと思った動機について、二つあげている。ひとつは、広島の原爆投下に関する昭和天皇の『広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえない』という一言(75年10月31日)。もう一つは、中曽根康弘首相(当時)が広島の原爆養護老人ホームで原爆症と闘う方々に『病は気から。根性さえしっかりしていれば病気は逃げていく』と語ったこと(83年8月6日)。これで彼はキレてしまったという。
このうち、昭和天皇がどんな文脈の中で言ったのか明らかではないので論評はしにくいが、これが一般の人の発言なら原爆の被害に遭わなかったものの正直な感想といえるのかもしれない。その一方でこういう意識が被爆者へのいわれなき差別を生む契機になったことは否めないのではないか?もちろん井上ひさしは、この劇でそのことには全く触れていない。
しかし、美津江がこのまま自分の気持ちを偽って、人目を避けながらひっそりと暮らしていかざるを得ないのでは被爆者としては二重の被害を受けることになる。
それに対抗して、自分の血を繋げ、つないで鬱蒼とした森を作るのだ。子を産んで子孫を増やせといえるのは美津江と血のつながった父親しかいなかったのである。
この劇は、既に英語に翻訳されているが、その後中国語、イタリア語、フランス語、ロシア語などに翻訳またはその予定になっているという。原爆の恐ろしさを語り継いでいくための格好の物語として多くの国で上演されることを願うものである。
美津江の栗田桃子は初めて見た。小柄で細いから子供のようだった。そのために少し暗い子がすねているようにも見えた。色気が足りないせいである。女が恋をしているときの情感があまり感じられなかったのは残念だった。ときめきは隠そうと思っても自ずから出てしまうものであり、美津江の場合理性がそれを否定し押し戻す。その起伏をもっと大きく表現すべきであった。
後で知ったが、文学座の女優で、蟹江敬三の娘だそうだ。青年座の蟹江一平とは兄弟で、役者一家である。少し見かけで損をしたが、もっとよくなる役者と見た。

 

 

題名:

父と暮らせば

観劇日:

2008/06/14

劇場:

紀伊国屋サザンシアター

主催:

こまつ座

期間:

2008年6月13日〜6月22日

作:

井上ひさし

演出:

鵜山仁

美術:

石井強司

照明:

服部基

衣装:

音楽・音響:

宇野誠一郎

出演者:

辻萬長 栗田桃子


 

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