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「下周村」〜花に嵐のたとえもあるさ〜

いやはや、合作だとは聞いていたが、前と後でこんなに違うものを見せられるとは思わなかった。なにしろ平田オリザなのだから、場所こそ中国四川省の奥地ながら、例によって劇は静かに始まり、大きな事件もなく淡々と日常が語られ進行していく。そのまま終るのかと思っていたら、途中で、三方を天井から蔽っていたホリゾントの墨絵がスルスル端に纏められるとその下から不気味な色の夕焼け雲が現れる。しかも空には中国人と思える数人が飛んでいて、そこにあったテーブルも椅子も中空に浮かび時空がゆがんだと見える。そこを境に、静かな演劇は饒舌で観念的で象徴的で詩的でさえある大芝居に変化するのである。明らかに作家が交代したとわかる。平田オリザは死んでもこんなふうには書かないだろう。というわけで、木に竹を接ぐようなものといえば否定的になるが、いっそここまでやるならかえって分かりやすい、これは木と竹なのだと思って見たら納得出来るというものだ。誰が合作をいい出したかはともかく、李六乙の方に全く妥協する(あるいは接ぐ)気配がないところに中国人の感覚が感じられて、これはもう大声をあげて笑ってしまうしかない。

李六乙がどんな人物かつまびらかではないが、彼をよく知る中央大学文学部教授、飯塚容によると、なかなか独創的な才人であるらしい。「61年四川省生まれ、父親は川劇の名優だった。中央戯劇学院の演出科を卒業後、中央芸術研究院で伝統劇を研究する一方、川劇、呂劇、評劇、京劇、歌劇の演出を手がけた。95年に北京人民芸術劇院の所属となってからは、現代劇の演出が中心となるが、経歴から分かるように伝統劇と現代劇の両方に造詣が深い。」(パンフレット「李六乙の演劇実践」より)この李六乙が2000年に、所属する北京人芸の院長、曹禺の「原野」を演出したところ「大胆すぎて」批判を浴び、昨年まで6年間も「ホされて」いたというのである。中国の演劇事情がどうなっているかは分からないけれど、それを聞いただけでもいかにも自己主張が激しそうという、その人となりが想像出来る。また、自身が「無語」と題してこの芝居のパンフレットに寄せた文章の中では「平田作品の特徴である『静かな演劇』も、私に言わせればチェーホフが百年前にやっている演劇スタイルで、現在の中国にもないということはない。」とさらりといい切っている。そうか、平田オリザはチェーホフをやっていたのかと思わず納得しそうになるが、しかし、平田の背後には日本の近代演劇百年の歴史が積み重なっている。言文一致、翻訳調の克服からもう一度言文一致に至るまで演劇表現の可能性を追求してきた日本の演劇人の営為が存在する。それは最新の成果の一つなのである。李六乙にはそこが見えていない。その程度の理解だから安易にあのようなひとりよがりな(礼を欠いた)発言になるのである。現代口語演劇理論の『静かな演劇』とは入り口から出口まで静かな演劇なのだ。この点「その河を越えて、五月」の共同作者、韓国の金明和は平田の方法論も、共同でまとまった劇を作るという作法もよく理解していたと思う。この差はなんだったのかと思わずにはいられない。

 さて、劇はあらまし次のような話であった。ただし後半は、漢詩のように韻を踏んでいるらしいせりふや、様々な概念、観念あるいは京劇やら古典劇の作法やらが怒濤のように押し寄せてきて、歴史観とか世界観について言及していることは分かったが、筋書きを追うのは無意味になった。例えば豚と龍という単語にいくつもの形容詞がつく中国語はにわかには理解し難い、といったところがある。

下周村(架空の村)に日本の企業が進出して工場を建てようとしたところ、遺跡が見つかった。一説によると五千年前のもので黄河文明に匹敵する規模ともいわれ、確かなら教科書が書き換えられるかも知れないというのである。それに関係するのか、この村の周辺では昔から発掘品の偽物商売が成り立っていた。調査は成都に拠点を置いて進められているが、現場にある宿屋に泊まりがけできているものもいる。舞台は、その村に一軒しかない宿屋兼茶房の店先である。

どんな考古学的発見があるのか?遺跡は保存され、日本企業の進出はなくなるのか、それとも遺跡より工場建設が優先されるのか?下周村の未来が、産業がどう変化するのか、それによって暮らしは随分変る筈である。

女主人、林麗花(陳?)は偽物商売で逃亡した夫の帰りを待っている。そこへお茶を飲みにやって来る様々の人々がいる。それぞれ遺跡の発掘について思惑があり、様子を探っている。農民の三爺(果静林)は先祖が贋作作りをやっていたようで、三百年前の贋作ならいまや立派な骨董だろうと偽物商売を正当化しようとする。歴史といっても素性は怪しいものだという謂でもあろう。何年か前に贋作を日本人に高く売りつけたことが自慢だ。それに対して暇人といわれる玩家(昔の高等遊民のような存在か?)の普耳(薛山)は、骨董にも考古学にも興味や知識を持っているが、貿易商とか名乗っているわりには格別商売熱心というわけでなく、世の中から超然としているように見える。また、考古学者の呉若水(于洋)はじめ、調査には日本から大学院生の五十嵐由美子(能島瑞穂)桜田好恵(粟田麗)も参加していて、彼らは村の一軒しかないこの宿屋に泊まって調査を続けている。

そこへ日本の工場進出予定の会社から笹岡(佐藤誓)が、部下の林暁華(劉丹)と通訳(王瑾)を伴ってやってくる。工事の再開ができるかどうか見にきたのだ。実は林暁華は宿屋の女主人の妹である。妹は金のために日本企業に勤めていることや故郷を捨てたことに少し後ろめたいものを感じているのか、姉が引き止めるのも聞かず早々に立ち去ろうとする。笹岡にしても、様子を見にきただけでたいした用事があるわけではない。中国人がいやがる開発をあえてする気は無いといって友好的なところを示して帰ろうとする。この時笹岡に三爺が「明代の鼻毛切り」なるものをプレゼントしたあげく、他のものを売りつけようとしたのには笑ってしまった。

笹岡たち一行が帰ったあと二人の中年夫婦が訪れる。桜田剛史(篠塚祥司)と弥生(内田淳子)は、ここで発掘調査をやっている娘の桜田好恵を訪ねてきたのだ。林麗花が呼びにいってやってくるが様子がおかしい。あまり会いたくないという態度だ。実は、弥生は後妻で、好恵はこの結婚を認めたくないらしい。実母とは生き別れだからなおさらである。弥生は夫を病気で失ったあと父親のいる会社に勤めていて知りあった。娘が北京へ行ってさらに四川省の奥地に入ったきり半年も帰ってこないのは自分たちのせいだと思っている。結局、好恵は「分かっていても受け入れられないことがある」といって、和解を暗示して彼らを帰してしまうのだった。

好恵と五十嵐由美子が考古学に興味を持ったきっかけについて、高校時代、教師に宮沢賢治の詩を読んでもらったことだったなどと話しているうち、考古学よりもその教師が好きになったからではないかと好恵に指摘され、まんざら違ってもいないらしいと分かる。なんともたわいのない話が続いていると、突然ゴォーという地鳴りの後に、大声が聞こえる。「崩れてしまった。村の西外れにある二爺さんの家の、棟上げしたばかりの梁が崩れた・・・」そこから三方を囲っていた墨絵のホリゾントが夕焼け雲に変えられ、椅子と、テーブルが引き上げられて空中に浮遊し、照明も薄暗く強い色彩を帯びる。登場人物は全員舞台に上がり、思い思いの方角を向いて佇み、あるものは岩に腰かけあるものは地べたにすわる。ルネ・マルグリットのシュールリアリズム絵画を見ているようだ。

三爺がわめきはじめる。「鶏が屋根に乗った。豚が柵の中で発狂している。」「ここは歴史を変える王国だ。黄土の下で何千年も眠っていた下周王国がいま生きを吹き返した。」「俺の姓は周、わが家は下周村にただ一つ残っている周氏一族、周氏、皇族、周文王、周武王の子孫、下周国は私の国だ・・・」「俺は豚年、今年は俺の歳だ。教授が豚を見つけた。空を飛べる金の豚だ。いや教授が見つけたのは文明だ。だがもし俺が文明の豚になることで歴史を変えられるのならそれもまた本望だよ。」「一匹の金の豚が引き起こした歴史の大妄想か?」突然何を言い出したのか、これでまともなことを受け止めることは不可能というものだが、どうやら今や三爺は、歴史と王国の所有権を主張しているらしい。それが一通りすむと今度は、桜田好恵と継母の弥生が話しはじめる。好恵が、理屈では分かっていても許せないことがあると反復すると、変えられない過去もあるでしょう、とお互いが応える。父親が、彼らの背後にいてそれを繰り返すという幻想的な和解の場面が展開される。日本と中国の関係を暗示しているのか?その中に「三星堆」の博物館を訪ねる会話がでてくるが、それは成都から四十キロの郊外にある遺跡で現在も発掘が続けられているという。出土品から見て四大文明の一つである黄河文明と同じ時期に栄えた極めて高度な文明と推定され、二千年続いた後忽然と姿を消したものである。他に類を見ない青銅製の大きな仮面が特徴的で、全貌が解明されれば歴史が書き換えられることは確実である。この芝居の根拠のひとつになっていると思われるが、真偽のほどは怪しいとするものもいるらしい。

三爺の妄想を表すせりふに見られるように、この後は登場人物が入れ替わり立ち替わり、あの速射砲のような中国語で大演説をまき散らすことになる。

例えば犯罪者(林熙越)を追いかけてきた潜伏警察の男(韓青)の発言は象徴詩のような調子である。

「お前を追うこと丸十年。乞食を装い、出稼ぎに扮し、ねずみ講をやり、保険を売り、列車のただ乗り、軒先で眠り、盲人占い師に、托鉢の坊主に身をやつし・・・・・・次の年の六月、西安を通って敦煌伊犁タリムへ芭蕉の団扇はなかったがやっぱり越えた火焔山。アフガン、パキスタン、ミャンマーそして天竺インドでやっとお前を見つけたよ。再びシルクロードを歩き中近東の大油田地帯に潜り込み、チグリス・ユーフラテスをわたってイラクに至る。イラクでは核実験と出くわし、鑑真和尚が東へ渡った航路で日本へ、舵手にまかせて徐福が秦の始皇帝のために長寿不老の薬を探した航路を遡って帰ってきた。」

要するに中国四千年にわたる文明史を一筆書きにして見せて、それが何であったか、とりわけ現代における周辺国との関係を含んで、その歴史及び現代中国とは何かを問うて見せているのであろう。このモチーフは黄河文明よりもさらに千年古い「紅山王国」(ここからも仮面が出土する)の存在にも言及するなど、作家が繰り返し取り上げようとしている主題である。歴史と文化、それとも開発と解放かという問題はとりわけ劇がこのようなテーマを含んでいる場合深刻な議論になるところだが、そこを詩的な表現で巧妙に避けているところがうまい。それに、合いの手でも入れるように「本当に中国の人は工場が建てばいいと思っているのか、それとも歴史公園のようなものの方が観光客も呼べて商売繁盛すると思っているのか」という日本人の会話が挿入される。日本人としては、そのどちらでもかまわないと思っている。中国人が選択すべき問題だといっているのだ。それにつけても思い出すのはト小平の言葉である。彼は改革開放路線を決めて、こういったのである。「中国人は四千年我慢してきたんだ、もうここいらで多少楽をしてもいいのではないか。」と。もう引き返すことは出来ないと思いながら、どこかに西欧的な豊かさをそのまま受け入れていいかどうか疑いがあるということを示したいのであろう。

しかし、それらの議論を打ち消すように、暇人の普耳が、突然仙人のような発言をしはじめる。世の中のことは真と思えば真、しかし真すなわち偽である。真も偽も気にせず気ままに遊べばいいではないかと。天には創造主がいるという。しかしその人はその人にあらず、そのまた天の上には天の宇宙人がいる。無窮無尽の黄河の水は天よりきたり。お茶を飲みましょう、お茶を・・・。宇宙の円環は閉じられており真理は「遊」の中に、お茶を楽しむことの中にあるとでもいいたいのだろう。その間に、唐突に客席に真っ白い仮面をつけた男が現れる。よく見ると三爺であった。遺跡から出土する仮面、それをつけた古代の人にあやかろうとしているのか?まもなく本物の仮面男が遺跡から出てくるといっているようだ。どうやら遺跡からやがて出てくるであろう仮面の男にそれがほんものであるならば、すべてをゆだねてもいいのではないかということのようだった。公園にすることも、工場を建てることも、そしてなにもしないことも。

終幕の前に、佐々岡が杜甫、李白の詩を取り上げて暗唱すると、その日本語をどう翻訳したらいいのかとまどう通訳の姿に、日本人と中国人お互いが一体何を分かりあってきたのだろうという感慨が湧いた。随分違う訳だと通訳が指摘したのだ。それにつけてもサブタイトルの「花に嵐のたとえもあるさ」が気になっていたのだが、というのも、これも漢詩の「勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離」(唐の詩人、干武陵「歓酒」)に井伏鱒二が付けた訳「この杯を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ 花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ」から取っているからだ。ところが平田オリザは1992年に工事現場で遺跡が発掘されて工事が進められなくなった飯場の一日を描いた作品を書いていて、そのタイトルが『さよならだけが人生か』だったというのをインタビュー記事で知った。まあ、それならあんまり考えすぎなくてもいいのかな。

さて、中国人の作品はいくつかみてきたが、どこか共通する特徴があると思った。「棋人=チーレン」(作:過士行、99年7月新国立劇場)「ザ・ゲーム」(作:イオネスコ、翻案:ジム・チムJim Chim、04年9月新国立劇場)「留守太平間」(作:莊梅岩、04年7月シアターΧ)「カエル」(作:過士行、06年4月新国立劇場そしてこの作品である。「留守太平間」(これは香港)を除いて皆抽象的で観念的、難解な作品ばかりである。「留守・・・」も結局幻想的な話であって見れば、それが現代中国演劇の流行なのかとも考えられる。それにしてもこんなに分かりづらいものを中国の観客は好んで見るのであろうか?それとも中国人の思考回路や教養は僕らとは違うのであろうか?中国には、伝統古典芸能は数多くあったに違いないが、西欧の演劇を取り入れた歴史はある筈だ。その輸入はどんなふうに行われたのか、そしてどのように発展してきたのか、ということをこの劇を観ながら考えて、おそらくこの状況はどこかへ向かうプロセス、通過点ではないのかという気がしていた。

見終わった後で、パンフレットに大笹吉雄が寄せた「中国話劇の誕生」という一文があったので読んでみると、その前史がわかった。「中国話劇成立史研究」(瀬戸宏)なる大著があるそうで、大笹はそれによって書いているのだが、話劇とは「共通語による対話を駆使して物語を作り、日常的な、等身大の人間を写実的に舞台に現出するのが」その核心だとしている。そのきっかけを作ったのは日本の新劇であった。辛亥革命前後に中国から多数の留学生が日本にやってきたが、その中に日本の新劇運動に共感したものがいて、中国の演劇にも革新が必要と考え、わが国の芝居を中国に持ち込んだということらしい。ただし、日本の新劇が「ありとある主義主張を飲み込んで闇鍋のような様相を呈してきた」(大笹)のに比べて、話劇ははるかに幅が狭いとしている。前史は分かったが、その後社会主義リアリズムの共産中国を経て、どのように現代に至ったのかはよくわからない。

この劇を作っているスタッフも俳優も中国国立の養成機関を卒業して、国立の劇団に所属する者たちである。観客が理解しようがしまいがおそらくあまり気にしなくてもいい立場だろう。実際、李六乙は先のインタビュー記事の中で、芝居は「舞台を見ている観客の頭の中で創造される」ものだなどと無責任な発言をしている。さらに教養をひけらかすエリート臭も気になるところである。こういう傲慢な態度にはいささか不愉快になるが、国際交流は大事なことだから我慢して付き合うしかない。しかし、木に竹を接ぐような国際交流も結構だが、いっそ先の瀬戸宏の大著を翻訳してやるのも中国人には勉強になるのではないか。

最後に、下周村は四川省のどこかということだが、工場を造る土地が他にないということがあるのだろうか。遺跡がでたら、さっさと土地を返して他に移ればいいのではないか。工場がそこでなければならない必然性は、劇の中からは窺い得なかった。一体何の工場を作るつもりだったのだ。

 

 

題名:

下周村〜花に嵐のたとえもあるさ〜 

観劇日:

07/5/18

劇場:

新国立劇場 

主催:

新国立劇場

期間:

2007年5月15日〜20日

作:

平田オリザ 李六乙

演出:

平田オリザ 李六乙

美術:

嚴龍

照明:

岩城 保

衣装:

嚴龍

音楽・音響:

郭文景 嚴貴和

出演者:

篠塚祥司 佐藤 誓 内田淳子  粟田 麗能島瑞穂    果静  林陳? 韓青 于洋

林熙越  薛山  劉丹 王瑾

 

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